October 102006
とどまらぬ水とどまらぬ雲の秋
若井新一
秋霖(しゅうりん)と呼ばれる秋の長雨が明け、文字通り天高く澄み渡る青空になるのは、ようやくこれからの日々だろう。寝転んでいるのか、はたまた仁王立ちに空を仰いでいるのか、豊かな水が湧く大地と、薄く流れる雲に挟まれる心地良さを掲句に思う。作者は新潟県南魚沼市在住とあるので、おそらく無粋な電線にさえぎられることのない、どこまでも続く秋の空をほしいままにしているのだろう。正岡子規が「春雲は絮(わた)の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く」と記したように、ごつごつと伸びあがる夏の雲と違い、秋の雲は水平に風に乗って広がっていく。空色の画用紙にひと筆を伸ばしたような雲や、はるかかなたを目指す仲間たちのようなうろこ雲の集団が頭上を流れる様子に、ふと海の底を覗き込んでいるような錯覚を起こす。川は山から海へ向かい、雲は風まかせに流れ、地球も自転し、ひいては時間も流れているのだと思うと、人はこんなにも縦横無尽に動くもののなかで生きているのかと、めまいする気分はますます深まる。底が抜けたような空の青さが、心もとない不安を一層募らせるからだろうか。お天気博士倉嶋厚氏の著書のなかで「cyanometry(青空測定学)」という言葉を見つけた。青空を測定・研究する学問で、測定の一つに、青さの異なる8枚のカードと比較し、空の青さを分類していく方法があるのだという。もしかしたら、カードの一枚には「不安を覚えるほどの青」という色があるかもしれない。『冠雪』(2006)所収。(土肥あき子)
September 272014
豊年の畦といふ畦隠れけり
若井新一
新米が味わえるうれしい季節、電車で少し遠出をすればまさに黄金色の稲田が車窓のそこここに広がっている。農業技術が進歩し、全てお天道様頼みだった昔と違い豊年と凶年の差はさほどなくなっているかもしれないが、食べる一方で米作りの苦労を知らない身でも、豊年、豊の秋、という言葉には喜びを感じる。この句の作者は新潟生まれ、句集『雪形』(2014)のあとがきには「日本でも屈指の豪雪地帯で、魚沼コシヒカリを作っている」とある。<畦々の立ち上がりたる雪解かな ><土の色出で尽したる代田掻 ><霊峰や十指せはしき田草取 ><かなたまで茎まつすぐに稲の花 >。日々の実感から生まれる確かな句。ことに掲出句の視線の高さは、大地に立ち一面に実った稲田を見渡している者ならでは、見えない畦を詠むことで一面の稲穂が見える。早春、雪が解けてやっと立ち上がった畦が見えなくなるほどの今の実りを前にしている感慨、ここには豊年の言葉が生きている。(今井肖子)
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