October 302006
霧を出て白く飯食う村の子ら
奥山和子
季語は「霧」で秋。「霧の村」と題された連作五句のうちの一句だが、なかに「霧の朝手と足が見えて来る」という句があるので、この村の霧が相当に濃いことが知れる。添えられた短文にも、「川と山に挟まれた村の朝は少々遅い。みっしりと霧が覆っているからだ」とある。そんな濃霧のなかを、子供たちは毎朝登校していく。そして、霧がすっかり晴れたころになると、昼食の時間だ。「白く飯食う」の「白く」とは、無表情に、淡々と、はしゃぐようなこともなく黙々と箸を使っている様子だろう。子供たちの弁当の時間といえば、明るい雰囲気を想起するのが一般的だが、この子らにはそれがない。といって、べつに暗い顔で食べるというわけではなく、一種老成した食べ方とでも言おうか、学校での食事も普通の生活の一コマでしかないというような食べ方なのだ。日頃の大人たちと似た雰囲気で、食事をする。作者がそのように感じるのは、おそらくはこの子らの将来を見ているからだ。多くの子は農業を継ぎ、この村にとどまるのだろう。このときに学校とは、何か霧の晴れたような華やかな未来への入り口ではなく、あくまでも普通の生活の通過点である。霧深い山国の地で生涯をおくることになる子供たちの表情は、確かにこのようであったと、同じような村育ちの私には、一読心を揺さぶられた句であった。「東京新聞」(2006年10月28日付夕刊)所載。(清水哲男)
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