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January 0212007

 初湯にて赤子うら返されてをり

                           酒本八重

ん坊の身体はとらえどころなく、とめどなくやわらかい。そのぐにゃぐにゃした小さな形を「うら返す」というやや乱暴な言葉で、一層の愛情を表現し得た。初湯とは、銭湯の営業が正月2日からだったことに由来し、「初湯に入ると若返る」などといわれ、朝から繁盛していたようである。今年最初の湯に浸かり、顔なじみと裸の挨拶をすることは、なんとも風呂好きの日本人らしい習わしである。しかし、現代の句である掲句は、ベビーバスか、またはごく一般的な家庭の風呂でのことだろうが、心身を清く健やかに保つ初湯の謂れを大切に、赤ん坊のための適度な加減へと細心の注意をほどこされているものに違いない。あたたかい湯をまんべんなくかけられ、うら返されている当人は、相変わらず無防備にきょとんとした様子である。慈しみに包まれ誕生した者だけが持つ、うっとりと安心しきったその表情こそ、なにものにもかえられない宝であろう。手のひらに乗せられ、つやつやと濡れて輝く桃色の命が、次の世代を引き継いでいく。ひとつの家族の系譜とは、こうした手応えを持って、まさしく手から手へ渡されていくものなのだろう。酒本八重『里着』(2005)所収。(土肥あき子)


January 0912007

 獅子頭はづし携帯電話受く

                           馬場公江

まや日常的な風景となった携帯電話や携帯ゲーム機であり、自らもその恩恵にあずかってはいるが、その景色のどこかに違和感を求めることで、過ぎし日の正しい姿を忘れないでいようと思う気持ちがある。それを具体的に何と取り合わせ、共通する違和感を引き出すかという方向が、現在の俳句の世界の携帯電話やパソコン機器に対する視線になっているようだ。幼い時分、獅子舞とは「おししがきたー」という広報役の子供の声で往来に飛び出すと、緑の胴幕のなかでふたりつながりの獅子が顎をがくがくさせて踊り、ぽかんと見ている子供の頭を厄払いに順に噛んでいくものだった。げらげら笑う子供や泣きさけぶ赤ん坊まで、実ににぎやかなお正月ならではの時間が流れたものだ。掲句では、おそらく獅子舞が一段落した後、獅子頭の部位を担当していた者がおもむろに頭を脱ぎ、携帯電話を受けたのだ。次の予定などの事務連絡だろうが、興奮さめやらぬさなかにいる方にとってはまことに興醒めである。もしかしたら、獅子頭をはずしたのちの姿も、かがやく茶髪の青年かもしれない。こんなところにまで進出しているのか、と思うと同時に、日本の津々浦々で携帯電話を耳に当てるさまざまな人の姿を思い、なまはげや恐山のいたこまでがケータイで連絡を取り合うような図も思い描いてしまうのだった。現状に違和感を感じるということは、それだけ過去を長く持つことでもある。やれやれと思う心のどこかで、自分に向かって「ごくろうさん」とつぶやいている。「狩」(2007年1月号)所載。(土肥あき子)


January 1612007

 森番に革命の歌山眠る

                           松橋昭久

命とは、国家や社会の組織の急激な変革をいうとある。「革命」という言葉で、血がたぎるような興奮を覚える世代はいつ頃までなのだろう。おそらく、理想に燃えて学生運動に深く関わった世代だろうか。革命に関わり、勝利を手にしたものが幸福を得るとは限らない。掲句では「森番」という、現役や世俗から遠く離れた厭世的な姿が、すべてを象徴している。森番の過去に何があったというのだろう。しかし、彼には繰り返し口にする歌がある、それだけで充分なのだと思い直す。森番は満天の星を背負い、暗く大きな口を開けているような冬の山へ向かって、子守唄を聞かせるようにいつまでも低く歌うのだろう。「山眠る」とは、中国『臥遊録(がゆうろく)』の「冬山惨淡(さんたん)として眠るが如し」を出典に持つ、山の静かに深く眠るような姿を擬人化させた季語だが、ここではじっと無言で森番の歌に聞き入る同志のようなたたずまいがある。たったひとつきり繰り返す革命の歌を思うとき、彼の過去がほんの少しだけ顔を出す。『雪嶺』(2006)所収。(土肥あき子)


January 2312007

 とどのつまり置いてきぼりや雪兎

                           大木孝子

どのつまりの「とど」とは漢字で魚ヘンに老と書くそうだ。広辞苑では「鯔(ぼら)が更に成長したものの称」とある。出世魚鯔の行き着く先が「とど」という聞き慣れない名前となり、頂点を極めたはずの「とどのつまり」が、どちらかというと思わしくない方向に傾く言葉になっているとは不思議なものだ。掲句は迫力の「とどのつまり」に、悲しみのニュアンスをまとう「置いてきぼり」と続くところで、まるで童話のなかの森をさまよう子供たちのような景色となった。通学途中や旅先で、手なぐさみで作った雪うさぎを持ち歩くことはできないが、かといってそのままぎゅっと押しつぶし、雪玉にして遠くに投げつけるようなことは決してしない。雪うさぎは、手のひらの中でつぶらな瞳を持つ雪の生きものとして生まれたのだ。道中携えることの叶わぬ雪うさぎは、結局そのあたりの一番おだやかな場所にそっと置き去りにされる。そのささやかなうしろめたさが、彼らに永遠の命を灯すのだろう。持ち帰ろうとすれば「置いてけ、置いてけ」と呼ぶ声もどこからか聞こえてきそうな、無垢の世界にしか住むことができない雪の精である。ある冬の日、庭の雪をひと掬いして作った雪うさぎの、あまりの可愛らしさに室内に持ち込み、あろうことかテレビの上に置いて眺めていたら、みるみるうちに白い皿に浮く笹の葉2枚と南天の実2粒という姿となった。そのわずかな色彩がことのほか悲しかった。やはり野に置け雪うさぎ。『あやめ占』(2006)所収。(土肥あき子)


January 3012007

 また一羽加はる影や白障子

                           名取光恵

崎潤一郎の『陰翳礼讃』を持ち出すまでもなく、白障子のふっくらとした柔らかい光線の加減こそ、日本人の座敷文化の中核をなすといえよう。障子や襖(ふすま)などの建具が冬の季語であることに驚く向きも多いだろうが、どれも気温を調節し、厳しい寒さの間はぴったりと閉ざし、春を待つものとすると考えやすいかと思う。障子といえば、私のようないたずら者には、影絵遊びや、こっそり指で穴を作る快感などを思い浮かべるが、掲句の障子の影に加わる一羽は、庭に訪れた本物の小鳥だろう。というのは、句集中〈検査値の朱き傍線日雷〉〈十日目の一口の水秋初め〉など闘病の句に折々出会うことにより、仰臥の視線を感じるためだ。しかし、どれも淡々と日々を綴っている景色に、弱々しさや暗さはどこにもない。庭に訪れた小鳥の輪郭を障子越しに愛で、来るべき春の日をあたたかく見守る作者がそこにいる。冬来たりなば春遠からじ。あらゆることを受け入れている者に与えられた透明な視線は、障子のあちら側で闊達に動く影に、自然界の厳しさのなかで暮らす力強い鼓動を読み取っている。純白の障子は、凶暴な自然界と、人工的にしつらえられている安全な室内との結界でもある。『水の旅』(2006)所収。(土肥あき子)


February 0622007

 春立つや櫛ふところに野良着妻 

                           蛯原方僊

は女の命という言葉があるように、いつの時代も女は髪を大切にし、また異性からはつややかな髪は豊かな魅力として見られてきた。女が櫛を使うとき、それは男が眺めるもっとも女性らしい姿であろう。妻がふところから櫛を取り出せば、そこにひとりの女性が現れる。それにしても、土にまみれた野良着姿である女に櫛が必要なのだろうか、と男はふと考える。「今さら髪を整えてどうするというのだ」と首を傾げる単純な気持ちと、着飾ることもなく働く妻への憐憫が交錯する。まだわずかに冷たさが残る、しかし確かに春の兆しを感じる日差しのなかで、妻の誰に見せるともないありふれた仕種に、長年連れ添った日々を振り返り、良き伴侶を持ち得た幸福に満たされる瞬間ではないだろうか。今日から春になるという立春の日。あらゆる四季の節目のなかで、もっとも待ちこがれる日を取り合わせたことで、しみじみとあたたかい句となった。わたしには、太陽の下でほつれた髪を整えるこの野良着の女性が、健やかな大地の女神にも思え、一枚の絵のように大切に胸にたたまれている。『頬杖』(2005)所収。(土肥あき子)


February 1322007

 四匹飼えば千句与えよ春の猫

                           寺井谷子

所の雑司が谷墓地に恋する猫たちが闊歩する季節となった。「恋猫」「孕み猫」「子猫」と、春の歳時記にあふれる猫の句を前に、飼い猫たちを「一体どうなのよ」と眺めている作者の視線が愉快な掲句である。もちろん、猫の方は我関せずの態を崩さず、顔など洗っているのだろう。愛玩動物として飼われる猫が大半になった現在、俳句にペットを持ち込むことは、吾子俳句、孫俳句同様、舐めるような愛着を見せられては敬遠されることは必定で、例句がふんだんにあるわりに、新しい猫の句を誕生させることは難しい。そこへいくと掲句には、意表をつく「千句与えよ」という大上段に構えた表現と、そこに込められた明らかな諦観がユーモラスな笑いにつながってゆく。また、猫を飼っている読者も「一匹につき250句かあ」などと詮無い割り算ののち、やはりそれぞれの飼い猫を眺め、その「まるっきり関係ありません」的な態度に肩をすくめていることだろう。漫画「サザエさん」には、縁側で猫をからかいながら「よごれ猫それでも妻は持ちにけり」とくちづさむ波平に、カツオとマスオが「おとうさん、それは犬のほうが…」などといいように添削され、「一茶の句だ」と一喝する場面がある。俳句を趣味とする波平にも250句与えてくれたとは思えないサザエさん家のタマであった。『母の家』(2006)所収。(土肥あき子)


February 2022007

 菜の花や象と生まれて芸ひとつ

                           佐藤博美

大な身体を持ちながら従順に命令に従う象の芸は、賢さや器用さを思うより、いいようのない切なさを伴うものだ。さらに戦争中の1943年、逃走したら危険という理由で餓死させられた上野動物園の象が最後まで芸を繰り返したという実話も重なり、異国の地に連れてこられた動物たちの哀れな運命に思いを馳せる。涅槃図に描かれる白象ではなく、人々は一体いつ実物の象という動物を目にしたのだろうかと思い調べてみると、1728年8代将軍吉宗が注文した5才のメスと7才のオスの2頭の象がベトナムから長崎に到着していた。船旅の疲れが祟ったのか、メス象は3カ月ほどで死んでしまうが、オス象と象使いたち一行は江戸を目指し、一日に3里から5里のペースで陸路をたどったという。京都御所謁見の際「広南従四位白象」という位まで頂戴した象さまをひと目見ようと、道中の熱狂の人垣はいかばかりかと想像するが、象の方は街道の人々に愛嬌を振りまいて穏やかに歩を進めていたようだ。オス象は10年ほど浜離宮で飼育され、吉宗は時折江戸城に召し出したというが、その後は中野の農夫に払い下げられ見世物とされ、数カ月後の真冬の12月に病死している。象の寿命が70年余りだと考えると、享年21才という年齢は短いものだろうが、伴侶もなくたった一頭で繰り返す四季はあまりに長く悲しい歳月だったことだろう。掲句の菜の花の屈託のない黄色が、ひときわ印象的な色彩となって胸に灯る。『空のかたち』(2006)所収。(土肥あき子)


February 2722007

 雛飾る向ひ合はせにしてみたり

                           喜田礼以子

い頃、客間に飾られる雛人形は、自由に触ったり、ましてやお雛さまを使っての人形遊びなど堅く堅く禁じられていた。人形といえども、いつも手にするリカちゃん人形などとは一線を画す、ひたすら眺めるだけの存在だった。自分のものだというのに「お道具を失したら大変」「お顔を汚したら大変」と、そっと飾り、そっと仕舞われ、一番楽しそうな部分は一切子供が関わることができない大人の行事のように感じていたものだ。掲句の作者は、母の立場で雛壇を飾っているのだろう。ようやく自由に雛人形を手に取れるようになった今、そっと昔の夢を果たしているのではないだろうか。本来若い夫婦であるはずの男雛と女雛を、向かい合わせにしてみたのは、作者のなかにじっと潜んでいた少女の自然な動作であろう。たとえ叱られる存在などいまやいないと分かっていても、どこかに悪いことをしているような気分もにじませながら、人形遊びをしていた頃の呼吸を思い出し、「はじめまして」などと呟かせてもみるのである。『白い部屋』(2006)所収。(土肥あき子)


March 0632007

 美と言ひしままの唇雛かな

                           石母田星人

く片付けないとお嫁に行けなくなる、などというナンセンスな理由が現在もまかり通り、早めに出され早々に仕舞われる雛人形であるが、最近は立春に飾り、啓蟄の本日片付けることが多いそうだ。さらに忠実なる場合には、この日に手が付けられない場合には、雛人形たちを後ろ向きにすると、「眠られた」「お帰りになった」という意味を持ち、片付けたことと同様になるのだというが、全員後ろ向きの雛壇とは、さながらホラー映画を思わせる光景であろう。もともと、雛人形という時代がかった姿かたちは、日常とは全く別次元の美しさであることから、そこにはわずかな恐ろしさも含んでいる。人形の唇がうっすらと開いており、そこに米粒よりちいさな白い歯が並んでいることに気づいたのは、ずいぶん小さな時分であったが、そのとき可愛らしいとは対極のはっきりとした恐怖を感じたことを覚えている。確かに口元は掲句の通り「び」という形である。濃い紅に塗られた唇が、口角をひょいと上げ「び」と言いかけた形で固まっている。多くの家庭で今年のお役目が終わり、来年の立春まで、長く暗闇のなかでふたたび暮らす雛人形たち。てんでに納戸の隅に積まれた木箱のなかで、薄紙に包まれて何かを呟いているのだと思うと、それはふと「さびしい」の「び」なのかもしれない、と思うのだ。『濫觴』(2004)所収。(土肥あき子)


March 1332007

 流木は海の骨片鳥帰る

                           横山悠子

鳥が北へと帰る頃になると、わたしの暮らす東京の空にも、黒いすじ雲のような鳥たちの姿を見ることができる。桜の便りと雪の便りが同時に届く今年のような妙な気候では、出立の日を先導するリーダー鳥はさぞかし戸惑っていることだろう。長い旅路は海に出てからが勝負である。空に渡る黒いリボンは、大きくターンするたびに翼の裏の真っ白な羽を見せ、手を振るようにきらきら光りながら、海の彼方へと消えていく。幾千の命を生み、また幾千の命の終焉を見てきた母なる海にとっては、海原の上を通うちっぽけな鳥影も、進化を重ね、わずかに生き延びることができた血肉を分けたわが身であろう。小さな鳥たちの影を、また落としていった幾本かの羽毛を、波はいつまでも愛おしんで包み込む。打ち上げられた流木を波が両手で転がし、惜しむように洗ってゆく。海は大きな揺りかごとなって、いつまでもいつまでもその身を揺らす。太古から存在する海、大樹であった流木の過去、鳥たちの苦難の旅など、掲句はひと言も触れずに、すべてを感じさせている。こうした俳句の読み方は、時としてドラマチックすぎると思われるだろう。しかし、ひとつの流木を見て作者に浮かんだイメージは、十七文字を越えて読者の胸に飛び込んでくる。一句の持つ力にしばし身をまかせ、去来する物語りに身をゆだねることもまた俳句を読む者の至福の喜びなのである。『海の骨片』(2006)所収。(土肥あき子)


March 2032007

 さびしくはないか桜の夜の乳房

                           鈴木節子

年もまた花見やら桜祭りやらと何かと気ぜわしい季節となった。満開をやや過ぎた頃の桜が一途に散る様子が好きなので、風の強い日を選んで神田川の桜並木を歩く。毎年恒例の勝手気ままな個人的行事だが、散った花びらが神田川の川面を埋め、それがまるでどこまでも続く桃色の龍のような姿となっていることに気づいてから、この龍と会うのは、たったひとりの時でしかいけないような気がしている。梶井基次郎の『櫻の木の下には』や、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を引くまでもなく、満開の桜には単なる樹木の花を越えた禍々しいまでの美しさがある。桜や蛍など、はかないと分かっている美しいものを見た夜は、誰もが心もとない不安にかられるのだろう。女の身であれば、我が身の中心を確かめるように乳房に手をやってみる。しかし、そんな夜は、確かにこの手がわが身に触れているのに、そこにあたたかい自分の肉体を見つけることができないのだ。指から砂がこぼれてしまうような不安に耐えかね、寝返りを繰り返せば、乳房は右に溢れ、左に溢れ、まるで胸に空いた大きな穴を塞ごうとしているかのように波を打つ。咲き満ちていることの充足と恐怖が、女に寝返りを打たせている。『春の刻』(2006)所収。(土肥あき子)


March 2732007

 あふむくやはるおほぞらのうつぶせに

                           柚木紀子

年、手書きの機会はめっきり減っているが、どうしても書き取りたいと思わせる句がある。作者と同じ字面をなぞることで、身体のすみずみまでしっかりゆきわたる感触を味わうことができるからだ。掲句も丹念に書き写し、その景を存分に堪能した一句だ。大地に仰向きで寝転び、無防備に両手両足を投げ出すとき、まるで青空がうつぶせになって覆い被さってくるようだと思う。唇のかたちの春の雲がやわらかに流れ、風が髪をなぶり、陽が頬を撫でる。ああ、今、春の空に誘われているのだと気づく。なんと優雅になんと雄々しい誘惑だろう。空を「うつぶせ」にしたことによって命を与え、ある種の異類婚姻譚を感じさせる。ギリシャ神話でゼウスは黄金の雨に姿を変え、ダナエの元に訪れ、身ごもらせたのだった。明日からなにもかもが変わってしまうような予感に揺さぶられながら、作者もまたためらうことなく二本の腕を大空に向かって差し出すのだろう。青空としなやかな白い腕とのコントラストが息を飲むような美しさで迫ってくる。『ミスティカ』(2004)所収。(土肥あき子)


April 0342007

 保育器の足裏に墨春の昼

                           瀧 洋子

院で新生児の取り違えがないように足の裏に名前を書くというのは、ずいぶんアナログなことで、過去の話しだとばかりと思っていたのだが、デジタル社会の現在でも行われているところがあるらしい。「一番大切なことは機械まかせにできません」という、あたたかみのある気概をなんとも微笑ましく思いつつ、小さな足裏に黒々と名前を書かれ、並べられている赤ん坊の姿を思い浮かべる。そこでふと、まだ名があるとは思えない新生児に書かれる名とは名字なのだと思い当たり、生まれ落ちてすぐに名字があることの不思議に思い当たる。それは、目の前にある命に行き着くまでの歴史を思わせ、その名が書かれたことにより霊験あらたかなる護符のように、足裏から一族の愛情のかたまりが強く浸透していくように思えてくるのだった。そして掲句は保育器のなかのできごと。かたわらに寝息を感じ、胸に抱くことが叶わぬわが子である。小さなカプセルのなかで動く、真っ白な足裏に書かれている名前は、確かにここに存在する命の証のように、黒々とした墨色はさぞかし目に沁み、胸を塞ぐことだろう。保育器を囲む眼差しはみな、このやわらかな足裏が、大地に触れ、力強く跳ね回る日を願っている。だんだん欲張りになってしまう子育てだが、「元気に育て」と切なる祈りが育児のスタートなのだと、あらためて思うのだった。『背景』(2006)所収。(土肥あき子)


April 1042007

 つぎつぎと嫁がせる馬鹿花吹雪

                           福井隆子

冷えが続いた陽気に、ずいぶん長持ちしたように思う今年の桜だが、花吹雪も一段落し、これからは桜蘂(さくらしべ)を降らす段に入った。桜は花を落としたのち、ひときわ紅く燃え立つように見えることがあるが、これは深紅に近い色彩の蘂があらわになるためだ。掲句に竹下しづの女の「短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてつちまおか)」をふと重ねる。しづの女が母親入門の句であるなら、掲句は母親卒業の句である。しづの女は乳飲み子を前に母性から噴出する一瞬の狂気を描き、掲句は手塩にかけたわが子をあっさりと手放したあとの自嘲と諦観を詠んでいる。「馬鹿」と軽口めきながらも、そこには同時に健やかな巣立ちの喜びと誇らしさがあり、はらはらと散る桜の花びらが、長いお母さん業卒業の祝福の花吹雪にも見えてくる。母の強さはこの超然とした態度にあるのだと思う。元気でいてくれたらそれで結構、そんなおおらかな気分が母性の終点にはある。惜しみない時間を愛する子供に費やしたあとは、自分の時間をたくましく開拓していくのだ。まるで花吹雪のあとの桜が、一層力強く鮮やかな表情を見せるように。『つぎつぎと』(2004)所収。(土肥あき子)


April 1742007

 蟻穴を出づひとつぶの影を得て

                           津川絵理子

たたかな太陽に誘われるように、庭に小さな砂山ができ始めた。蟻が巣穴の奥からせっせと運んでは積み上げた小山である。わが家の地底に広がる蟻帝国も盛んに活動を開始したようだ。掲句で作者が見つめる「ひとつぶ」は、蟻の小さな身体を写し取っていると同時に、その一生の労働に対する嘆息も込められているように思う。長い冬を地底で過ごし、春の日差しをまぶしみながら巣穴を出るなやいなや働く蟻たち。一匹につき、ひとつずつ与えられた影を引きながら休みなく働く蟻に、命とは、生きるとは、と考えさせられるのである。昨年友人が「アントクアリウム」なる蟻の観察箱を入手し、庭の蟻を提供することになった。充填された水色のゼリーが餌と土の役割を果し、蟻の活動を観察できるというものだ。美しい水色のお菓子の家で暮らすことができる蟻たちに羨望すら覚えていたが、四方八方が食料であるはずのこの環境でも、彼らは怠けることなく律儀に通路を掘り続ける。冬眠もしないで働き続ける蟻たちを思い、いやこれこそ地獄かもしれない、と考え直した。太陽に照らされ、蝶の羽を引き、また砂糖壺に行列する方が蟻にとって何百倍も幸せだと思うのだった。第三十回俳人協会新人賞受賞。『和音』(2006)所収。(土肥あき子)


April 2442007

 リラ冷やガラスの船にガラスの帆

                           大西比呂

ラ(lilas)はフランス語。「ライラック」、ましてや「紫はしどい」より優美な雰囲気が強まる。モクセイ科なので、よく見ると四弁の花の形は金木犀に似ているが、もっと大ぶりで優しい大陸的な甘い香りの花である。この花が咲く頃のふいの寒さを「リラ冷え」と呼ぶ。春はあたたかい日差しをじゅうぶんに感じさせたあとにも、驚くほど冷たい一日があったりする。「リラ冷え」は、昭和35年北海道の俳人榛谷美枝子(はんがいみえこ)氏の俳句から誕生し、昭和46年に渡辺淳一の『リラ冷えの街』で定着したというから、わりあい新しい季語だろう。どちらかというと迷惑な陽気だが、しかし語感の花の名の異国情緒もあいまって、どこか甘美なイメージが漂う。掲句はさらに華奢なガラスの帆船を取り合わせたことで、まるでそんな日にはガラスの船が昼の月へと船出するようなファンタジーがふくらむ。幼い頃、実家の玄関には大きなガラスの帆船があった。慌ただしい小学生だったわたしは、ある日洋服の袖に舳先を引っかけ、粉々にしてしまう。夕方、わたしと弟が父親に呼ばれ、「嘘をついている眼は見ればわかる」と並べられた。度胸のよい姉と、臆病な弟の理不尽な顛末は省略するが、ちくりと胸を刺すさまざまな過去の過ちなども引き連れ、ガラスの船はリラの香りの風をいっぱいにはらませ出帆する。『ガラスの船』(2007)所収。(土肥あき子)


May 0152007

 五月晴豚舎のシャワー雫せる

                           上田貴美子

ャワーは夏の季語にもあるが、掲句のそれは涼を取ることが目的ではなく、あくまで豚舎の建物の一部としてのシャワーである。豚はとてもデリケートな動物で、外部から持ち込まれる病原菌にたいへん気を使うという。豚舎内に入る場合には、シャワーを浴びた後、靴下、下着いっさいを用意された衣服に着替えるのだそうだ。おそらくたくさんの豚たちが賑やかに生活している空間に隣合わせて、雫は一滴また一滴とこちら側の機能的な設備のなかに響く。無駄のない言葉の斡旋が、素知らぬ顔をして風景の背後にある真実にぐいぐいと迫っていく。清潔な環境、病気をさせないような配慮の先にあるものとは。ここにいる動物たちは、言うまでもなく食卓にのぼる食べ物になるために飼育されているのだ。わたしたちはいかに生かされているのか、そんな命のやりとりを声高に訴えることなく、掲句はしかしさりげなく差し出してみせている。見上げれば雲ひとつない、はりさけるほど美しい五月の空があるばかり。管理された豚たちは、外界の空を見る機会はあるのだろうか。ぽつり、ぽつりと静かな祈りのように雫がふくらんでは落ちる。『人間(じんかん)』(2004)所収。(土肥あき子)


May 0852007

 親戚のような顔して黴育つ

                           鎌田次男

ニシリンを始め、味噌、醤油、チーズなど、深く感謝に値する黴(カビ)は数あれど、清潔志向の現代の生活ではアレルギー疾患を引き起こす一因などとも関係し徹底して嫌われ、愛でるために栽培している人はまずいないと思われる。掲句ではそのにっくき黴が「親戚のような顔」で育っているという。俳句で使用する「ような」や「ごとく」には、ごく個人的な感情に通じるものがあり、読者の「わかる」と「わからない」が大きく分かれるところでもあるが、座敷の片隅で発見した黴がまるで「遠縁の者です。厄介になります」とばかりに、大きな顔でもなく、かといって遠慮するわけでもなく、ひそやかにのさばっていく様子はまさしく「親戚のような顔」であろう。黴が生えるという嫌悪すべき緊急事態が、一転してあっけらかんと罪のない日常に溶け込んだ。親戚が集まる冠婚葬祭の場では、どうしても思い出せない叔父や叔母や従姉妹が、ひとりやふたりいるものだ。しかし確かにどこかで見覚えもあり、どことなく似通うこの係累の特徴も備えている。結局、最後まではっきりとした関係はわからないまま「親戚の人」として存在する人物がいたことなども懐かしく思い出している。『亀の唄』(2006)所収。(土肥あき子)


May 1552007

 代田より這ひ来て吾を生せる母

                           小原啄葉

者は1921年、岩手県生れ。今よりほんの少し昔の農村では、農閑期に受胎し農繁期に出産することが多かった。そして10歳をかしらに5人の子供というような、すさまじい育児を繰り返してきたのだ。少子化とは何なのだろうかと今一度考えてみる。前回の国勢調査で出生率は過去最低の1.26人であったと発表されている。いわく子供を育てる環境が整わない、働く女性への配慮が足りないなど、不満や不安は限りない。しかし掲句を前にしたとき、それらの言葉のなんと脆弱であることか。代田とは苗を植えた際、発育が良くなるように田の面を掻きならす代掻きが済んだ田のこと。この作業はかつて非常な労力を必要としたという。産み月まで労働を強いられてきた女たちの過酷な日々を感じつつも、掲句には弱音を一切受け付けないようなほとばしるパワーがある。私を含め、出産や育児に対して気弱な女性が増えた昨今、大いなるエールを与えるには、政府が打ち出す「次世代育成支援対策推進法」や「教育再生会議」の親切めいた子育て指南でうんざりさせるより、過去の母親がなしてきた姿を見せてくれたほうがよほどこたえる。女たちはいつの時代も力強く子を生み、育ててきた。どんな時代であろうと果敢に挑戦せよと、過去をさかのぼる何百何千という日本の母親たちの手に触れたようなぬくもりと厳しさを一句に感じている。『平心』(2006)所収。(土肥あき子)


May 2252007

 竹皮を脱ぎて乳もなし臍もなし

                           鈴木鷹夫

や竹林は大昔から日本にあった景色だと思い込んでいたが、平安時代にはごく珍しいものだったようだ。箒や籠などの竹細工の技術は山の民によって伝承され、時間をかけて暮らしに欠くことのできない生活用品となった。また希少であった時代から、成長の早さや生命力、空洞になっている形状などから、竹には神秘的な霊力があると信じられてきたという。実際、初夏の光が幾筋も天上から差し込む竹林のなかで、ごわごわと和毛に包まれた筍が土に近い節から順に皮を脱ぎ、青々とした若竹となる様子は他の樹木などには見られない美しい過程だろう。狂おしいほど一途に竹が伸びる様子は、萩原朔太郎の作品『竹』にまかせるとして、掲句は滑らかな竹の幹を前に、乳房や臍を探すというきわめて俗な視線を持ってきている。これにはもちろん竹取物語の「筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」を意識し、かぐや姫の十二単を脱がせるようなエロティックな想像をかきたてる。古来より人々が竹に抱いている清らかな幻想を裏切るような一句であるが、作者の諧謔は〈今生は手足を我慢かたつむり〉〈吊されし鮟鱇何か着せてやれ〉にも見られるように、くすりと微笑させたのちであるからこその、消えぬ火種のような切なさが埋め込まれている。『千年』(2004)所収。(土肥あき子)


May 2952007

 夢十夜一夜は桐の花の下

                           西嶋あさ子

んな夢を見た、で始まる夏目漱石の幻想的な短編小説『夢十夜』。とある一夜は桐の花の下で語られると掲句はいう。思わず本書を読み返してみたが、実際に桐の花が出てくる話しを見つけることはできなかった。掲句は単に原作の一部をなぞっているのではなく、作者のなかのストーリーの残像なのだろう。ある物語を思い出すとき、文章の一部が鮮明に浮かびあがる場合と、浮遊している一場面の印象が手がかりとなる場合がある。後者は、文字列ではない分、ひとつの物語が大きなかたまりとして内包されているわけで、その一端がほどけさえすれば、みるみる全文が暗闇から引き出される。掲句の作者のなかで語られた桐の花が象徴する一夜は一体どんな物語だったのだろう。月光のなかで震える巫女の鈴のような桐の花房を見あげて思いをめぐらせる。『夢十夜』の第一夜で、死んだら大きな真珠貝で穴を掘って埋めてくれと頼む女は、そうして「百年待って下さい」という。漱石が本書を発表した1908年から今年で九十九年。「百年はもう来ていたんだな」、第一夜はこうして終わる。それぞれの胸のなかに眠らせていた十の夜が百年の時を越えて次々と目を覚ます。桐の花は闇に押し出されるようにして咲く花である。『埋火』(2005)所収。(土肥あき子)


June 0562007

 牛逃げてゆく夢を見し麦の秋

                           本宮哲郎

の秋は「秋」の文字を含みながら、夏の季語。麦の穂が熟すこの時期を、実りや収穫のシーズンである「秋」になぞらえて使っている。竹の春(秋)や竹の秋(春)なども、このなぞらえを採用する悩ましい季語だ。と、これは蛇足。さて、牛が逃げる夢を見た作者である。〈牛飼ひが牛連れ歩くさくらかな〉〈馬小屋をざぶざぶ洗ふ十二月〉など、新潟の地で農業を営む作者の作品に牛や馬が登場することはめずらしくないが、どれも事実に即した詠みぶりのなかで、夢とは意外であった。さらになぜ牛だったのだろう。馬では、颯爽としていて一瞬にして遠ざかってしまうだろう。引きかえ、おそらく立ち止まり振り返りしながら去っていく牛であることで、存在に象徴や屈託が生まれた。夢とはいえ、農耕の大きな働き手である牛を失う絶望感とともに、一切の労働から解放してあげたいという心理も働いているように思う。凶作や戦争の終わりを預言すると伝えられる「件(くだん)」は牛の姿をしているという。夢のなかにも現実にも、途切れず聞こえていたのは、さらさらと川の流れのような黄金色の麦畑に風が吹き抜ける音である。目が覚めてからもふと、夢のなかに置いてきてしまった牛の行方に思いを馳せる。『伊夜日子』(2006)所収。(土肥あき子)


June 1262007

 夜濯のはじめは水を見てをりぬ

                           坂本 緑

濯(よすすぎ)とは夜する洗濯のこと。「夏はその日の汗にまみれた肌着類を夜風が立ってから洗濯して干しても翌朝にはもう乾いてしまう。昼間勤めている女性や主婦は、夏は涼しい夜に洗濯することが多かった」と歳時記にはある。今の時代、盥で洗濯する機会はほとんどないだろうが、ぐるぐる回る洗濯機の水をぼーっと眺めていることは時折ある。清々しい朝の洗濯とはひと味違い、夜濯は一日の記憶がまだあらわな、体温が生々しく残っているものを洗ってしまうことの、なぜとはない不安や戸惑いがよぎる。作者の作品の多くは、日常を丁寧に掬い取り新鮮な側面を捕える。例えば〈あとついてくる掃除機や雛の間〉では主婦の忠実な手足となる電化製品との関係が、また〈蚕豆といふ幸せのかたちかな〉〈一人遊びの会話聞きつつ毛糸編む〉など、幸せな家庭のひとコマが再現される。しかし、掲句には愁いが澱のように沈んでいる。それは歳時記の実利的な本意とはまったく別に、まるで夜濯とは、夜吹く笛のようにしてはいけないことに思えてくる。夜濯の水に映ってしまう形のない不安を振り切るように、女たちは洗濯物を月にさらし、明日の新しい太陽を浴びさせるのである。『幸せのかたち』(2006)所収。(土肥あき子)


June 1962007

 死んでゐる蛇をしまひし布袋

                           茅根知子

を嫌うあまり「巳年の年賀状を見ることができない」と嘆く友人がいる。常に人から嫌われる生き物の上位に位置する蛇である。邪馬台国では、情報の伝達を禁じるために「文字を書くとその文字がすべて蛇となる」とおふれを出し、人々を容易く信じ込ませたという。蛇を怖れることは、人間が遠く洞窟に暮らしていた時代にさかのぼるというのだから、先祖代々の記憶の種として植え付けられているのかもしれない。掲句の蛇は駆除されたものか、蝮捕りの袋なのか不明だが、その存在は生々しい。俳句は淡々と詠むほどに、読み手に拒絶する時間を与えず広がってしまう映像がある。ことに掲句の下五、「布袋」とぽつんと言い留めたところに、不穏なふくらみを持った目の粗い麻布が、湿り気を伴い、こちらの膝に放り出されたような感触で迫ってくる。蛇は死んだことにより、単なる生き物から永遠の命を持つ化け物へと生まれ変わった。赤い瞳を閉じ、暗い袋のなかでうずくまっているであろう姿は、生きているよりはるかに恐ろしいあり様である。この袋には死んだ蛇が入っている、それだけの情報が、それぞれに形を変えて読者の心に浸透する。『眠るまで』(2004)所収。(土肥あき子)


June 2662007

 凌霄花手錠のにぎりこぶしかな

                           横山香代子

にも鮮やかなオレンジ色の凌霄(のうぜん)の花。日本には豊臣秀吉が朝鮮半島から持ち帰ったといわれている中国原産の蔓性の植物である。「霄」という字は空を意味し、空を凌(しの)ぐほど伸びるという途方もない名を持っている。掲句は色鮮やかな花と、罪人の手元という異色の取り合わせである。なにより、人は手錠を掛けられたとき、誰もがグーの形に手を揃えるのだという事実が作者のもっとも大きな発見であろう。さまざまな後悔や無念が握りしめられたこぶしに象徴され、天を目指す鮮やかな花の取合わせがこのうえなく切なく、読む者をはっとさせる。また凌霄花は、夏空に溢れる健やかさのほかに、貝原益軒の『花譜』では「花を鼻にあてゝかぐべからず。脳をやぶる。花上の露目に入れば、目くらくなる」と恐ろし気な記述が続き、また英名Campsis(カンプシス)は、ギリシャ語の「Kampsis(屈折)」が語源だという、単に美しいだけではない一面を持つ。もちろん掲句にそのような深読みは不要だろう。しかし思わずその名の底に、善のなかの悪や、悪のなかの善などが複雑に入り交じる人間というものを垣間見た思いがするのだった。『人』(2007)所収。(土肥あき子)




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