じりじりと迫る阪神。この重圧に耐えられるか、中日。追いかけるほうが気は楽なもの。(哲




2006ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102006

 秋高しなみだ湧くまで叱りおり

                           津根元 潮

情とは不思議なものです。自分のものでありながら、時として自己の制御の及ばないところへ行ってしまいます。この句を読んで誰しもが思うのが、何があったのだろう、何をいったい叱っているのだろうということです。「秋高し」と、いきなり空の方へ読者の視線を向けさせて、一転、その視線が地上へ降りてきて、人が人を叱っている場面に転換します。高い空をいただいた外での出来事であったのか、あるいは大きく窓を開けた室内のことであったのか。どちらにしても叱責の声はそのまま空へ響いています。「まで」という語が示すとおり、いきなり怒鳴りつけたのではなく、切々と説いていた感情が、徐々に自己の中でせりあがり、ある地点を越えたところで、涙とともに堰を切ってしまったようです。ひらがなで書かれた「なみだ」が、怒りでなく、叱るものの悲しみをよく表現しています。相手のことを思う気持が深いからこそ、叱るほうの感情も、逃げ場のないところへいってしまったのでしょう。その叱責は、どこまでも高い空の奥へ、生きることの困難さを訴えかけている声にも聞こえてきます。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


October 07102006

 十六夜や手紙の結びかしこにて

                           佐土井智津子

秋は、近年まれに見る月の美しい秋だった。ことに九月十八日(十五夜)は、まさに良夜(りょうや)、名月はあらゆるものを統べるように天心に輝いていた。十五夜の翌日の夜、またはその夜の月が十六夜(いざよい)。現在は、いざよい、と濁って読むが、「いさよふ」(たゆたい、ためらう)の意で、前夜よりやや月の出が遅くなるのを、ためらっていると見たという。満月の夜、皓々と輝く月を仰ぐうち、胸の奥がざわざわと波立ってくる。欠けるところのない月に圧倒され、さらに心は乱れる。そして十六夜。うっすらと影を帯びた静かな月を仰ぐ時、ふと心が定まるのだ。一文字一文字に思いをこめながら書かれた手紙は「かしこ」で結ばれる。「かしこ」は「畏」、「おそれおおい」から「絶対」の意を含み、仮名文字を使っていた平安時代の女性が「絶対に他人には見せないで」という意をこめて、恋文の文末に書いたという。今は恋文はおろか、手紙さえ珍しくなってしまったが、そんな古えの、月にまつわる恋物語をも思わせるこの句は、昨年「月」と題して発表された三十句のうちの一句である。あの昨秋のしみるような月と向き合って、作者の中の原風景が句となったものだときく。〈名月や人を迎へて人送り〉〈月光にかざす十指のまぎれなし〉。伝統俳句協会機関誌『花鳥諷詠』(2006年3月号)所載。(今井肖子)


October 06102006

 梨剥くと皮垂れ届く妻の肘

                           田川飛旅子

調「写生」というのがあるとすれば、こういう句を言うのではないか。花鳥風月にまつわる古い情趣を「俳諧」と呼び、季語の本意を描くと称して類型的発想の言い訳に用いる。そんな「写生」の時代が長くつづいた。否、続いていると言った方がいい。子規が提唱した「写生」の論理はいつしか神社仏閣老病死の情緒へとすり替わっていった。ものを写すことの意味は「瞬間」を捉えることだ。なぜ「瞬間」を捉えるのか、それは、「瞬間」が「永遠」に通じるからだ。人は「瞬間」をそこにとどめることで「永遠」への入り口を見出したいのだ。それは「死」を怖れる感情に通じている。この句には作者によって捉えられた「瞬間」が提示されている。対象の焦点である「皮」を捉える精確な角度と描写。形容詞、副詞の修飾語を廃しての緊張した詩形。文体としての特徴は「と」にある。「写生」が抹香臭くなったのは、文体がパターン化したのも理由のひとつである。この「と」は従来の「写生」の文体の枠から出ている。『花文字』(1955)所収。(今井 聖)




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