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October 24102006

 腰おろす秋思の幅をあけ合ひて

                           亀田憲壱

の寂しさに誘われる物思いが秋思(しゅうし)であるという。この言葉に硬質の孤独を感じるのは、故郷を恋う杜甫の「万里悲秋」などの漢詩を敷く、ひとりの人間が抱く絶対の孤独や無常を思わせるからだろう。同じような心持ちを表す季語に「春愁(しゅんしゅう)」があるが、こちらは「春のそこはかとない哀愁。ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、半面ふっと悲しみに襲われることがある。」と解説される通り、どちらかというと他人の心と相反する自己を愛する気持ちが芯となり引き出されているようだ。春愁は心のどこかで人を求め、秋思は人を遠ざける。毛皮にも甲羅にも覆われていない人間は、心もまたむきだしで傷つきやすくできているように思えるが、全身を堅い甲羅で覆われている蟹にも脱皮する時期がある。脱皮を繰り返すことによって、身体を成長させ、また怪我した部分を再生させるのだが、この無防備で柔らかな身体の時間、蟹たちはお互いが傷付くことを怖れ、岩陰などにじっと潜んでいるという。掲句の発見である「秋思の幅」が、人間の傷つきやすい心をかばうように、無意識に取り合う距離なのだと思うと、そのにぎりこぶしひとつほどの空間が、とても大切で愛おしいものに見えてくる。『果肉』(2006)所収。(土肥あき子)


October 19102010

 アクセル全開秋愁を振り切りぬ

                           能村研三

つもはごく温厚な人がハンドルを握ると、とたんに性格が変貌し大胆になるというタイプがあるらしい。常にないスピード感やひとりだけの空間が心を解放させるのだろう。掲句が荒っぽい運転とは限らないが、どこかいつもとは違う攻めの姿勢を感じさせる。秋の心と書く「愁」が嘆きや悲しみを意味させるのに対し、春の心と書く「惷」には乱れや愚かという意味となる。それぞれの季節に芽生える鬱々とした気分ではあるが、春は軽はずみなあやまちを招くような心を感じさせ、一方、秋の気鬱は全身に覆いかぶさるような憂いを思わせる。常にない向こう見ずなことをしなければ、到底振り切ることなどできない秋愁である。猛スピードで振り切った秋愁のかたまりをバックミラーの片隅に確認したのちは、わずかにスピードをゆるめ軽快な音楽に包まれている作者の姿が浮かぶのだった。〈男には肩の稜線雪来るか〉〈里に降りる熊を促へし稲びかり〉『肩の稜線』(2010)所収。(土肥あき子)




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