Nj句

January 0112007

 校舎なき校歌の山や初景色

                           七沢実雄

日に変わらぬ景色ではあるが、元日に見る景色(初景色)はどこか違う。新しい年がはじまったという意識、そこから来る清新の気が、見慣れた景色を新しく塗り替えるからとでも言うべきか。眺めているうちに、作者は遠くの山が、いまは廃校となってしまった学校の校歌に詠み込まれていたことを思い出している。つづいて、一緒に学び遊んだ友人たちや先生とのことどもを懐かしんでもいるのだろう。自分はずっとこの過疎の地で暮してきたが、多くの友だちは都会に出ていった。音信不通の友人も少なくない。「みんな、元気にしてるかな」。私の通った故郷の小学校も中学も廃校になってしまっている。小学校は明治期にできた伝統のある学校だったけれど、過疎には耐えきれず、ついに無くなったことを知らされたときにはショックだった。もはや校歌もよくは覚えていないが、山の名前はあったのかなかったのか。あったとすれば元日の今日、故郷の友人の誰かは、作者と同じ心境でその山なみを見ているかもしれない。近年の新しい校歌は、土地の名や山や川を詠み込むことを嫌うようだが、それだけ自然との距離が遠くなった証左だろう。啄木ではないが、故郷の山河には圧倒的な存在感がある。貧しい時代に貧しい暮らしを余儀無くされた土地だったけれど、私はそこで育ったことを幸せに思う。故郷の地の諸君、明けましておめでとう。今年も元気でな。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


January 0812007

 成人の日の総身に釦かけ

                           大澤ひろし

支度を整え、これから成人式に出かけようというところだろう。成人の日の句は多いが、新成人当人が詠んだ句は珍しい。いつごろの句かわからないが、「総身に釦(ぼたん)かけ」とあるから、作者が着たのは詰襟の学生服だろう。となると、昭和三十年代くらいの作句だろうか。私の頃も、男はほとんど学生服で出席した。懐かしや。普段でもむろん釦はみなかけるのだけれど、かけ方は無造作だ。しかし、今朝は違う。晴れの場に出るとあって、とくに念入りに確認するようにしてかけたというわけだ。既にコートを着ているのであれば、その釦もきっちりと……。現代の若者ならば、特にていねいにネクタイを結ぶといったところか。昔の若者の純な気持ちも良く出ていて、晴れやかな気合いのこもった佳句である。ところで最近、政府与党から成人年齢を十八歳に下げようという声があがっている。共産党も以前から主張しているが、そう簡単に賛成するわけにはいかない。国際的に見ると、たしかに十八歳で成人という国が多い。だから下げようというのも変な話で、日本は日本流で行くべきだ。これからの日本社会のことを考えると、十八歳の成人には権利よりも多くの重い義務がかぶさってきそうだからだ。現今の風潮からすれば、そのなかには兵役の義務が含まれてくる可能性もあるのだから、若者よ、飲酒喫煙の自由などの目先のニンジンにはくれぐれも騙されないように。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 1512007

 女正月帰路をいそぎていそがずに

                           柴田白葉女

語は「女正月(おんなしょうがつ・めしょうがつ)」。一月十五日を言うが、まだこんな風習の残っている地方があるだろうか。昔は一日からの正月を大正月と呼び、男の正月とするのに対して、十五日を中心とする小正月を女の正月と呼んでいた。正月も忙しい女たちが、この日ばかりは家事から解放され、年始回りをしたり芝居見物に出かけたり、なかには女だけで酒盛りをする地方もあったようだ。子供のころ暮した田舎では、小正月を祝う風習はあったとおぼろげに記憶しているが、女正月のほうはよく覚えていない。母にまつわる記憶をたどってみても、松の内が過ぎてから出かけることはなかったような……。我が家に限らず、昔の主婦はめったに外出しないものだった。出かけるとすれば保護者会か診療所くらいのもので、遊びに出るなどは夢のまた夢。田舎時代の母は、おそらく映画などは一度も見たことがなかったはずだ。どこかから借りてきた映画雑誌を読んでいた母の姿を、いま思い出すと、切なく哀しくなってくる。そんな生活のなかで、作者の住む地方には女正月があり、大いに羽をのばした後の「帰路」の句だ。いざ家路につくとなると、日頃の習慣から足早になってしまう。みんなちゃんとご飯を食べただろうか、風呂はわかせたろうか、誰か怪我でもしてやしないか等々、家のことが気になって仕方がない。つい「いそぎて」しまうわけだが、しかし一方では、今日はそんなに急ぐ必要はない日であることが頭に浮かび、「いそがずに」帰ろうとは思うものの、すぐにまた早足で歩いている自分に気がついて苦笑している。こうした女のいじらしさがわかる人の大半は、もう五十代を越えているだろう。世の中、すっかり変わってしまった。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所収。(清水哲男)


January 2212007

 家族八人げん魚汁つるつるつる

                           齋藤美規

語は「げん魚(幻魚)汁」で冬。幻魚は、日本海からオホーツク海の深海に棲息している。「下の下の魚」という意味から「げんげ」がそもそもの呼び名らしいが、昔はズワイガニ漁で混獲されたりしても、みな捨てられていたという。したがって、「げん魚汁」も決して上等の料理ではないだろう。食べたことがあるが、お世辞にも美味いとは言えない代物だった。身は柔らかいというよりもぶよぶよした感じで、骨は逆にひどく硬い。でも、これを干物にすると驚くほど美味くなるという人もいるけれど……。句は寒い晩に、そんな汁を大家族が「つるつるつる」と飲み込むように食べている図だ。大人たちは一日の労働を終えて疲れきっており、大きな椀を抱えるようにして、黙々と啜っている情景が浮かんでくる。ただこの句を紹介している宮坂静生が作者に聞いたところによれば、子供のころに食べた淡泊な味が忘れられないというから、作者自身は味や歯触りを気に入っていたようだ。だが、そういうことを考慮に入れたとしても、この句から浮き上がってくるのは、昔の貧しい家庭の夕食光景だと言って差し支えないと思う。寒い土地で肩を寄せ合うようにして暮している家族の様子が、さながらゴッホの「馬鈴薯を食べる人たち」のように鮮やかに見えてくる。宮坂静生『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2007・岩波書店)所載。(清水哲男)


January 2912007

 新宿のおでんは遠しまだ生きて

                           依光正樹

近、なんとなく涙もろくなってきた自分を感じる。同世代の友人たちにその話をすると、たいていは「俺もだ」と言う。加齢が原因なのだ。この句にも、ほろりとさせられた。通俗的といえばそうであるが、しかし人は生涯の大半を俗に生きる。通俗を馬鹿にしてはいけない。青春期か壮年期か。作者は連夜のように通った新宿のおでん屋を思い出している。それも単におでん屋のことだけではなく、その頃の生活のあれこれが派生して浮かんでくる。そのおでん屋からいつしか足が遠のき、いまではすっかりご無沙汰だ。地理的に遠く離れてしまったのかもしれないが、時間的には明確に遠くなってしまっている。もはや新宿に出かける用事もないし、わざわざ出かけていくほどの元気も失せた。「まだ生きて」とあるから、当時ともに酌み交わした仲間や同僚の何人かは、既に鬼籍に入っているような年齢なのだろう。自分だけがおめおめと生き続けていることが、ふと不思議になったりもする。思い出すという心の動きは、孤独感の反映だ。たとえ子供であっても、そうである。楽しかった新宿の夜。しかも思い出すほどに孤独感は余計に強まり、まだ生きている寂しさは募るばかりなのだが、思い出の魔はとりついたまま離れてくれない。「まだ生きて」は、そんな孤独地獄のありようを一言で提出した言葉だ。身につまされる。「俳句」(2007年2月号)所載。(清水哲男)


February 0522007

 洞窟はモンシロチョウを放しけり

                           松原永名子

ンシロチョウは、まだ蛹(さなぎ)のままで冬眠中だろう。これがどこからともなくヒラヒラ舞い出てくると、春来たるの実感が湧く。この句、そのどこからかを「洞窟」からと特定したところが面白い。良いセンスだ。情景としては洞窟のあたりにモンシロチョウが飛んでいるだけなのだが、冬の間はじいっと洞窟が囲い込んでいたチョウを、陽気が良くなってきたのを見定めたかのように、「もう大丈夫だよ」と、ようやく表に放してやったと言うのである。このときに、洞窟は温情あふれる生き物と化している。真っ暗な空間が抱え込んでいた真っ白(厳密には斑点があるので純白とはちがうけれど)なモンシロチョウ。想像するだけで、この色彩の対比も鮮やかである。この対比が鮮やかだから、読者は句のどこにも書かれていない春の陽光の具合や洞窟周辺の草木や花々の色彩にまでイメージを膨らますことができるというわけだ。余談になるが、日本のモンシロチョウは奈良時代に、大根の栽培と共に移入されたと考えられているそうだ。ひょっとすると大昔には、本当にモンシロチョウは洞窟が放すものと思っていた人がいたかもしれない。俳誌「花組」(2006年・第31号)所載。(清水哲男)


February 1222007

 早春や藁一本に水曲がり

                           田中純子

者がのぞき込んだのは、小川とも言えない細い水の流れだろう。道路に沿った排水溝(側溝)のようなところか。そこに藁しべが一本引っかかっていて、よく見ると、流れてきた水がその藁に沿って曲がって流れていると言うのだ。当たり前といえば、当たり前。まことにトリビアルな観察句だけれど、作者をしてこの句を生ましめた背景には、まことに大きな自然との交流がある。私にも覚えがあって、気候が温暖になってくると、人の目は自然と水に向うようだ。べつに風流心があったわけではないけれど、田舎での少年時代には、学校帰りにしばしば立ち止まって小川をのぞき込み、小さな魚影や蟹たちなどの動きに見惚れたものだった。冬の流れなんぞは、暗くて冷たそうで見向きもしなかったのに、猫柳が少しずつ膨らんでくるころになると、水を見るのが楽しくなってくるのである。これから日に日に暖かくなるぞという予感が、そうさせたのだと思う。揚句の作者もまた、春の足音に背中を押されるようにしてのぞき込んでいる。キラキラと光りながら流れている水が、ちっぽけな藁一本を迂回していく様子に、やがて訪れてくる陽春への期待感と喜びの気持ちを重ね合わせている。なんとはなしに、ほのぼのとしてくる一句だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1922007

 手に受けて少し戻して雛あられ

                           鷹羽狩行

誌にこの作者の句が載っていると、必ず真っ先に読む。何でもないような些事をつかまえる名手ということもあるが、単に巧いというだけではなく、句の底にはいつも暖かいものが流れていて、そこにいちばん魅かれているからだ。とくに心弱い日には、大いに癒される。揚句でも、まさに何でもない所作を詠んでいるだけだが、作句の心根がとても優しく温かい。雛あられを受けるときには、自然に両掌を差し出す。こぼしてはいけないという配慮の気持ちもあるのだけれど、そこには同時に人から物をいただくときの礼儀の気持ちが込められている。すると領け手の側は、その礼儀に応えるようにして、これまた自然な気持ちから両掌いっぱいに雛あられを注ぐのである。そういうことは句のどこにも書かれてはいないが、「少し戻して」という表現から、読者はあらためてこの日常的な礼節の交感に気づかされ、そこに何とも言えない暖かさを感じ取るというわけだ。ひとつも拵え物の感じがしない、こねくりまわしていない。けれども、人のさりげない所作の美しさにまで、きちんと錘がおりている。天賦のセンスの良さがそうさせたのだと言うしか、ないだろう。掲載誌より、もう一句。<まんさくの一つ一つの片結び>。「俳句研究」(2007年3月号)所載。(清水哲男)


February 2622007

 桃の日の襖の中の空気かな

                           正木ゆう子

の週末は桃の節句だ。昨日の日曜日を利用して、雛飾りをすませたというご家庭も多いだろう。私は男兄弟ばかりだったので、雛祭りとは無縁だった。我が家には娘が二人生まれたのだけれど、小さい頃からの人形嫌い。雛に限らず、人形を見せられると、おびえてよく泣いたものである。人間そっくりなところが、とても不気味だったようだ。そんなわけで、我が家には雛がない。逆に私は好きなほうだから、デパートなどに飾ってあるとつい見入ってしまう。近所の図書館ではこの時期に毎年何対かを飾ってくれるので、必ず見に行く。デパートや図書館には、むろん襖(ふすま)はないのだけれど、しかし揚句の作者の心の動きは想像できるつもりだ。雛を飾った部屋に流れる優しく暖かい雰囲気に、襖の中の空気までが呼応して息づいていると言うのである。襖の中のことなどは、普段は気にもとめないものだが、やはりそういうところにまで気持ちが動くというのは、飾られた雛がおのずから醸し出す非日常的で華やかな空間意識のせいだろう。この句、受け取りようによってはなかなかになまめかしくもあると思った。「俳句」(2007年3月号)所載。(清水哲男)


March 0532007

 なつかしき春風と会ふお茶の水

                           横坂堅二

までは中央大学の移転などにより、昔に比べると数はだいぶ減っているはずだが、それでも依然として「お茶の水」は学生の街だ。近辺には明治大学があり、少し離れてはいるが東京大学にも近い。この駅に降りるたびに、渋谷などとは違った若者たちの健康的な息吹を感じる。所用でお茶の水に降り立った作者は、かつてこの街の学生の一人だったのだ。折から心地よい春の風が吹いていて、神田川に反射している陽光もまぶしい。あたりには、大勢の学生が歩いている。そんな街の雰囲気に誘われるようにして、作者が自然に「なつかしく」思い出しているのは、当時の春の受験や入学のころのあれこれだろう。はじめての都会生活に日々緊張しながらも、大いに張り切って通学していた初心のころのことども……。地味な句だけれど、共感する人は多いはずだ。私は京都の学生だったが、京都にはお茶の水のように、いろいろな大学の学生がいつも雑多に混在しているような街はない。だから揚句の「お茶の水」を、百万遍や京都御所、あるいは荒神口だのと置き替えてみてもどこか間が抜けてしまう。やはりこの句は、街が「お茶の水」だからこそ生きているのだと思った。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


March 1232007

 春泥をわたりおほせし石の数

                           石田勝彦

語は「春泥(しゅんでい)」。春のぬかるみのことだ。ぬかるみは、べつに春でなくてもできるが、雪解けや霜解けの道には心理的に明るい輝きが感じられることもあって、春には格別の情趣がある。明治期に松瀬青々が定着させた季語だそうだ。ぬかるんだ道をわたるのは、なかなかに難儀である。下手をすると、ずぶりと靴が泥水にはまりこんでしまう。だからわたるときには、誰しもがほとんど一心不乱状態になる。できるだけ乾いている土を選び、露出している適度の大きさの石があれば慎重に踏んでわたる。よほど急いででもいない限り、そうやって「わたりおほ」した泥の道を、つい振り返って眺めたくなるのは人情というものだろう。作者も思わず振り返って、わたる前にはさして意識しなかった「石の数」を、あらためて確認させられることになった。あれらの石のおかげで、大いに助かったのである。なんということもない句のように思えるかもしれないが、こういう小さな人情の機微を表現できる詩型は、俳句以外にはない。この種の句がつまらないと感じる人は、しょせん俳句には向いていないのだと思う。『秋興以後』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 1932007

 惜春のサンドバッグにあずける背

                           夏井いつき

語は「惜春(春惜しむ)」。「暮の春」「行く春」と大差はないが、詠嘆的な心がことば自体に強くこもっている。一種物淋しい悼むような情を含む、と手元の歳時記の解説にある。そういえば、木下恵介に『惜春鳥』という男同士の物淋しくも切ない友情を描いた作品があった。おそらくは、夕暮れに近い日差しが窓から差し込んでいるボクシング・ジムである。トレーニングに励んでいた若者が、束の間の休息をとるために、今まで叩きつづけていたサンドバッグにみずからの背をそっとあずけた。よりかかるのではなく、あくまでも「そっと」あずけたのだ。その様子には、さながら相棒のようにサンドバックをいとおしむ気持ちがこもっており、心地よい疲労を覚えている若い肉体には、充実感がみなぎっている。そんな光景を目撃したか、あるいは思い描いた作者は、その若者の心身のいわば高まりのなかに、しかし早くも僅かに兆しはじめている衰亡の影を見て取ったということだろう。そのことが行く春への思いを、もっと物淋しい「惜春」の情にまで引き上げたと言える。この「惜春」と「サンドバッグ」の取り合わせは、なかなかに秀抜な絵になっていて、私はすぐに、ちばてつやの描いた名作『あしたのジョー』の一場面を思い出したのだった。『伊月集「梟」』(2006)所収。(清水哲男)


March 2632007

 重箱に鯛おしまげて花見かな

                           夏目成美

語「長屋の花見」の連中が知ったら、仰天して腰を抜かしそうな句だ。重箱に入りきらない大きな鯛を、とにかく「おしまげて」詰めたというのだから豪勢な酒肴である。かたや長屋の連中は、卵焼きの代りに沢庵、蒲鉾の代りに大根のこうこという粗末さだ。酒ももちろん本物ではなく、番茶を煮出して水で割ったものである。作者の成美は江戸期の富裕な札差(金融業)であり、家業のかたわら独学で俳諧をつづけ、江戸の四大家の一人と称された。一茶のパトロンとしても知られた人物だ。句からうかがえるように、当時の大金持ちの花見はさぞや豪勢だったに違いない。落語に戻れば、上野に出かけた貧乏長屋の連中は、大家に何か花見らしいことをやろうじゃないかと言われ、一句ひねらされるハメになってしまった。そのクダリを少々。勝「大家さん、いま作った句を書いてみたんですが、こんなのぁどうでしょう」大家「おぅ、勝っあん、できたかい? おぉ、お前さん、矢立てなんぞ持って来たとは、風流人だねぇ。いや、感心したよ、どれどれ『長屋中……』、うんうん、長屋一同の花見てぇことで、長屋中と始めたところは嬉しいねぇ。『長屋中 歯を食いしばる 花見かな』え? なんだって? この『歯を食いしばる』てぇのはいったい何なんだい?」勝「なーに、別に小難しいこたぁねぇんで、あっしのウソ偽りのねぇ気持ちをよんだまでで……まぁ、早い話が、どっちを見ても本物を呑んだり食ったりしてるでしょ。ところがこっちは、がぶがぶのぼりぼり、あぁ、実に情けねぇ、と思わずバリバリッと歯を食いしばったという……」へえ、おあとがよろしいようで。柴田宵曲『俳諧博物誌』(岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 0242007

 茎立ちや壁をつらぬく瓦釘

                           石井孤傘

語は「茎立(ち)」で春。「くくだち」あるいは「くきだち」と読む。暖かくなってきて、大根や蕪、菜類の花茎が高く抜きんでることを言う。揚句の前書きには「粗忽(そこつ)の釘」とあって、落語の演目の一つだ。したがって、この噺を知らないと、句の意味はわからない。噺は、粗忽者の大工が長屋に引っ越してくるところからはじまる。箒をかけたいので長い釘を打ってくれと女房に言われた男が、長さも長し、八寸もある瓦釘を柱に打つつもりが、手元狂って壁に打ち込んでしまった。なにせ貧乏長屋のことだから、壁は隣りの物音が聞こえるくらいに薄い。壁をつらぬいた釘は、当然隣家に突き抜けているはずだ。さあ、大変。とにかく謝ってこようということになり、男が隣家を訪ねたまではよかったのだが……(この噺はここで聞けます)。つまり揚句のねらいは、うっかり壁をつらぬいてしまった瓦釘を、これも茎立の一つだとみなした可笑しみにある。いかにも暢気で茫洋とした春らしい見立てだ。と、微笑する読者もおられるだろう。実は、揚句の載っている句集は、他もすべて落語をテーマにした句で構成されている(全377句)。なかで揚句は巧くいっているほうだと思うが、全体的にはいまいちの句が多いと見た。笑いに取材して、新たな笑いを誘い出すのは、至難の業に近いようだ。『落語の句帖』(2007)所収。(清水哲男)


April 0942007

 はんなりといけずな言葉春日傘

                           朝日彩湖

都には六年間いたけれど、いまひとつ「はんなり」も「いけず」も、その真とする語意が分からない。辞書を引くと、「はんなり」は「落ち着いたはなやかさを持つさま。上品に明るいさま。視覚・聴覚・味覚にもいう」、「いけず」は「(「行けず」の意から)#強情なこと。意地の悪いこと。また、そういう人。いかず。#わるもの。ならずもの」[広辞苑第五版]などと出ている。説明するとすればこうとでも言うしかないのだろうが、実際に使われている生きた言葉を聞いてきた感じでは、これではニュアンスが伝わってこないと思う。したがって、揚句の解釈に自信の持ちようもないのだが、解釈以前の感覚の問題としては分かるような気がする。作者は大津(滋賀県)在住なので、このあたりの語感の機微にはよく通じている人だろう。春日傘をさした京美人の明るく上品なたたずまいには、実はしっかりと「いけず」な心が根付いているという皮肉である。なんか、わかるんだよねえ、この作者の気持ちは。意地が悪いというのとはちょっと違うし、ましてや強情とも違う。そんな個人的なことではなくて、伝統的に土地の人に根付いてきた自己防衛本能に近い感性ないしは性格のありようが、句の春日傘の女性にも露出しているとでも言うべきか。方言句は難しいが、面白い。なお、作者は男性です。『いけず』(2007)所収。(清水哲男)


April 1642007

 春山を照らせ淡竹のフィラメント

                           賀屋帆穹

読、子供のころを思い出した。家には電気が来ていなかった。集落十数軒のうち、ランプ生活を余儀無くされていたのは、我が家の他に、もう一軒あるだけだった。むろん、貧困のせいである。薄暗いランプでの生活は不自由きわまりない。夜が来るのがいやだった。また、子供心に口惜しかったのは、ラジオが聴けなかったことや雑誌の付録についてくる幻灯機などで遊べなかったことだ。掲句は、エジソンが白熱電灯を作ったとき、日本の竹をフィラメントに採用したというエピソードに依っている。ならば、これだけ淡竹(はちく)が群生している土地だもの、暗くなってきたら、山を煌々と昼間と同じように、春らしくライトアップしてくれないかという意味だろう。ちょっとした機知の生んだ句だけれど、この機知に、私の子供時代の切なる願望が乗り移る。乗り移ると、往時の生活のあれこれが鮮明に脳裏によみがえってくる。作者の句作意図とはかなりはずれたところで、私はこの句に釘付けになってしまったようだ。誤読はわかっているが、俳句とはこうした誤読を許し誘う装置でもあると言えよう。俳誌「里」(2007年4月号)所載。(清水哲男)


April 2342007

 師系図をたぐりし先や藤下がる

                           三輪初子

七で「あれっ」と思わされる。一般的に言って、系図や系統図は「たどる」ものであって「たぐる」ものではないからだ。両者を同義的に「記憶をたぐる」などと使うケースもなくはないけれど、「たぐる」は普通物理的な動作を伴う行為である。つまりここで作者は「師系図」を物質として扱っているのであり、手元のそれを両手で「たぐり」寄せてみたところ、なんとその先には実際の「藤(の花房)」がぶら下がっていたと言うのだ。この機知にはくすりともさせられるけれど、よくよく情景を想像してみると、かなり不気味でもある。たとえば子規や虚子の系統の先の先、つまり現代の「弟子」たちはみな、人間ではなくて群れ咲いている藤の花そのものだったというわけだから、微笑を越えた不気味さのほうを強く感じてしまう。だからと言って掲句に、師系図に批判的な意図があるのかと言えば、そんな様子は感じられない。二次元的な系統図を三次元的なそれに変換することを思いつき実行した結果、このようないわばシュール的な面白い効果が得られたと見ておきたい。この句は作者の春の夢をそのまま記述したようにも思えるし、現実の盛りの「藤」にも、人をどこか茫々とした夢の世界へと誘い込むような風情がある。『火を愛し水を愛して』(2007)所収。(清水哲男)


April 3042007

 北へ行く春と列車ですれちがふ

                           藤井晴子

つてNHKラジオに「日本のメロディー」(1977年〜1991年)という番組があり、愛聴していた。パーソナリティは、独特の語り口で人気のあった中西龍(故人)アナウンサー。掲句は番組の終わりで毎回紹介されていた俳句のなかの一句だ。中西さんは千昌夫の「北国の春」(作詞・いではく)を引用して、この句にコメントをつけていた。とりわけて二番の歌詞の「雪どけせせらぎ丸木橋/からまつの芽がふく北国のああ北国の春」あたりが、いまどきの北海道の季節感にしっくりと来るだろう。調べてみたら、北海道の桜は昨日現在ではまだ咲いていない。青森でも、ちらほらということだった。日本列島は南北に細長く、北国の春が遅いことは誰もが承知している。しかしその承知は頭の中でのそれなのであって、実感として入ってくるのは、実際に列車などで移動するときだ。作者はいま北国から南下中で、車窓の景色がだんだん早春から初夏のようなそれへと移り変わっていく様子に、「北へ行く春」とすれちがっているのだなあと実感している。そんなに情感のある句とは言えないけれど、ちょうどこの季節に旅行する人の実感を素朴にとらえた手柄は評価できる。この実感からもう一歩踏み込めば、もっと良い句になったと思う。惜しい。中西龍『私の俳句鑑賞』(1987)所載。(清水哲男)


May 0752007

 川蝉の川も女もすでに亡し

                           佐藤鬼房

語は「川蝉(かわせみ・翡翠)」で夏。京都野鳥の会の川野邦造氏が「翡翠の夏の季語は解せない」として、「冬枯れの川べりをきらりと飛ぶ姿は夏以上に迫力がある」と「俳句界」(2007年5月号)に書いている。私もかつて多摩川べりに暮したので、冬の翡翠もよく知っているし賛成だ。ただ古人が夏としたのは、新緑の水辺とのマッチングの美しさからなのだろう。この句は作者還暦のころの作と思われるが、若い読者は通俗的な句として受け取るかもしれない。なにせ、道具立てが整い過ぎている。眼前を飛翔する川蝉の美しい姿に、ともにあった昔の山河もそして「女」もいまや亡しと、甘く茫々と詠嘆しているからだ。しかし私は、こうした通俗が身にしみて感じられることこそが、老齢に特有の感覚なのだと思う。ごくつまらなく思えていた諺などが、ある日突然のように身にしみてその通りだなと感じられたりもする。老齢、加齢とは、かなりの程度で具体的に通俗が生きられる年齢のことではあるまいか。若さは川蝉のようにすばしこく感性や神経を飛ばせるけれど、老いはそのような飛ばし方にはもう飽き飽きして、とどのつまりはと世間の通俗のなかに沈んでいく。格好良く言い換えれば、無常感のなかに没することを潔しとするのである。したがって、この句にジーンと来た読者はみな、既に老境に入っているはずだというのが、私の占いだ(笑)。『朝の日』(1980)所収。(清水哲男)


May 1452007

 麦秋の人々の中に日落つる

                           吉岡禅寺洞

後平野の「麦秋」を見てきた。博多から鹿児島本線で南下して久留米に至る間の景色だから、正確にはちょっぴり佐賀平野も含まれるのかもしれないが、ともかく東京などでは見られない有無を言わせぬ広大な面積の麦の秋だった。作者は福岡の人だったので、句の情景もこのあたりのものだろうか。大勢の人々が麦刈りにいそしむ夕景だ。広大な麦畑の彼方で、日が没しようとしている。その広大さは「人々の中に」という措辞に暗示されているのであって、澄んだ初夏独特の空気もまた、同時に詠み込まれている。巧みな表現と言わざるを得ない。そして秋の落日とは違い、この季節にはゆっくりと日が没してゆくので、たとえばミレーの「落ち穂拾い」のような寂寥感はないのである。むしろ逆に、明日もまた明るくあるだろうという気分のする句であって、そこもまた心地よい作品だ。ご存知とは思うが、吉岡禅寺洞は無季句を提唱し、結社「天の川」を主宰、昭和11年に日野草城、杉田久女とともに「ホトトギス」、すなわち虚子から除名された俳人だ。掲句はそれ以前のものと思われるが、この句からもわかるように、「ホトトギス」にとっては口惜しくも惜しまれる才能であったには違いない。『俳諧歳時記・夏』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2152007

 一ト電車早くもどりし新茶かな

                           加藤覚範

代の大都市の電車だと「一ト電車(ひとでんしゃ)」早く乗ったくらいでは、帰宅時間はそんなには変わらない。掲句はたぶん戦後まもなくか戦前の作句だろうから、作者がたとえ東京在住だったとしても、「一ト電車」違えばかなり帰宅時間は違ったはずである。この日は仕事が順調に進み、作者は定時に退社できたのだろう。滅多にないことなのだ。だから、いつもより一台早い時間の電車に乗って帰宅できた。通勤圏が一時間くらいであれば、家に着いてもまだ外はほんのりと明るい。それだけでもなんだか得をしたような気分の上に、奥さんが思いがけない「新茶」を淹れてくれたのだ。それを上機嫌で飲んでいる心情が、「新茶かな」の「かな」に、よく暗示されている。今年ももうこんな季節になったのかと、早い帰宅による気分の余裕がその感慨を増幅して、しみじみと新茶を味わっているというわけだ。私には帰宅後すぐに茶を飲む習慣はないけれど、今年からはじめた勤め人生活のおかげで、作者の心情はとてもよく理解できる気がする。こういうことは俳句でなければ書けないし、また書いたからといって別にどうということもないのだが、一服の「新茶」の魅力とはおそらくこうした表現にこそ込める価値があるのだと思う。句を読んで思わず「新茶」を喫したくなった読者であれば、おわかりいただけるにちがいない。『俳諧歳時記・夏』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2852007

 広げては後悔の羽根孔雀なり

                           本田日出登

季句ではあるが、孔雀が羽根を広げるのは春から初夏にかけてが一般的らしいから、いまごろの季節の句として読んでも差し支えはなさそうだ。羽根を広げるのは雄で、求愛のためである。威嚇性はない。自分の身体を覆って余りあるほどの大きさに広げるのだから、相当に体力を消耗しそうである。見ているだけで「男はつらいよ」と思ってしまう。しかし、広げなければ雌は振り向いてもくれない。だから渾身の力を込めて広げているのだろうが、そうすれば必ず求愛が成就するというわけでもない。思いきり広げたのに、あっさりと拒絶されたりして、しょんぼりなんてことはよくあるのだろう。作者はそこに着目して、「後悔」という人間臭い心理を持ち込んでいる。この着眼によって「孔雀なり」とは孔雀そのものであると同時に、人間である作者自身でもあることを暗示している。となれば、作者の「後悔の羽根」とは求愛のための衣装にとどまらず、生きてきた諸場面でのおのれのアピール行為全般に及ぶ。これまでに力を込めて、何度自身をアピールしてきたことか。それが失敗したときの後悔ばかりが、思い出されてならないのである。このときに、決して孔雀も人間も誇らかな生き物ではありえない。華麗な孔雀の姿に、かえって哀しみを覚えている。この感性や、良し。『みなかみ』(2007)所収。(清水哲男)


June 0462007

 夏の月ムンクの叫びうしろより

                           阿部宗一郎

まりにも有名なムンクの「叫び」。血の色のように濁った空の下で、ひとりの人物が恐怖におののいた顔で耳をふさいでいる。つまり題名の「叫び」はこの人物が発しているのではなく、赤い空に象徴された自然が発している得体のしれない声なのだ。掲句はしたがって、この人物の位置から詠まれている。季語「夏の月」は、多く涼味を誘われる景物と詠まれているが、この場合は花札にあるような不気味さを伴ってのぼってくる月と読める。その火照ったような光を見ていると、まさにムンクの「叫び」が「うしろより」聞こえてくると言うのである。作者は兵士としてかつての戦争を体験し、長くシベリアに抑留された人だ。だから「夏の月」を見ても、いまだに風流を覚えるというわけにはいかないのである。「夏の月耳に砲声消ゆるなし」の句もあり、掲句の「叫び」は砲声も含むが、それよりも戦場に斃れた数多くの戦友たちの無念の声でなければならない。戦後六十余年、もはや多くの人には仮想現実のようにしか思えないであろうあの悲惨を、現実のものとして捉え返せという切実な「叫び」がここにある。『君酔いまたも逝くなかれ』(2006)所収。(清水哲男)


June 1162007

 螢火に男の唇の照らさるる

                           折井眞琴

の「男」が作者とどういう関係にあるのかは、わからない。でも、そのほうが良い。見知らぬ男というわけにはいくまいが、恋人や愛人のたぐいでもないだろう。作者に掌のなかでか、虫かごのなかでか、明滅している蛍を気軽に見せてくれるほどの近しさの男である。親族や兄弟かもしれないし、単なる隣近所の知りあいかもしれない。男が見せようと近づけてきたのは「螢火」であるのだが、のぞき込もうとした作者は、蛍の光よりも、それに照らされた男の「唇」に目がいってしまった。すなわち、それまでには感じたことのなかった人に、一瞬生の「男」を感じたのである。それがどうしたということでもないのだけれど、このように相手が突然突出して異性化する瞬間は、男女を問わず、誰にも思い当たるフシはあると思う。その瞬きする間ほどのエロスを、作者はよく形象化し得ている。同工の句に「弟の指美しき梅雨の家」もあって、作者の腕前もさることながら、このような内容をさらりと表現せしめる俳句という様式には、感じ入らないわけにはいかない。『孔雀の庭』(2007)所収。(清水哲男)


June 1862007

 厨にも水鳴る喜雨の音の中

                           谷野予志

のところの東京は、まごうかたなき「空梅雨」である。気象庁が梅雨入りと判断したのは、いかなる根拠によるものなのか。連日、夏休みの絵日記にでも描けそうな空がひろがっている。「喜雨(きう)」なる季語は、この国が農業国であったことを思い起こさせるが、農家の人ならずとも、そろそろ一雨欲しいところだ。掲句の作者は待望の雨降りに心楽しく癒されて、水仕事をしている。厨にまで雨音が聞こえてくるというのだから、突然の土砂降りなのだろう。そして、水道からは、これまた勢い良く水が迸り出ている。おそらくは水不足を心配していたのであろう作者には、まごうかたなき「喜雨」なのであり、「湯水のように水を使える」(笑)安堵感が、句いっぱいにみなぎっている。しかも、その心情を音のみで表現し、しかもその技巧を読者に少しも感じさせないところがニクい。上手い。句を読んで、かくのごとき雨を切望すること、いよいよしきりなり。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 2562007

 涙について眼科医語る妙な熱気

                           金子兜太

日、大学時代の仲間が東京から京都に転居するというので、送別会をやった。そこに先月緑内障の手術を受けたばかりの大串章も来ていて、みんなで「とにかく目の病気はこわいな」と、にぎやかな「目談義」となった。大串君によると、手術前のひところには、悲しくもないのに「涙」が止まらなくなって困ったそうだ。最初にかかった眼科医は紫外線にやられたせいだという診断だったが、次の医者は緑内障だから即刻手術せよとのご託宣。度胸が良い彼は、ならばと両眼を一度に手術してもらい、すっきりした表情をしていた。よかった。で、その後で掲句を読んだものだから、なんだかヤケに生々しく感じた。作者の実感だろう。目の前の眼科医は、おそらく目にとっての涙の効用を語っているのだ。しきりに「涙」という言葉を連発して、だんだんと話に熱がこもってくる。それももとより物理的な効用の話で、寂しさや悲しさといった精神作用とは無縁なのである。相槌を打っているうちに、作者はこんなにも精神作用とは無関係な涙の話に熱を込められる人に、感心もしているが、どこかで呆気にとられてもいる。その感じを指して「妙な熱気」とは言い得て妙というよりも、こうでも言わないことには、二人の間に醸し出された雰囲気がよく伝わらないと思っての表現ではなかろうか。どことなく可笑しく、しかしどことなく身につまされもするような小世界だ。俳誌「海程」(2007年4月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます