権力者に拍手したらもうその国民は終わりである(紀田順一郎)。他国ならすぐわかる。(哲




2006ソスN10ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 23102006

 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

                           林田紀音夫

季句。難解な作品の多い紀音夫句のなかでは、比較的わかりやすい一句だ。この句が有名になったのは、むろん「鉛筆の遺書」の思いつきで、世間の抱く漠然たる遺書への固定観念をくつがえしてみせたからである。遺書を筆で書くか、せめて万年筆で書くか。世の中ではなんとなくそう思われているようだし、作者もそう思っていたのだが、いざ自分を書く身に置いてみたら、どうもいつまでも残りそうな墨痕淋漓の書き物などと自分の思いとはつり合わない。少しだけ書き残したいことはあるのだけれど、かといってそれは子々孫々にまで伝えたいというほどのことじゃない。加えて、自分のような存在は、死んだらすぐにも忘れて欲しいという気持ちがある。そこで「鉛筆」書き「ならば」という仮定が生まれたというわけだが、いまこれを書いている私の目の前には、先日亡くなった松本哉からの葉書が貼ってある。二十年近くも前のもので、彼の絵に短い文章が添えられた「絵葉書」だ。気に入って貼ってあったのだが、先日葬儀から戻ってしみじみと見てみようとしたところ、絵はかすれ気味ながら残っているのに、文字はすべて消え去っていることに気がついた。毎日漫然と見ていたので、迂闊なことにいつごろ完全に消えたのかは定かではないけれど、その文字はまさに「鉛筆」で書かれていたのは記憶している。林田紀音夫の予測通りに、鉛筆の字は消えてしまうのである。超微細な砂粒と化して、時々刻々とそれらの文字たちはおのれを削り落としていたのだ。そんなわけで鉛筆書きの文字の実際の消滅を前にして、ふっと揚句を思い出し、その発想の奇ならざることを思うと同時に、作句時の作者の一種暗い得意の気分もしのばれたのであった。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(清水哲男)


October 22102006

 冷やかに海を薄めるまで降るか

                           櫂未知子

語は「冷やか」。秋です。秋も終わりのほうの、冬へ、その傾斜を深めてゆく頃と考えてよいでしょう。春から夏へ向かう緩やかな階段を上るような動きとは違って、秋は滝のように、その身を次の季節へ落とし込んでゆきます。「冷やか」とは、じつに的確にその傾斜の鋭さを表した、清冽な季語です。夏の盛りの驟雨、暑さを閉じる雷雨、さらには秋口の暴風雨と、この時期の季節の移ろいに、空はあわただしく種類の異なる雨を提示してゆきます。その提示の最後に来るのが、秋の冷たい雨です。晩秋の雨の冷たさは、染み込むようにして、あたたかさに慣れきった身体を濡らしてゆきます。この句で際立っているのは、「海を薄めるまで」のところです。このような大げさな表現は、ひそやかに物を形容する日本語という言語には、適していないのかもしれません。しかし、この句にあっては、それほどの違和感をもつことなく、わたしたちに入ってくることができます。降る雨は、海の表面に触れる部分では、たしかにその瞬間に海を薄めているのです。それはまるで、海が人のように季節の冷たさを感じているようでもあります。そしてまた、海が濡れてゆくようでも。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 21102006

 激し寄る四方の川水下り簗

                           星野立子

に簗(やな)というと夏季、魚簗とも書く。下り簗は秋季、文字通り川を下ってくる落鮎などを捕るための仕掛けである。今年の名月、関東地方は概ね無月であったが、深夜、雨で水かさの増えた栃木県の那珂川には、鮎三百キログラム(約五千匹?)、鰻百本が落ちたという。那珂川のみならず日本中のあちこちの川で、満月に鮎が次々に落ちていく、と想像すると幻想的である。落鮎の句を探して歳時記を開くと、隣の「下り簗」のところにこの句が。いかにも立子らしいと言われる句、ではない気もして調べると、昭和十一年、利根川での吟行句とわかる。句日記に「(簗は)想像してゐた以上の美事なものだと思ふ。」とあるので、簀(す)を張り渡した本格的なものだったのだろう。初めて目にする簗、川原に相当長い時間立ち続けていたようである。その足に、力強い水音が絶えず響いている。秋の日差しは思いの外強く、簀にぶつかった白い水しぶきに吹き上げられて鮎がはね、小石がはねる。激し寄る、に見える僅かな主観は季題にのみ向けられ、四方(よも)の川水が、一気に簗に落ち込んでいく。蝶に目をとめて一句、釣り人に会い一句、この日の吟行句、書き残されているものは十四句だが、呼吸をするように作句していたことだろう。俳句は自分のために作るもの、ただ作っているときは、本当に楽しい。息抜きにもなったであろう吟行だが、じっと川を観ている立子の凛とした姿が浮かぶ。『虚子編新歳時記』増訂版(1951・三省堂)所載。(今井肖子)




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