日本ハムファイターズ、優勝おめでとう。北海道で三年、がんばった甲斐があったね。(哲




2006ソスN10ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 13102006

 ちちろほそる夜や屋根赤い貯金箱

                           和知喜八

ういう句を読むと、俳句の定型と季題がもたらす効用と限界を考えないわけにはいかない。この句、「蟋蟀や」とか、「ちちろ鳴く」くらいでまとめれば、造作もなく定型に収まる。「ちちろほそる夜や」の意図は何なのだろうか。蟋蟀は昼も鳴くから、「夜」の設定についての意図はわかる。ここは冗漫とは言えない。定型遵守派と意見が分かれるのは「ほそる」だろう。定型の効用と季題の本意中心の句作りを唱えるひとは、「ほそる」は、「ちちろ鳴く」の本意に含まれると言うかもしれない。「ほそる」は言わずもがな、表現が冗漫だと。作者は「ほそる」で、どうしても蟋蟀をそのとき、そこで鳴かせたかった。季題としての「ちちろ鳴く」でなくて、自分がその時聴いた「本当」の蟋蟀の声を表現したかった。季題は、ときにナマのリアルを犠牲にして、そこにまつわる古い情趣を優先させるかに見える。作者はそれを拒否したのだ。定型からはみ出すことで敢て韻律に違和感を生じさせる。滑らかに運ばないごつごつした違和感はそのまま作者の「個」を浮き彫りにする。それもこれもただただ「リアル」への意図である。貯金箱は生活の中の希望の象徴。「屋根赤い」もまた「リアル」への志向。作者は加藤楸邨門。対象に喰いついたらどこまでも追いつめる姿勢を評価した師から「スッポン喜八」の異名を付けられた。『和知喜八句集』(1970)所収。(今井 聖)


October 12102006

 新聞を大きくひらき葡萄食ふ

                           石田波郷

朝の駅で買った新聞をお見舞に差し入れたことがある。長らく入院していたその人は紙面に顔を近づけると「ああいい匂いだ」と顔をほころばした。真新しいインクの匂いは一日の始まりを告げる朝の匂い。朝刊を食卓にひろげ置いて、たっぷりと水気を含んだ葡萄を一粒ずつ口に運ぶ。「大きくひらき」という表現に、紙面にあたる朝の光や、窓から流れ込んでくる爽やかな空気が感じられる。葡萄は食べるのに手間がかかる果物。記事を目で追いつつ手を使って含んだ葡萄の粒からゆっくり皮と種をはずす。片手で吊り革に掴まり、細長く折った新聞をささえ読むのとは違う自分だけの朝の時間だ。そのむかし、巨峰、マスカット、といった大粒品種は値段も高く、普段の生活で気楽に食べられる果物ではなかった。今でも柿や無花果といった普段着の果実にくらべ大きな房の垂れ下がる葡萄は色といい、形といいどこかお洒落でエキゾチックな雰囲気を漂わせている。この句のモダンさはそんな葡萄の甘美な印象と軽いスケッチ風描写がよく調和しているところにあるのかもしれない。とある朝の明るく透明な空気が読むたびに伝わってくる句だ。『鶴の眼』(1939)所収。(三宅やよい)


October 11102006

 渋柿の滅法生りし愚さよ

                           松本たかし

かしについての予備知識もなく彼の俳句を読んだおり、何といっても「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」に脱帽してしまった。以来、鼓を聴く機会があるたびにこの句を思い出してしまう。困った。チゝポゝ‥‥の句は第二句集『鷹』(1938)に収められたが、第三句集『野守』にも再録されている。果物は一般に熟成するにしたがって甘くなるはずなのに、渋柿は渋柿のままで意地を通す。お愛想なんぞ振りまかない。いいじゃないか。私はそこが気に入っている。甘柿と同じように秋の陽を浴びても、頑としてあくまでも渋いのである。もちろん渋柿も時間をかけて熟柿になったときの、あのトロリとした食感といい、コクのある甘さといい、あれは絶品。干柿や樽抜きにしても、一転してのあの甘さ! しかし、甘柿ならともかく、渋柿が豊作になったところで、どうしてくれる?――というのがわれわれの気持ち。渋柿がどんなにたわわに生ったところで、子供ならずとも「なあんだ」とがっかり。拍子抜けというよりも、鈴生りになるほど愚しくさえ感じられる。渋柿には何の罪もないけれど、滅法生ったことによる肩身の狭さ。得意げに鈴生りを誇っていないで、「憎まれっ子、世に憚る」くらいのことは見習ったら(?)。「愚さよ」は、ここでは渋柿に対してだけでなく、渋柿の持主に対しても向けられていることを見逃してはならないだろう。持主あわれ。でも、どことなくユーモラスな響きも感じられるではないか。『野守』(1941)所収。(八木忠栄)




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