2006N111句(前日までの二句を含む)

November 01112006

 酒となる間の手もちなき寒さ哉 

                           井上井月

月(せいげつ)は文政五年(1822)越後高田藩に生まれ、のち長岡藩で養子になった。三十代後半に信州伊那谷に入り、亡くなる明治二十年(1887)まで放浪漂泊の生涯を送った。酒が大好きだった。掲句は伊那で放浪中のもので、どこぞの家に厄介にでもなって酒を待つ間(ま)の手持ち無沙汰。招じあげられ、一人ぽつねんとして酒を静かに待っているのだろう。申しわけなさそうな様子ではあるが、主人との酒席をじいっと辛抱強く待っている、そんな図である。そのあたりにいる女子衆(おなごし)に愛想を振りまくわけでも、世辞を言ったりするわけでもあるまい。寒さに耐えて酒を待つ無愛想。伊那谷の冬の寒さが、読むほうにもことさら身にしみてくる。ついでに酒が待ち遠しくもなる。ある時、井月は「何云はん言の葉もなき寒さかな」の一句も短冊にしたためている。穏かなご隠居が「井月さん、来たか、来たか」と座敷にあげて酒をふるまうこともあったと、『井上井月伝説』(江宮隆之)にある。山頭火が心酔していたというが、さもありなん。室生犀星が高く評価した。傑出した句ではないが、左党には無視しがたい一句。芥川龍之介はこう詠んでいる、「井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨」。落語「夢の酒」では、酒好きのご隠居が夢のなかで酒の燗がつくのを待っているうちに嫁に起こされてしまって、「冷やで飲めばよかった!」とサゲる。井月句はおよそ1680句と言われる。蝸牛俳句文庫『井上井月』(1992)所収。(八木忠栄)


October 31102006

 しつかりとおままごとにも冬支度

                           辻村麻乃

辞苑によると「ままごと」とは「飯事」と書き、子供が日常の生活全般を真似た遊びとある。ママの真似をするから「ままごと」なのかと思っていたが、遊びとしては江戸時代から貴族の子供は塗り物の道具、庶民の子供は木の葉や紙の道具、と昔から広く楽しまれていたようだ。ままごとで使うものは生活環境によってさまざまである。わたしは公園よりも、実家が持っていた印刷や製本の工場の裏で遊ぶことが多かった。インテル(活字の隙間に詰める薄い板)を使って雑草を刻み、古くなった文選箱(選んだ活字を入れる箱)に盛りつける。つぶれた活字をもらっては、椿の葉に刻印し「こういうものでございます」などと、大人たちに自慢気に配っていたことも思い出す。子供による日常生活の再現は、はたから見ていると驚くべき観察力であることがわかる。母親の口癖や、父親の態度など、はっと我が身を正す機会にもなったりもする。ほらコートを着ないと風邪をひきますよ、さぁおふとんを干しましょう。掲句のかわいらしいお母さんたちは一体どんな冬支度をしていたのだろう。「をかしくてをかしくて風船は無理」「足元に子を絡ませて髪洗ふ」などにも、体当たりで子育てをしている若い母親の姿が浮かぶ。『プールの底』(2006)所収。(土肥あき子)


October 30102006

 霧を出て白く飯食う村の子ら

                           奥山和子

語は「霧」で秋。「霧の村」と題された連作五句のうちの一句だが、なかに「霧の朝手と足が見えて来る」という句があるので、この村の霧が相当に濃いことが知れる。添えられた短文にも、「川と山に挟まれた村の朝は少々遅い。みっしりと霧が覆っているからだ」とある。そんな濃霧のなかを、子供たちは毎朝登校していく。そして、霧がすっかり晴れたころになると、昼食の時間だ。「白く飯食う」の「白く」とは、無表情に、淡々と、はしゃぐようなこともなく黙々と箸を使っている様子だろう。子供たちの弁当の時間といえば、明るい雰囲気を想起するのが一般的だが、この子らにはそれがない。といって、べつに暗い顔で食べるというわけではなく、一種老成した食べ方とでも言おうか、学校での食事も普通の生活の一コマでしかないというような食べ方なのだ。日頃の大人たちと似た雰囲気で、食事をする。作者がそのように感じるのは、おそらくはこの子らの将来を見ているからだ。多くの子は農業を継ぎ、この村にとどまるのだろう。このときに学校とは、何か霧の晴れたような華やかな未来への入り口ではなく、あくまでも普通の生活の通過点である。霧深い山国の地で生涯をおくることになる子供たちの表情は、確かにこのようであったと、同じような村育ちの私には、一読心を揺さぶられた句であった。「東京新聞」(2006年10月28日付夕刊)所載。(清水哲男)




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