「核保有議論必要」と中川自民政調会長。ホラね、やっぱり出てきた、お調子ものめ。(哲




2006ソスN10ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 16102006

 一斉に椅子引く音や秋燕

                           対中いずみ

語は「秋燕」、「燕帰る」の項に分類。すぐ近くに小学校があって、よく脇を通る。ときどき感じることだが、同じように運動場に子供が一人もいなくても、休日とそうでない日との学校の感じは全く違う。あれは、どうしてだろうか。休日の構内には誰もいないという知識があるからかとも思うが、どうもそうでもないようだ。むろんよく耳を澄ませば、登校日の学校からはいろいろな音が聞こえてくるはずだが、いつもそんなに意識して通っているわけじゃない。なんとなく通りかかっただけで、休日の学校には生気がないなと思われるのだ。たとえ見えなくても、そこに人がいるとなれば、なんらかの気が立ち上っているような感じを受けるもののようだ。そう仮定すると、そんな学校の気がいちばん高まるのは、やはり終業時だろう。朝からの勉強に抑圧された子供たちの気持ちが、一挙に開放される瞬間だ。揚句の一斉に椅子を引く音には、子供たちの嬉しい気持ちがこもっている。晴天好日の午後。校庭にはまもなく南に渡っていく燕らが飛び交い、もうすぐ勉強が終わった子供らがぞろぞろと出てくる時間。すなわち、学校の気が最も高まり充実するときを迎えたわけで、その限りにおいてはさながら祝祭のときのようである。だが、その気の高まりはわずかな時の間で、すぐに退いてしまうことを作者は知っている。子供らはそれぞれに散っていき、秋の燕はこれっきりもう姿を見せないかもしれない。最も充実した時空間は、常にこのような衰退の兆しを含んでいる。理屈をこねれば、そういう句だ。気の高まりのなか、一抹の寂しさを覚える人情の機微がよくとらえられている。『冬菫』(2006)所収。(清水哲男)


October 15102006

 秋の夜ことりと置きしルームキー

                           高山きく代

ームキーという言葉は、自宅よりもホテルを思い起こさせます。生活スタイルにもよるでしょうが、わたしの場合、自宅の鍵をわざわざルームキーなどと英語で言うことはありません。しかし、この句はどうも、ホテルの部屋という印象がもてません。ホテルの、透明で大きな棒のついている鍵では、置いたときの音は、「ことり」ではすむはずもありません。この鍵はやはり、自宅用の、なんの飾りもついていないもののように思われます。秋の夜、遅くなって、一人住まいの部屋に帰ってきたのでしょうか。冷え始めた季節の空気とともに、この部屋の主は帰宅し、まずは鍵を台所のテーブルに置くのです。それまでだれもいなかった部屋に、久しぶりに人のたてる音がします。「ことり」という音は、響きは小さくとも、音として明確にその意味を主張しています。その日、どんな出来事に翻弄されようとも、鍵をあけ、部屋に入ってからは、その人だけの別の時間が流れ始めます。扉によって外部を締め出してから、その人にとっての確かな「時」がはじまるのです。「ことり」という音は、そのはじまりの、ささやかな宣言のようにも聞こえます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 14102006

 林檎掌にとはにほろびぬものを信ず

                           國弘賢治

弘賢治の名前は、〈みつ豆はジャズのごとくに美しき〉の句の透明感と共に記憶の隅に。最近、彼が八歳の時に脊髄カリエスを発病し、四十七年間の生涯を病と共に過ごしたと知ったが、みつ豆の句の印象は明るい。『賢治句集』を開くと、下駄の裏を大きく見せてぶらんこを漕ぐ写真に〈佝僂(くる)の背に翅生えてをりぶらんここぐ〉の一句が添えられている。うれしそうな笑顔である。みつ豆の句は、句作を始めて間もない昭和二十四年、三十七歳の作。〈繪をかいてゐる子の虹の匂ひかな〉〈雪の日のポストが好きや見てをりぬ〉自由でやわらかい句が続く。宗教を頼んでいた時よりも俳句を始めてからの方が、解放された安らかさを得ている、という意の一文を残しているというが、身ほとりを詠み病を詠んだ句からは、作意や暗さはもちろん、健気さや、達観の匂いさえしない。昭和二十二年から亡くなる昭和三十四年まで、虚子選三百九十一句を収めたこの遺句集の、三百九十句目が掲句である。とは、は永遠(とわ)。林檎は紅玉、小ぶりでつややかな紅色と甘酸っぱさが、当時は最も親しい果物のひとつであったろう。その結実した生命を掌に包んだ時、滅びようとする肉体の中から、自らをも含む全ての生に対する慈しみがあふれ、それが一筋の静かな涙と共に一句をなした気がしてならない。病と共にある人生を、自然に、淡々と詠んだ数々の句の中に、國弘賢治は確かに生き続けている。『賢治句集』(1991)所収。(今井肖子)




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