昨日は嵐の中を吹き飛ばされそうに歩きながら点から点へ移動。まだ隠居には遠い。(哲




2006ソスN10ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 07102006

 十六夜や手紙の結びかしこにて

                           佐土井智津子

秋は、近年まれに見る月の美しい秋だった。ことに九月十八日(十五夜)は、まさに良夜(りょうや)、名月はあらゆるものを統べるように天心に輝いていた。十五夜の翌日の夜、またはその夜の月が十六夜(いざよい)。現在は、いざよい、と濁って読むが、「いさよふ」(たゆたい、ためらう)の意で、前夜よりやや月の出が遅くなるのを、ためらっていると見たという。満月の夜、皓々と輝く月を仰ぐうち、胸の奥がざわざわと波立ってくる。欠けるところのない月に圧倒され、さらに心は乱れる。そして十六夜。うっすらと影を帯びた静かな月を仰ぐ時、ふと心が定まるのだ。一文字一文字に思いをこめながら書かれた手紙は「かしこ」で結ばれる。「かしこ」は「畏」、「おそれおおい」から「絶対」の意を含み、仮名文字を使っていた平安時代の女性が「絶対に他人には見せないで」という意をこめて、恋文の文末に書いたという。今は恋文はおろか、手紙さえ珍しくなってしまったが、そんな古えの、月にまつわる恋物語をも思わせるこの句は、昨年「月」と題して発表された三十句のうちの一句である。あの昨秋のしみるような月と向き合って、作者の中の原風景が句となったものだときく。〈名月や人を迎へて人送り〉〈月光にかざす十指のまぎれなし〉。伝統俳句協会機関誌『花鳥諷詠』(2006年3月号)所載。(今井肖子)


October 06102006

 梨剥くと皮垂れ届く妻の肘

                           田川飛旅子

調「写生」というのがあるとすれば、こういう句を言うのではないか。花鳥風月にまつわる古い情趣を「俳諧」と呼び、季語の本意を描くと称して類型的発想の言い訳に用いる。そんな「写生」の時代が長くつづいた。否、続いていると言った方がいい。子規が提唱した「写生」の論理はいつしか神社仏閣老病死の情緒へとすり替わっていった。ものを写すことの意味は「瞬間」を捉えることだ。なぜ「瞬間」を捉えるのか、それは、「瞬間」が「永遠」に通じるからだ。人は「瞬間」をそこにとどめることで「永遠」への入り口を見出したいのだ。それは「死」を怖れる感情に通じている。この句には作者によって捉えられた「瞬間」が提示されている。対象の焦点である「皮」を捉える精確な角度と描写。形容詞、副詞の修飾語を廃しての緊張した詩形。文体としての特徴は「と」にある。「写生」が抹香臭くなったのは、文体がパターン化したのも理由のひとつである。この「と」は従来の「写生」の文体の枠から出ている。『花文字』(1955)所収。(今井 聖)


October 05102006

 運動会の地面をむしろ多く見る

                           阿部青鞋

の頃は一学期のうちに終えてしまう学校も多いようだが、運動会といえば九月末から十月にかけて行われるのが相場。朝早くから学校に出向いて観客席を確保した経験を持つ人も多いのではないか。茣蓙やビニールシートをコーナーぎりぎりに広げたので、駆けて来る子が勢いあまって観客席に飛び込むハプニングもあった。地べたに座り込んで競技を追う目線を思うと「地面をむしろ多く見る」という捉え方はもっともで、そう言われて初めて土を蹴立てて走ってくる日焼けした脚や、スタートラインに並ぶ運動靴、競技と競技の合間のがらんとしたグラウンドなどが、現実味を帯びた記憶として甦ってくる。運動会を詠むのに運動会の高揚した気分や競技ではなく冷たい地面に着目する。「むしろ」という比較表現でその上に展開している情景を暗黙のうちに立ち上がらせる手腕。青鞋(せいあい)の句は固定観念にとらわれた見方をすっとずらし、在るがままの風景を見せてくれる。「水鳥の食はざるものをわれは食ふ」「ゆびずもう親ゆびらしくたゝかえり」『俳句の魅力』(1995)所載。(三宅やよい)




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