2006ソスN9ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2692006

 畳から秋の草へと続く家

                           鴇田智哉

本家屋には地続きの楽しさがある。お寺の離れに仮住まいしていた友人が、ある朝寝返りを打った拍子に頭に当たるものがあり、万年床をめくるとタケノコが生えていたという良寛さんのような話しも、畳と縁の下があればこそだ。家という器に、土や外気が接触している関係はまったく当然のことながら、掲句になつかしさを感じるのは現在の生活が、密閉され、孤立することを最優先に求めているからだろう。都心の建物は高層化の一途をたどり、いまや地上47階などという鳥の背中を見て暮らすようなマンションさえある。便利に慣れた身体には、高層で暮らす不安より、隣近所や通行人に覗きこまれ、解放される恐怖がまさるのかもしれない。現在間借りしているわが家は、タケノコこそ生えてこないが、築50年という年代ものの木造家屋である。台風で木戸が飛んでしまったり、瓦がずれて雨漏りしたりと、ときに小さな驚きもまじえながら、地続きの暮らしを楽しんでいる。ふと、部屋に敷かれた畳の生い立ちも草であることに気づいた。畳、大黒柱、障子、庭。どれも呼吸するひと続きの仲間となって手を取り合い、そこに暮らす人間をやさしく包んでくれている。『こゑふたつ』(2005)所収。(土肥あき子)


September 2592006

 山彦に遡るなり秋の魚

                           秋山 夢

識的に解釈すれば、「秋の魚」とは「鮭」のことだろう。この季節、鮭は産卵するために群れをなして故郷の川を遡ってくる。テレビの映像でしか見たことはないが、その様子はなかなかに壮観だ。「月明の水盛りあげて鮭のぼる」(渡部柳春)という句もあるので、昼夜を問わずひたすらにのぼってくるものらしい。本能的な行動とはいえ、全力を傾け生命を賭して遡る姿には胸を打たれる。この句、「山彦に」の「に」が実によく効いている。このとき山彦とは、べつに人間が発した声のそれでなくともよい。山のなかで育ったのでよくわかるのだが、山にはいつも何かの音が木霊している。しーんと静まり返っているようなときにも、実はいつも音がしているものだ。その木霊は、山が深くなればなるほどに鮮明になる。すなわち揚句の「秋の魚」は、山奥へ上流へと、さながら山彦「に」導かれ、引っ張られるようにのぼっているというわけだ。大気も川の水も、奥へ遡るほど清冽さを増してゆく。この句全体から立ちのぼってくるのは、こしゃくな人知を越えた自然界がおのずと発する山彦のごとき秋気であろう。『水茎』(2006)所収。(清水哲男)


September 2492006

 露の身の手足に同じ指の数

                           内山 生

たしたちは、自分の姿かたちというものを、日々気にしているわけではありません。大切なのは、手が、必要とするものを掴んだり運んだりすることができるかどうかなのであって、手に何本の指が生えているかということではありません。そんなことをいちいち考えている暇はないのです。あたえられたものを、あたえられたものとして、この形でやってきたのだから、それを今更どうしようもないわけです。ですから、自分の身体の中に、どんな矛盾や驚きがあっても、気づこうとしません。悲しくも、それらを含めてのいきものだからです。掲句、「露の身」とは、露のようにはかない身体ということでしょうか。まさに、露とともに流れ去ってしまうような不確かな肉体を携えて、生きているということです。この身体で自動改札を通り、この身体で夕日を浴びているのです。作者が気づいたのは、そのはかない身体の先端に位置する手足の指の数が、同じだということです。身体のはかなさが先端まで行って、行き着くところが上も下も、10本に枝分かれしているということです。枝分かれした先を見つめて作者が感じたのは、結局、わが身のいとおしさではなかったのかと思われます。その身をやわらかく抱きしめようとして動くのは、やはり自分の、腕だからです。『現代俳句歳時記』(1993・新潮選書)所載。(松下育男)




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