日ハムで投げる岡島(元・巨人)をTVではじめて見た。がんばってるなあ、がんばれよ(哲




2006ソスN10ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 25102006

 秋風や子無き乳房に緊く着る

                           日野草城

性がどう威張ってみても、また地団駄踏んでみても、彼から欠落しているのが乳房。まあ、筋肉がキリリと緊まった男性の胸も、それはそれで美しい。けれども、両者の美質はおのずと別である。堀口大學は詩で、乳房を「女の肉体の月あかり」「恋人のシャボン玉」と表現した。(セクハラなどと野暮は言うなかれ)掲出句は乳房そのものや、その美を直接詠もうとしているわけではない。ポイントはむしろ「緊(かた)く着る」にある。そのためにこそ乳房が必要なのである。秋風のなかへ外出するのだから、もちろん時季にふさわしいフォーマルな着物であろう。「子無き」と言っても、未婚の娘さんではなく既婚者であろう。まして西洋人のような巨乳ではない。立ち姿が形よく引き緊まって、凛としたエロチシズムが感じられる。品位があって隙がない。乳房だけでなくしっかりと抑えられた心身の緊張感までもが、さわやかな風にのってそっと匂ってくるようでもある。草城には、女性のエロチシズムを素材にした句が多い。しかし、乳房は男性が詠んでも女性が詠むにしても、容易な素材ではない。蛇笏は「大乳房たぷたぷ垂れて…」と健康さを詠み、草城の弟子・信子は「ふところに乳房ある憂さ…」と内面を詠んだ。『花氷』(1927)所収。(八木忠栄)


October 24102006

 腰おろす秋思の幅をあけ合ひて

                           亀田憲壱

の寂しさに誘われる物思いが秋思(しゅうし)であるという。この言葉に硬質の孤独を感じるのは、故郷を恋う杜甫の「万里悲秋」などの漢詩を敷く、ひとりの人間が抱く絶対の孤独や無常を思わせるからだろう。同じような心持ちを表す季語に「春愁(しゅんしゅう)」があるが、こちらは「春のそこはかとない哀愁。ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、半面ふっと悲しみに襲われることがある。」と解説される通り、どちらかというと他人の心と相反する自己を愛する気持ちが芯となり引き出されているようだ。春愁は心のどこかで人を求め、秋思は人を遠ざける。毛皮にも甲羅にも覆われていない人間は、心もまたむきだしで傷つきやすくできているように思えるが、全身を堅い甲羅で覆われている蟹にも脱皮する時期がある。脱皮を繰り返すことによって、身体を成長させ、また怪我した部分を再生させるのだが、この無防備で柔らかな身体の時間、蟹たちはお互いが傷付くことを怖れ、岩陰などにじっと潜んでいるという。掲句の発見である「秋思の幅」が、人間の傷つきやすい心をかばうように、無意識に取り合う距離なのだと思うと、そのにぎりこぶしひとつほどの空間が、とても大切で愛おしいものに見えてくる。『果肉』(2006)所収。(土肥あき子)


October 23102006

 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

                           林田紀音夫

季句。難解な作品の多い紀音夫句のなかでは、比較的わかりやすい一句だ。この句が有名になったのは、むろん「鉛筆の遺書」の思いつきで、世間の抱く漠然たる遺書への固定観念をくつがえしてみせたからである。遺書を筆で書くか、せめて万年筆で書くか。世の中ではなんとなくそう思われているようだし、作者もそう思っていたのだが、いざ自分を書く身に置いてみたら、どうもいつまでも残りそうな墨痕淋漓の書き物などと自分の思いとはつり合わない。少しだけ書き残したいことはあるのだけれど、かといってそれは子々孫々にまで伝えたいというほどのことじゃない。加えて、自分のような存在は、死んだらすぐにも忘れて欲しいという気持ちがある。そこで「鉛筆」書き「ならば」という仮定が生まれたというわけだが、いまこれを書いている私の目の前には、先日亡くなった松本哉からの葉書が貼ってある。二十年近くも前のもので、彼の絵に短い文章が添えられた「絵葉書」だ。気に入って貼ってあったのだが、先日葬儀から戻ってしみじみと見てみようとしたところ、絵はかすれ気味ながら残っているのに、文字はすべて消え去っていることに気がついた。毎日漫然と見ていたので、迂闊なことにいつごろ完全に消えたのかは定かではないけれど、その文字はまさに「鉛筆」で書かれていたのは記憶している。林田紀音夫の予測通りに、鉛筆の字は消えてしまうのである。超微細な砂粒と化して、時々刻々とそれらの文字たちはおのれを削り落としていたのだ。そんなわけで鉛筆書きの文字の実際の消滅を前にして、ふっと揚句を思い出し、その発想の奇ならざることを思うと同時に、作句時の作者の一種暗い得意の気分もしのばれたのであった。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(清水哲男)




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