18歳から成人にという動き。若者を長期間保護する力が社会に無くなってきたという事。(哲




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January 0312007

 人去つて三日の夕浪しづかなり

                           大伴大江丸

旦からは身内をはじめ友人、同僚などが年始で集まってくる。酒が入り、おせち料理をつつきながら話がはずむ。去年はああだった、こうだった、今年はああだろう、こうだろう、こうあれかし・・・・などと、いっぱしの楽観論や悲観論がもっともらしくいりまじる。まことにもって恒例の無責任事始め。まあ、それもいいか、正月だもの。三ケ日だもの。テレビではタレント・ゲーノー人どもが視聴者そっちのけで、われ先にと終日こけつまろびつのバカ丸出しの大騒ぎ。笑えませぬ。フツーの人間には、シラフじゃとても三日と堪えられませぬ。さて、ブラウン管のこっち側、子ガメ孫ガメ寄り集まっての無礼講のにぎわいも、さすがに三日目の夕刻ともなるとくたぶれて、一人去り二人去り、浪がひくようにさっさかひいて行く。「ハレ」の浪もようやく平常の静けさに戻る。「ケ」の生活リズムが戻ってくる。「ハレ」から「ケ」へ、その淋しいようなホッとするような気持ちは、けしていやなものではない。「夕浪」とは各家々個有の「浪」でもあるだろう。大江丸は大阪の飛脚問屋主人・大和屋善兵衛の俳号。蓼太の門人として享和・寛政年間には、大阪における実力者だったと言われる。大江丸が活躍した江戸の世も、二百年余のちの今の世も、「三日」の風情は本質的にあまり変わっていないのかもしれない。近年は元旦から営業している豪儀なデパートもあり、私の近所の巨大ショッピングセンターは、元旦から初荷を謳って営業を開始している。そんなに稼ぎなさんな。三ケ日くらい仕事を忘れてのんびりと・・・・など、世間さまは許してくれないらしい。現に行き場のない若い衆が、ウンカのごとくちゃらちゃらと群がっている。その昔、夏目漱石というオジサンはこう詠んだ、「一人居や思ふことなき三ケ日」。大江丸の「夕浪」も漱石の「一人居」も、「ハレ」から「ケ」への移行である。さて・・・・これからふらりと裏手の東京湾の「夕浪」でも、しみじみ眺めてこようっと。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


January 0212007

 初湯にて赤子うら返されてをり

                           酒本八重

ん坊の身体はとらえどころなく、とめどなくやわらかい。そのぐにゃぐにゃした小さな形を「うら返す」というやや乱暴な言葉で、一層の愛情を表現し得た。初湯とは、銭湯の営業が正月2日からだったことに由来し、「初湯に入ると若返る」などといわれ、朝から繁盛していたようである。今年最初の湯に浸かり、顔なじみと裸の挨拶をすることは、なんとも風呂好きの日本人らしい習わしである。しかし、現代の句である掲句は、ベビーバスか、またはごく一般的な家庭の風呂でのことだろうが、心身を清く健やかに保つ初湯の謂れを大切に、赤ん坊のための適度な加減へと細心の注意をほどこされているものに違いない。あたたかい湯をまんべんなくかけられ、うら返されている当人は、相変わらず無防備にきょとんとした様子である。慈しみに包まれ誕生した者だけが持つ、うっとりと安心しきったその表情こそ、なにものにもかえられない宝であろう。手のひらに乗せられ、つやつやと濡れて輝く桃色の命が、次の世代を引き継いでいく。ひとつの家族の系譜とは、こうした手応えを持って、まさしく手から手へ渡されていくものなのだろう。酒本八重『里着』(2005)所収。(土肥あき子)


January 0112007

 校舎なき校歌の山や初景色

                           七沢実雄

日に変わらぬ景色ではあるが、元日に見る景色(初景色)はどこか違う。新しい年がはじまったという意識、そこから来る清新の気が、見慣れた景色を新しく塗り替えるからとでも言うべきか。眺めているうちに、作者は遠くの山が、いまは廃校となってしまった学校の校歌に詠み込まれていたことを思い出している。つづいて、一緒に学び遊んだ友人たちや先生とのことどもを懐かしんでもいるのだろう。自分はずっとこの過疎の地で暮してきたが、多くの友だちは都会に出ていった。音信不通の友人も少なくない。「みんな、元気にしてるかな」。私の通った故郷の小学校も中学も廃校になってしまっている。小学校は明治期にできた伝統のある学校だったけれど、過疎には耐えきれず、ついに無くなったことを知らされたときにはショックだった。もはや校歌もよくは覚えていないが、山の名前はあったのかなかったのか。あったとすれば元日の今日、故郷の友人の誰かは、作者と同じ心境でその山なみを見ているかもしれない。近年の新しい校歌は、土地の名や山や川を詠み込むことを嫌うようだが、それだけ自然との距離が遠くなった証左だろう。啄木ではないが、故郷の山河には圧倒的な存在感がある。貧しい時代に貧しい暮らしを余儀無くされた土地だったけれど、私はそこで育ったことを幸せに思う。故郷の地の諸君、明けましておめでとう。今年も元気でな。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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