2006N1123句(前日までの二句を含む)

November 23112006

 きょうは顔も休みだ

                           岡田幸生

日は勤労感謝の日。祝日法の規定によると「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう日」らしいが、能力主義のはびこる今の世の中、毎日喜びをもって働いている人がどのくらいいるだろう。家族のため、生きるため、気にそぐわない職を続けている人も多いのではなかろうか。仕事に身をすり減らす日常を離れて本来の自分に立ち返れるのが週末の休みや今日のような祝日だろう。1962年生まれの作者は「短い言葉で世界を穿つ」魅力に惹かれ、感覚とひらめきで作る自由律俳句を始めたという。句集に収められた作品は韻律も形も様々だが、掲句の場合、きょうは/(2・1)/顔も(2・1)/休みだ(2・2)と三節に分かれ、2音と1音の反復、最後は2音の連続のリズムに落ち着く形で内容が凝縮されている。「きょうは」という限定で普段は毎日出勤して緊張を強いられた生活を送っている様子が、「顔も」という表現で心身ともにのびのび開放して休みを楽しんでいる気分が伝わってくる。休日の電車で、通勤時に見かけるサラリーマンがセーターにジーパンのラフなスタイルで家族と並んで座っているのに出くわすことがある。スーツに身を固め会社に向う緊張した面持ちとは違う和やかな表情。きっと顔も休みなのだろう。四六時中、仕事に追われている人たちにとって今日が祝福の一日でありますように。『無伴奏』(1996)所収。(三宅やよい)


November 22112006

 枯山を巻きとる祖母の糸車

                           安藤しげる

車は正確には糸繰車、糸取車などと呼ばれる。綿や繭から糸を紡ぎ出し、竹製の軽い大きな車を手で廻しながら巻きとっていく。子供の頃、うちでも祖母が背を丸めて、眠たそうな様子でよく糸繰りをしていた。左手の指先から綿を器用に細い糸状に紡ぎ出し、右手で廻す車で巻きとる。じっと見ていると、まるで手品のようで不可思議だった。今はもうどこでも用無しになってしまい、民俗資料館にでも行かなくてはお目にかかれない。わが家ではその糸を染め、手機(てばた)で織りあげて野良着や綿入れを、祖母や母が自分たちで縫いあげていた。しげる少年もおばあちゃんの糸繰り作業に目を凝らしていたことがあるのだろう。野山はもう枯れ尽きている。黙々とつづけられているおばあちゃんの作業は、寒々とした深夜までつづく――としてもいいだろうが、枯山は目の前に見えていたい。私は冬の午後日当りのいい部屋か縁側で、好天に誘われるようにのんびりあわてず、おばあちゃんがクルリクルリと車をまわしていて、近くに見えている枯山までが、一緒に巻きとられてゆくような、そんな夢幻めいた錯覚を楽しんでいたい。指先から繰り出される小さな作業だが、枯山までも巻きとるという大きさがこの句の生命である。巻きとられることで、さびしい枯山も息を吹き返してくるようにも感じられる。しげるには「高炉火(ろび)流る視野えんえんと枯芒」「螺子(ねじ)の尾根を妻子を連れて鉄工ゆく」など、職場の製鉄所を詠んだ力強い骨太の句が多い。今井聖が句集に寄せて「重い」とも「時代との格闘の痕」とも記している点が頷ける。掲句は「糸車」の軽さのなかに、重たい「枯山」を巻きとってみせた。句集『胸に東風』(2005)所収。(八木忠栄)


November 21112006

 霜の夜の目が濡れているぬいぐるみ

                           山田貴世

の夜とは、霜が降りる夜。気温が低くてよく晴れた風のない夜は霜が降りやすい、との解釈を読んで、ああ、霜は「降りる」ものなのだ、とあらためて感じいる。夜に発生した露が、秋では水の形態のまま明け方の露となり、冬も深まり朝方の放射冷却によって霜となるのかと理解する。しかし言葉の上では、露の「結ぶ」は地上が生み出すもの、霜の「降りる」は天上から賜るもの、という変化がある。地続きの露と比べ、「霜が降る」にはどこかファンタジーを感じる。また、霜の相に雪の結晶が見られることから「霜の花」という美しい表現もある。夜明けに清潔なガーゼを広げたように輝く一面の霜も、日が昇るにつれ、しっとりと消えてなくなってしまう。その夜明けの一瞬にだけ開く花の姿に、人形たちの夜中の舞踏会が終わる時間が重なる。アンデルセンの「すずの兵隊」やホフマンの「くるみ割り人形」に見られるように、人間が寝静まる時間におもちゃたちの遊び時間が始まり、朝日とともに動かぬ人形に戻る時間。掲句の「目が濡れている」には、黒々とした釦の目の形状を指しながら、あたかも今までまばたきをしていたかのような、ぬいぐるみの秘密の動から静の瞬間を見て取ることができる。「尼寺に静かなる修羅秋の蜘蛛」「忽と婆西日の景にまぎれこむ」などにも、季語から手渡されていく物語がある。また、本句集は新かなで通されている。作者の師である倉橋羊村氏は、まえがきで「作者が新仮名づかいを通してきたのは、同世代以降の読者を意識してのことだ」とあり、これは現代の俳句を詠む者として、常に胸にわだかまっていることだ。『湘南』(2006)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます