2006N113句(前日までの二句を含む)

November 03112006

 木の実独楽ひとつおろかに背が高き

                           橋本多佳子

本多佳子は女性にしては長身だったらしい。たくさんの木の実独楽の中で、ひとつだけ細長い奴がいて、回すと重心も定まらずすぐ止まってしまう。うまく回らない木の実独楽がすなわち自分だと多佳子は言っている。「愚かな自分」に向ける目は自己戯画化。大正期以来、虚子のもとで花開いた女流俳人の特徴は、良妻賢母自己肯定型か、育ちの良さ強調のあっけらかん写生派か、男が可愛いと思う程度のお転婆派に分類できる。それは男社会から見た理想的女性像の投影そのものであった。そして官僚や軍人高官、資産家の妻や娘が女流の中心にいた。もっとも詩歌に「興ずる」のは、そういう階層の人たちという社会通念もあった。多佳子も例に洩れず九州小倉の資産家の妻。大正時代に虚子を知り「ホトトギス」に投句。杉田久女に手ほどきを受け、後に山口誓子に師事する。久女の「自分」に執着する態度と誓子のロマンが、それまでの女流にないこの句のような「自己認識」を作り出したように思う。この句と同様背が高いことについての屈折した感情を詠った句に、飯島晴子の「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」ある。背の高い哀しみはあるにせよ、舞妓である分だけ晴子の「あはれ」は美的情緒があり華麗。多佳子の「おろか」はナマの自分の肉体に向けられていて赤裸々である。『紅絲』(1951)所収。(今井 聖)


November 02112006

 秋の暮通天閣に跨がれて

                           内田美紗

天閣は大阪新世界にそびえる高さ100メートルのタワー。東京タワーと同じ設計者で、作られた時期も同じ頃なのに、まったく違う外観を呈している。両方ともその都市のシンボルであるが、東京タワーは赤いドレスを着て澄まして立っていて少し近寄りがたいが、通天閣は派手な広告をお腹につけて色の変わる帽子をかぶり、庶民的で気さくな雰囲気がある。足元には将棋場、歌謡劇場もある。展望台でビリケンのとがった頭をなでてジャンジャン横丁の串カツを食べて帰る。何でもありの天王寺界隈の賑わいにどこかもの寂しい秋の夕暮れがせまってくる。古来「秋の暮」は秋の夕暮れの意と、秋の季節の終わり(暮の秋)の両義を含みながら曖昧に用いられてきたらしい。「今では秋の日暮れどきだけに使う」(『新歳時記』河出文庫)となっているが、どうだろう。掲句のように大きな景には夕暮れの景色とともに一つの季節が終りつつある気分をも重ね合わせてみたい。通天閣が跨(また)ぐと擬人化した表現に大阪の街並みを見下ろしている通天閣の大きさと頼もしさが的確に表現されている。さらに「て」の止めに、暮れはやき今、ここで通天閣に跨がれている作者の安心が感じられるように思う。『魚眼石』(2005)所収。(三宅やよい)


November 01112006

 酒となる間の手もちなき寒さ哉 

                           井上井月

月(せいげつ)は文政五年(1822)越後高田藩に生まれ、のち長岡藩で養子になった。三十代後半に信州伊那谷に入り、亡くなる明治二十年(1887)まで放浪漂泊の生涯を送った。酒が大好きだった。掲句は伊那で放浪中のもので、どこぞの家に厄介にでもなって酒を待つ間(ま)の手持ち無沙汰。招じあげられ、一人ぽつねんとして酒を静かに待っているのだろう。申しわけなさそうな様子ではあるが、主人との酒席をじいっと辛抱強く待っている、そんな図である。そのあたりにいる女子衆(おなごし)に愛想を振りまくわけでも、世辞を言ったりするわけでもあるまい。寒さに耐えて酒を待つ無愛想。伊那谷の冬の寒さが、読むほうにもことさら身にしみてくる。ついでに酒が待ち遠しくもなる。ある時、井月は「何云はん言の葉もなき寒さかな」の一句も短冊にしたためている。穏かなご隠居が「井月さん、来たか、来たか」と座敷にあげて酒をふるまうこともあったと、『井上井月伝説』(江宮隆之)にある。山頭火が心酔していたというが、さもありなん。室生犀星が高く評価した。傑出した句ではないが、左党には無視しがたい一句。芥川龍之介はこう詠んでいる、「井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨」。落語「夢の酒」では、酒好きのご隠居が夢のなかで酒の燗がつくのを待っているうちに嫁に起こされてしまって、「冷やで飲めばよかった!」とサゲる。井月句はおよそ1680句と言われる。蝸牛俳句文庫『井上井月』(1992)所収。(八木忠栄)




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