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December 25122006

 安々と海鼠の如き子を生めり

                           夏目漱石

石の妻・鏡子は一度流産している。この句はその後に長女・筆子を生んだときのもので、作者の安堵ぶりがうかがえる。人間の子を「海鼠(なまこ)」みたいだとは、いくら何でもひどいじゃないか。そう思いたくもなるのだが、このときの漱石は気もそぞろ。今度は無事に生まれてくれよと、生まれるまで落ち着けなかった。当時は自宅出産だから、家の中を襖越しにただうろうろするばかりの男としては、元気な産声を耳にし、生まれたばかりの赤子を見せられて、ほっとしたあまりに思わずも本音が出たというところだろう。人間、安心すると、「なんだ、たいしたことなかったじゃないか」との安堵感から、憎まれ口の一つも叩きたくなるものなのだ。言い換えれば、普段通りの心の余裕のある顔つきで表現したくなってしまう。この句はそういう産物で、それまでの狼狽ぶりが書かれていないだけに、かえってそれをうかがわせる何かがあるではないか。漱石先生の頭は隠されているけれど、尻は立派に出てしまっているのだ。今日はキリストの誕生日。誰もそんな想像はしないだろうが、彼もまた、海鼠のように生まれてきたのかしらん。ところで「海鼠」は冬の季語だが、筆子の誕生は五月だった。したがって揚句は夏の句ないしは無季に分類すべきなのだろうが、歳時記の便宜上「冬季」に置いておきたい。この句に限らず、歳時記の編纂には、しばしばこうした悩ましさがつきまとう。坪内捻典・あざ蓉子編『漱石熊本百句』(2006・創風社出版)所収。(清水哲男)


December 24122006

 聖菓切るためにサンタをつまみ出す

                           松浦敬親

リスマスイブです。わたしの勤める会社は外資系企業なので、オフィスの中にもクリスマスツリーがいくつも飾られています。この季節になると、一ヶ月くらい前からさまざまな場所のさまざまなものに、光の服が着せられます。ついでながら、サンタクロースに赤い服を初めて着せたのは、コカコーラのコマーシャルでした。それがそのままサンタの服として定着してしまったもののようです。掲句、クリスマスケーキをテーブルに置いて、イブの夜、家族の顔がその上に並んでいるのでしょう。わたしもこの日は、横浜ダイヤモンド地下街をうろうろします。毎年、イチゴのショートケーキにするか、チョコレートケーキにするか、家族の反応をしばし想像し、楽しく迷います。この句の家には小さな子どもがいるようです。「サンタをつまみ出す」という言い方が、なんともぞんざいな響きで、笑いをさそいます。「さあケーキを切りますよ」というお母さんの声に、ずっと目をつけていたサンタに手を伸ばしたのは、たぶん末っ子です。どのデコレーションをだれがとるかで、子どもたちの間でひと悶着あるのかもしれません。「つまみ出す」という言葉が、これほどにやさしい響きをもつことができるのも、この日だからなのでしょう。では、素敵なイブの日になりますように。メリークリスマス。『角川俳句大歳時記 冬』(角川書店・2006)所載。(松下育男)


December 23122006

 装ひてしまひて風邪の顔ありぬ

                           田畑美穂女

邪は一年中ひくものだが、やはり風邪の季節といえば冬だろう。十二月になると、テレビでも毎年のように風邪薬のCMが目立ってくる。虚子に〈死ぬること風邪を引いてもいふ女〉という一句があるが、作者の田畑美穂女さんは、大阪の薬の町として名高い道修町(どしょうまち)の薬種商の家に生まれ、長く製薬会社の社長を務めた方である。風邪くらいで死ぬなどと言うのはもってのほか、仕事を休むこともせず朝からシャキッと着物を召し帯を締め終えて、さあ出かけようと鏡を見た。するとそこには、気持とはうらはらにぼんやりと風邪に覆われた顔が、正直に映っていたのだろう。装う、は身支度をすることだが、いつもより少し気の張った身支度だったのかもしれない。ああ、やっぱり風邪だわ、と思うとなにやら力が抜け、着付けた着物が急に重く感じられ、そのため息のような気持が、顔ありぬ、の下五に表れている。しかしそこで、その気持を一句にするところがまた、虚子門下の女傑、ユニークでおおらかと言われた所以であろう。ある句会の前、虚子に「昨晩、三句出句の句会で、四句先生の選に入った夢を見ました」と言い、虚子がその話を受けて、〈短夜や夢も現も同じこと〉という句を出したという逸話も残っており、その人柄句柄は多くの人を惹きつけた。『田畑美穂女句集』(1990)所収。(今井肖子)




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