ム子句

January 0612007

 元旦や新妻その他新しき

                           成瀬正とし

の字は、水平線から太陽が昇ってくるさまを表した象形文字で、元旦は元日の朝をさすという。私は年末の数日を、大きな窓から海しか見えない部屋で、毎朝昇ってくる朝日を見て過ごした。久しぶりに見る海からゆらゆらと赤く昇る太陽は、まさしく生きものであり、動いているのは自分の方かもしれない、と最初に思った人はやはりすごい、とおよそ詩的でないことを考えつつ。残念ながら大晦日に帰京したので、初日の出は狭い空をせわしなく昇って来る太陽を、いつものベランダから見たのだが、それでも元旦に窓を開けて深呼吸する時は新しい気持になる。この句は、昭和二十年代の作。作者は渋谷区に住んでおられたようだが、東京も今より正月らしさのある街だったことだろう。二人で迎える初めてのお正月、二十代のサラリーマンゆえ、さほど立派にしつらえたおせちが並ぶわけではないだろうが、掲句に並んで〈妻ごめに年酒の盃をとりあげて〉とあるので、手料理をはさんで差し向かい、新年の盃を酌んでいる。その幸せ、うれしさが一句になったのだが、やはりどこか照れくさい、その照れくささが、新妻その他、という中七にほどよく表れている。同時に、新年の決意を新たにしている、純粋で衒いのない若々しさも感じられ、松もとれかかっている今日ではありますが、年頭の一句に。『笹子句集第一』(1963)所載(今井肖子)


January 1312007

 冬銀河昼間は何もなき山河

                           今橋眞理子

句は兼題句に多い、とよく言われる。兼題として前もって出されると、とにかく集中して向き合うことになるからだろうか。確かに自らを省みても、日々好きに作っている句は作りやすい季題に偏りがちであり、歳時記を読んだつもりでも、兼題として出されて初めて意識する季題もある。この句は、「冬の星」という兼題で作られた一句である。作者の母方の故郷は徳島の四国山地の山の中、夏休みは吉野川で遊び、冬は夜空を眺めるのが楽しみだったという。冬の夜空は明るい星も多く、その光は凍てながら白く冴えている。何光年もの彼方にある星々、今この瞬間に実際に存在している星はこの中にいくつあるのか、そんなことを考えながら引き込まれるように星を見上げていたことだろう。澄みきった山里の漆黒の空に、雲のように細かい星影を流す冬銀河の記憶。「昼間は何もなき」の中七が冬銀河と呼応して、自然のままの山里への郷愁を深めている。「あの時の手の届きそうな夜空が、私にとっての冬の星なのだ思う」という今橋さんの言葉を聞いて、ただ冬の夜空をぼ〜っと眺めて星を探すばかりではだめなのだ、とあらためて感じると共に、上五を「冬の星」ではなく、敢えて「冬銀河」としたことで、情景がくっきりと具体的になっていることにも感じ入った。兼題の力、兼題への取り組み方を考えさせられた一句である。「野分会東京例会」(2006年12月17日)出句五句のうち。(今井肖子)


January 2012007

 弦月の弦とけてゐる寒の晴

                           本井 英

を仰がない日はないなあ、とふと思う。朝窓を開けて、出勤の時玄関を出て、通勤電車の中から、職場の窓から、東京の狭い空にも四季の移り変わりと表情がある。勤め帰り、都心のビルに埋もれた夕日に染まる空、駅を降りて、わずかな星や月を探して見上げる空。青く澄んでいるというと、秋の空の印象が強いが、冬、特に年が明けてからの寒中(寒の入から寒明けまで)の空は、強い北風に吹き清められて青く冴えている。弦月(げんげつ)は弓張り月。この句は昨年の作なので、2006年の月のカレンダーを見ると、大寒の二、三日後、下弦の半月が有明の空に見えたと思われる。うすうすと消えてゆく弓形の月、半円の輪郭はほの明るいが、だんだんと空にとけ始めている。空との境目をなくしてゆく月を、全体のイメージではなく、弦という線に焦点をあてて詠み、その月をとかしている空は、大寒過ぎの雲ひとつない青空になりつつある。弦月は場合により季題となり秋季だが、下五の「寒の晴」のくっきりとした強さと広がりから、この句は「寒」の句であろう。一年で最も寒いこの時期だが、今日一月二十日は大寒、また大学入試センター試験初日でもある。あとは春を待つばかり。同人誌『珊』(2006年冬号)所載。(今井肖子)


January 2712007

 切り株はまだ新しく春隣

                           加藤あけみ

本列島概ね暖冬という今年である。寒いのは嫌いだがそうなると勝手なもので、大寒の日、木枯に背中を丸めて、こうでなくちゃとつぶやく。十数センチの積雪で電車は遅れ、慣れない雪掻きで筋肉痛になるとわかっていても、一度くらいは積もってほしいと、これまた勝手なことを思ううち、一月も終わろうとしている。春隣、春待つ(待春)、ともに冬の終わりの季題だが、心情が色濃い後者に比べ、春隣には、まだまだ寒い中に思いがけなく春が近いと感じる時の小さい感動がある。冬晴れの日、木立に吹く風はまだ冷たい。一面の落ち葉、その枯れ色の風景の中、白く光るものが目にとまる。近づくとそれは切り株で、ふれると、まだ乾ききっていない断面には、生きている木の感触が残っている。切り株の、とすれば、その断面がはね返している日差が春を感じさせる。しかし、切り株は、と詠むことで、今は枯れ色のその森の木々すべてに漲っている生命力を感じさせるとともに、切られてしまった一本の木に対する作者の眼差しも見えるようだ。ほかに〈中庭は立方体や秋日濃し〉〈クレッシェンドデクレッシェンド若葉風〉〈石投げてみたくなるほど水澄めり〉などさらりと詠まれていながら、印象深い。『細青(さいせい)』(2000)所収。(今井肖子)


February 0322007

 入学試験子ら消ゴムをあらくつかふ

                           長谷川素逝

日二月三日は節分、暦の上では今日まで冬。一方、この句の季題、入学試験は春季、虚子編歳時記では、入学の傍題で四月のページにある。しかし、私が勤務する学校も含め、現在東京の私立中学の入学試験の日程は、二月一日から三日に集中している。それゆえ、たいてい採点が終わってヘトヘトになって豆を撒く羽目になるのだ。私の担当教科は数学なので、入試では算数を採点するが、消しゴム使用率が高い教科のひとつではないかと思う。日常の定期試験でも、点数をつけながらめくっていくと、必ず消しゴムのかすが挟まった答案が何枚かある。たいてい、途中で行き詰まって焦っているわけで、白紙部分が多い。それでも一生懸命考えている顔を思い浮かべ、複雑な気持ちでそのかすをぱらぱらと払い、時には勢い余って破れた答案に裏からテープを貼る。ましてや入学試験の場合、相手は小学六年生、たいてい十歳前後から塾に通っている。消しゴムのかすが挟まった、白紙部分の多い答案の見知らぬその子は、中学受験算数とはどうにもそりが合わなかったのだ、気の毒である。長谷川素逝(そせい)は、旧制甲南中学、高等学校に勤務していたので、入学試験監督をしていての一句と思われる。大試験、受験子、などと言わずに、入学試験(の)子ら、と日常語で表現したことで臨場感が増すと共に、消ゴム、という具体物に焦点を当てたことにより、彼等の表情をも見せている。『ホトトギス虚子と100人の名句集』(2004・三省堂)所載。(今井肖子)


February 1022007

 鶯や白黒の鍵楽を秘む

                           池内友次郎

楽をするのだから俳句を作ってみたらどうか、と虚子に言われ何となく作り始めた、と次男友次郎は述懐している。渡仏をひかえた二十歳頃のことだ。調べ、リズムが俳句の大切な要素の一つであるのもさることながら、友次郎のユニークな感覚が生む句を見たかったのだろう。この句は、友次郎三十一歳、パリ留学から帰ったばかりの頃の作。音楽の仕事の合間に自然に生まれてきた句ということなので、白黒(びゃっこく)の鍵はピアノの鍵盤。溢れ出るイメージが指を動かし、鍵盤にふれることでそれが音になり耳からまた体内へ。そんな風に彼の音楽が生まれている時、ふと鶯が鳴いたのだ。誰が作ったわけでもない自然の、春を告げる澄んだ音色。手を休めて、しばらく鶯の声を聴いていたのではないか。そして目の前のピアノをぼんやり見つめるうちに、まるで鶯の声に誘われるように、彼の中でまた音楽が生まれ始めたことだろう。「楽」を秘めているのは友次郎自身であり、ピアノを詠んでいながら、聞こえるのは鮮やかな鶯の声である。音楽家らしい一句だが、戦後本業が忙しくなったこともあり、俳句から遠ざかっていく。そんな友次郎に虚子が、「おまえはかなりな句を作っていたのに何故このごろ作らなくなったのか」と言い、「あなたのような人を父としたから句を作る気にならなくなった」と答えると、「悪かったですね」と笑った、との述懐もある句集『米壽光来』(1987)所収。(今井肖子)


February 1722007

 野火ふえて沼の暦日俄かなる

                           石井とし夫

べりの春の到来を端的に教えてくれるのが野火のけむりである、と句集末尾の「印旛沼雑記」にある。「総じて野焼き、野火と言っているが小野火、大野火、夕野火、夜野火等々野火にも畦火にもその時々に違った趣がある」とも。印旛沼(いんばぬま)は千葉県北西部に位置し、その大きさは琵琶湖の約六十分の一、内海がふさがって沼となって千年という。作者はこの印旛沼と利根川に挟まれた町で生まれ育ち、その句は、句作を始めた二十代から八十三歳になられる現在まで、ずっと四季折々の沼の表情と共にある。野焼きは、早春に野の枯れ草などを焼くことで、野火はその火。木枯しに洗われて青く張りつめていた空が少し白く濁り、風もゆるんでくる頃、遠くに野焼きのけむりが立ち始める。枯れた田や畦を焼き、沼周辺の枯蘆を焼き、農耕や漁に備えるそのけむりが増えてくることに、作者は春の胎動を感じている。中七下五の省略のきいた表現が、春に始まる沼の暮らしが俄かに動き出す、と言った意味ばかりでなく、冬の間は水鳥を浮かべ眠っている、沼の静けさをも感じさせる。〈沼の雑魚良夜に育ちをるならむ〉〈鳰沈みひとりひろがりゐる水輪〉〈梅一枝抱かせて妻の棺を閉づ〉そこにはいつも、穏やかで愛情深い確かな眼差しがある。『石井とし夫句集』(1996)所収。(今井肖子)


February 2422007

 たんぽぽに立ち止まりたる焦土かな

                           藤井啓子

んぽぽ、と声に出すと、やはりその「ぽぽ」の音は、日常の日本語にはない不思議な響きだ。春の野原の代表のような、なじみ深い花の名前だから一層そう感じるのだろうか。それが〈たんぽゝと小聲で言ひてみて一人〉の星野立子句や、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ〉の坪内稔典句を生むのかとも思う。その名前の由来には諸説あるようだが、花を鼓に見立てて、「たん・ぽんぽん」という擬音から来ているという説など興味深い。野原いっぱいに咲く明るさにも、都会のわずかな土に根付いて咲く一輪にも、色といい形といい、春の太陽が微笑んでいる。掲句のたんぽぽは、おそらく二、三輪だろう。たんぽぽの明るさに対して、下五の、焦土かな、は暗く重い。焦土と化した原因は、戦争のようにも読めるが、作者は神戸在住、この句が詠まれたのは1995年の春。焦土の原因は、阪神・淡路大震災である。昨日まで目の前にあった日常の風景が、何の前触れもなく突然失われてしまう天災は、戦争とはまた違った傷を残すのかもしれない。たんぽぽの黄は、希望の春の象徴であり、その色彩を黒々とした土がいっそうくっきりと見せている。中七と下五の間合に、深い悲しみがある。「ああ生きてをり」と題された連作は〈春立ちぬ春立ちぬああ生きてをり〉で締めくくられている。「協会賞・新人賞作品集」(1999・日本伝統俳句協会編)所載。(今井肖子)


March 0332007

 春雷の地平線より来りけり

                           小川龍雄

月三日は上巳(じょうし)、いわゆる桃の節句である。古くは、三月上旬の巳(み)の日に行われたのでこう呼ばれるようだが、現在は三月三日の雛祭として定着している。やはりここは雛の句を、と思い、あれこれ探し求めていたところ、今日は、3.3、にちなんで「耳の日」でもあるという。なるほど、語呂もさることながら、算用数字の「3」が耳に見えてくる。そういえば、時々訪れる都心の庭園でも、冬の間は、池を渡る風が耳元で冷たい音をたてる他は、しんとしているが、先だっての少し春めいた日、もうさえずりが始まっており、残る鴨が明るい水音を立てて光をまき散らしていた。耳で、つまり音で感じる季節感、というのも確かにあるなあ、と思っていたところ、掲句である。雷といえば夏季であり、おおむねとどろき渡る。それに対して春雷は、さほど音も大きくなく、長く続かないことが多い。が、この句の、はるかな地平線の彼方から来る春の雷は、まさに冬眠中の虫の目を覚ますという「虫出しの雷」。低く太く響きながら近づいて来る。春の訪れの喜びも感じられる一句だが、詠まれている大地は中国大陸であるという。背景を知らなくても、確かに大陸を想像させ、大きい景が広がる。中華料理では、おこげに熱いあんをかける音を春雷に見立てる、と聞き、なるほどと納得した。同人誌「YUKI」(2007・春号)所載。(今井肖子)


March 1032007

 古稀といふ春風にをる齢かな

                           富安風生

が子供の頃、二十一世紀は未来の代名詞だった。2003年生まれの鉄腕アトムに夢中になり、ある日ふと、その頃自分は何歳なんだろう、とそっと引き算してみると、2003−1954=49。四十九歳、親の年齢を上回る自分の姿を想像することは難しく、その遠い未来に漠然と不安を覚えた記憶がある。思えば、老いることを初めて意識した瞬間。ひたすら今を生きていた小学生の頃のことだ。「わたしの作品に“老”が出はじめたのは、長い俳歴のいつごろであったか。」雑文集『冬うらら』(富安風生著)のあとがきは、この一文で始まっている。作者は、まだ老の句を詠むには早すぎる頃から、「人間の、自分自身の、まだ遠い先の老ということに、趣味的な(といってもいいであろう)関心を抱いて」概念的な老の句を作っては、独り愉しんだり淋しがったりしていたという。「人生七十古来稀」を由来とする古稀は、最も古くからある長寿の賀である。そして、古稀を迎えてからは、それまで遊びであった老の句に実感が伴うようになり、「おのずからため息の匂いを帯びてきた。」のだと。春風にをる、の中七は、泰然自若、悠々と達観した印象を与える。しかし、老が思いの外実感となって来たことに対する、かすかな戸惑いをさらりと詠みたい、という心持ちも働いているのではないか。それは、人間的で正直な心持ちと思う。「この世に“思い残すことはない”などと語る人の言葉をきくと、何かそらぞらしく、ウソをついているなと思えてならんのです。(中略)自分自身のために、死ぬるまで、明日を待ち楽しむ気持で、一日一日の命を大事にしたいというだけの事です。」昭和五十四年、九十三歳で天寿を全うされた作者八十一歳の時の言葉である。引用も含めて『冬うらら』(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


March 1732007

 春愁や心はいつも過去に向く

                           湖東紀子

という字には、草木と同じように秋は人の心も引き締まる、という意味があるという。春愁は、明るい春を迎えているのに、どことなくもの憂い気分になること、とあり、誰もが思い当たる感覚であろう。この、どことなくもの憂い、という感じを一句にするのは難しい。愁いの度が過ぎると、春愁とは言えなくなってくるし、本当にもの憂い気分の時には俳句もうかばない。この句の作者は、春の明るい日差の中で小さくため息をついている。その視線は遠く、彼方の記憶、思い出は濾過されて優しい。過去に向く心には、せっぱ詰まった悩みがあるわけではない。こういう気分になった時そういえばいつもあの頃のことを思い出してるな、と少し離れて自分を見て、ああ、こういう気持が春愁なのかな、と思い当たったのだろう。昨日、今井聖さんの鑑賞文に、「インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか」とあった。本当にそうだ、自戒もこめて。この句の他にいくつか、春愁、の句を読んでいて、何かもやもやした気持になったのは、いかにも春愁らしいでしょ、春愁の感じをとらえているでしょ、という作者の先入観が見えたからなのかもしれない。この句の「いつも」は、心がむく過去が、時代なのか場所なのか人なのかはわからないけれど、何か具体的な大切な思い出という印象を与えている。そしてそんな心の動きをとらえて、明るさを失わない愁いが自然に詠まれている。確かに、心が未来に向いている愁いは、もう少し深刻だろう。『花鳥諷詠』(2000年8月号)所載。(今井肖子)


March 2432007

 輪を描いてつきゆく杖や彼岸婆々

                           河野静雲

岸明けの今日。手元の歳時記の彼岸の項には、この気候のよい時に彼岸会(ひがんえ)と称し、善男善女は寺院に参詣し、祖先の墓参をする、とある。また、彼岸、といえば春彼岸をさし、秋のそれは、秋彼岸、後の彼岸、という。彼岸婆々、は、ひがんばば、であり、彼岸会に来る信心深いお婆さん達、というところか。歳時記の彼岸詣(ひがんまいり)の項にあったこの句は、句集『閻魔』によると昭和八年の作。句集には他に〈腰の手のはだか線香や彼岸婆々〉〈みぎひだり廊下まちがへ彼岸婆々〉〈駄々走り来て小水の彼岸婆々〉など、彼岸婆々の句が多く見られる。作者は、時宗の僧職におられたということなので、どれも実際の彼岸会での光景を詠んだものだろう。掲句は、法要が終わって帰って行く姿である。足腰はもちろん、疲れもあって目もしょぼしょぼしているのか、探りながら杖をついているのだろう。それを後ろから、じっと見つめている作者の眼差しは温かい。生き生きとした描写の数々は、ときにおかしみを伴うが、その根底には、さまざまな苦労を乗り越えて生きてきた彼女達の怒りや涙をも包みこむ愛情が感じられる。それは、僧侶という立場を越えた、人としてのものだろう。ふと、彼岸爺とは言わないものか、と思い読み進めると〈ふところにのぞける経や彼岸翁〉とある。彼岸翁(ひがんおう)か、なんだか高尚な感じだが、つまらなく思えてしまった。いずれにせよ、善男善女とおおらかなご住職とそこに生まれる俳句、それほど遠い昔ではないのだけれど。『閻魔』(1940)所収。(今井肖子)


March 3132007

 手は常に頭上にかざせ夜の桜

                           相原左義長

年、とある俳句大会の観客席に居た。募集句、当日入選句表彰、講評と進んでゆく。最後に、選者数名が壇上に並び、シンポジウムが始まり、そこに相原氏も並んでおられた。司会進行役の、「俳句の楽しさはどんなところと思われますか?」との質問に氏は、「私は、俳句を楽しいと思ったことはありません」と、一言。特に語気を強めるわけでもなく、むしろゆるやかで訥々とした調子であった。それまで、なんとなくぼんやり座っていた私は、一気に目が覚め、あらためて壇上の堂々としたお姿を確認したのだった。「確かに俳句は楽しいばかりではなく、生み出す苦しみもありますね」という方向に話は流れていったが、そういう意味ではない気がした。その後、〈ヒロシマに遺したまゝの十九の眼〉の一句が裏表紙に書かれた句集『地金』を拝読、ご自身の戦争体験など少し知り得た次第である。掲句、桜は満開、すでに散り始めている。闇の中に白く浮かびあがる桜の木の下にいて、えも言われぬざわざわとした不安感を感じたことは確かにある。まるで、今散るための一年であったかのように降り続く花の闇で、立ちつくしたことも。作者も、そんな闇にいて、どこか心がかき乱される思いなのか。その思いに立ち向かうように、落ちてくる花びらのなめらかな感触を遮るように、手は常に頭上にかざせ、と叙している。その命令形の強さが、桜の持つ儚さと呼応して、人の心のゆらぎを自覚させ、切ない。散りゆくことそのものがまた、遠い記憶を呼び起こし、詠まずにはいられなかったのかもしれない。『地金』(2004)所収。(今井肖子)


April 0742007

 水に置く落花一片づつ白し

                           藤松遊子

年も桜の季節が終わってゆく東京である。思わぬ寒波がやってきたり、開花予想が訂正されたり、あたふたしているのは人間。一年かけて育まれたその花は、日に風に存分に咲き、雨に散りながら、土に帰ってゆく。蕾をほどいた桜の花弁は、わずかな紅をにじませながら白く透き通っている。その花びらが水面に浮かび、流れるともなくたゆたっている様子を詠んだ一句である。珍しくない景なのだが、水に置く、という叙し方に、一歩踏み込んだ心のありようを感じる。「浮く」であれば、状態を述べることになるが、「置く」。置く、を辞書で調べると、あるがままその位置にとどめるの意。さらに、手をふれずにいる、葬るなどの意も。咲いていることが生きていることだとすれば、枝を離れた瞬間に、花はその生命を失う。水面に降り込む落花、そのひとひらひとひらの持つ命の余韻が、作者の澄んだ心にはっきりと見えたのだろう。今は水面に浮き、やがて流され朽ちて水底に沈む花片。自然の流れに逆らうことなくくり返される営みは続いてゆく。白し、という言い切りが景を際だたせると共に、無常観を与えている。遺句集『富嶽』(2004)所収。(今井肖子)


April 1442007

 止ることばかり考へ風車

                           後藤比奈夫

船、石鹸玉、ぶらんこ、そして風車。いずれも春季である。一年中見られるが、やはりどれも光る風がよく似合う。そんな春風に勢いよく回る風車を見ながら作者は、止まることばかり考えている、という。風車が、からからと音を立てて回っているのを見ているのはいかにも心地良い。混ざり合った羽根の色は淡く、日差しを巻き込みはね返し、回り続ける。そのうち風が止んで、ゆっくりと止まってしまった風車の羽根の色は、うららかな風景にとけこむことのない原色である。くっきりとした色彩と輪郭、現実の形を見せながら止まったままの風車。再び回りだした風車を見つめながら、少し前までとはちがう心が働くのである。風があれば回らざるを得ない風車、止ることばかり考える風車はさらに大きく風をとらえる。そこに、回っているからこそ風車なのだという風車の本質が描かれる。月ごとの風景と俳句を綴った随筆『俳句の見える風景』(後藤比奈夫著)の中で作者は、「四月は陽気で、好き放題言えそうですが、実は目の位置と心の角度が何よりも大切な月なのです。」と述べている。心を働かせて見る、それが、観る、ということなのだろう。引用文も含め『俳句の見える風景』(1999・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


April 2142007

 惜春の紐ひいて消す灯かな

                           大久保橙青

夏秋冬、〜めく、という表現は、いずれにもあてはまり、新しい季節の兆しに生まれる句も多い。しかし行くのを惜しまれるのは、春と秋のみ、惜夏、惜冬、とは言わない。夏が好きな私などは、秋の気配を感じると、えも言われず寂しく、去りゆく夏を心情的には惜しむのだが、過ごしやすくなる、という安堵感もまた否めない。それは冬も同様だろう。「望湖水惜春」と前書きのある芭蕉の句〈行春を近江の人とをしみける〉にも見られるように、秋惜む、に比べると、春惜む、惜春、は歴史ある季題である。桜に象徴される華やかな春を惜しむ心持ちには、一抹の寂しさがあり、やわらかい風を、遙かな雲を、のどかな空気を、いとおしみ惜しむのである。芭蕉の句の琵琶湖の大きい景に対して、この句の惜春は、ごく日常的である。現在は、部屋の電気を壁にあるスイッチで消す、というのが大半であろうが、その場合、少し離れた所から間接的にスイッチを押し、暗くなった部屋全体に目をやることになる。しかし、ぶら下がっている紐を、その手で直接ひいて明りを消す時は、引きながらその明りに視線が行く。カチリと消した今日の灯(あかり)の残像が、暗がりの中にぼんやり残っているのを見つつ、また一日が終わったなと、行く春を惜しむ気持になったのだろう。惜春の、で切れており、読み下して晩春の穏やかな闇が広がってゆく。『阿蘇』(1991)所収。(今井肖子)


April 2842007

 書庫瞑しゆふべおぼろの書魔あそぶ

                           竹下しづの女

、春の夜の物みな朦朧とした感じをいう、と歳時記にある。春特有のぼんやりとした景をいう時、日中は霞、夜は朧、と区別するというが、朧は、草朧や鐘朧のように、ものの形や音の響きが漠としていることを表すこともある。また、さらりと平面的な霞にくらべて、朧には茫洋とした中にどこか妖しさが潜んでいるようにも思える。書物は生きものではないけれど、そこには言霊が文字となって宿っている。子供の頃、昼でも薄暗い図書館の書庫で、あれこれ本を手にとって読むのは幸せな時間だったが、ふと気がつくとまわりに誰もいなかったりすると、不思議な不安感にとらわれたものだ。書魔は、作者の造語というが、それぞれの本にはまさにそんな魔力を持った何かが息づいているように思える。夫が急逝し、五人の子と共にのこされた作者は、その翌年から福岡県立図書館に勤務している。読書欲旺盛で学問好きだったというから、願ってもない職場であったことだろう。日が落ちて、春の宵闇に包まれようとしている書庫の、ほのかに黴臭いような空気感までが、朧という季題を得て不思議なリアリティをもって描かれている。次男、健次郎氏編のこの本の帯には、「理知と才気に溢れた現代女流俳句の先駆者」と書かれている。表紙の隅にはしづの女の写真。ふっくらとした頬に微笑みを浮かべ、少し戸惑っているようにも見える。『解説しづの女句文集』(2000・梓書院)所載。(今井肖子)


May 0552007

 揺れつつ海へ伸びゆく道や子供の日

                           中村草田男

月五日が子供の日として祝日になったのは、戦後間もなくの昭和二十三年のこと。子供の人格を重んじ、幸福をはかるという趣旨で端午の節句があてられたという。最近は子供が甘やかされているから年中子供の日ではないか、などと言われもするが、社会全体で子供の幸せを願おうというのは健全な発想だろう。作者は、昭和八年から三十年間余り、東京の私立成蹊学園で教鞭をとっていた。病気や大学転部などで、三十二歳とやや遅めの就職である。その翌年の句に〈入学試験幼き頸の溝深く〉などあり、子供との関わりの中で生まれた句も多いことだろう。掲句、一読して、海へ伸びゆく道、はすんなりわかる。広々とした海へ続く道。そこに、上五を七音にしてまで、揺れつつ、である。揺れているのは何なのか。道は自由の海へ続いている。しかしそこを歩いて行く時、立ち止まったり、ためらったり、時には引き返そうかと思ったりしてしまう。やはり、そんな十代のいわゆる思春期の不安定な心持ちが、揺れているのだろう。そしてそれを包みこむ、作者の慈しみの視線がある。だからこそ、伸びゆく道や、という力強い表現に、健やかなれ、という願いが感じられ、本来の子供の日の一句となっている。『草田男季寄せ』(1985・萬緑「草田男季寄せ」刊行会)所載。(今井肖子)


May 1252007

 病身の足のうら美しく夏

                           井上花鳥子

常生活では、寝ている時以外はほとんど、足のうらは靴に閉じこめられ押しつけられ、自重と垂直抗力のせめぎ合いの中にいる。医師であった作者だが、専門は精神神経科。〈梅雨の月あした切らるゝ胸の上に〉の句と前後していることからもこの句は、大学卒業の翌年、自身が入院していた時の作と思われる。大方病は癒えて、退院も近い頃だろう。あらためて、筋肉が落ち細くなった体を確認。足をさすりつつ折り、その先の足のうらを見る。足のうらにとっても思わぬ長期休暇、解放され続けていたその皮膚はやわらかい。それはあらためて、病の重さを実感するほの白さであり、すこしかなしい美しさでもある。ここまでの十五音の重さを、最後の、夏、が力強く受けとめる。静と動の美しさ。溢れんばかりの緑と生命力溢れる初夏の風に、若い作者の決意と希望が感じられる。その後〈吾を殴りたりし患者と日向ぼこ〉等、医師としての日常を詠んだ句も多くある作者の俳号の花鳥子(かちょうし)は、本名の勝義と、花鳥諷詠にちなんでとのこと。郵便屋に「いのうえかちょこさ〜ん」と呼ばれて情けない思いをしたという逸話も。『辰巳』(1984)所載。(今井肖子)


May 1952007

 簡単に通り過ぎたる神輿かな

                           劔持靖子

年前、神幸祭の当日に神田明神界隈を歩いた。少しまとまった数の俳句を作る目的の一人吟行である。神輿、汗、熱気、祭太鼓に祭笛、などいかにもそれらしい連想が頭の中をめぐる。しかし実際には、鳥居の前の桐の花や、すれ違う洗いざらしの祭袢纏、どこからかかすかにきこえる風鈴の音に気持がいってしまう。これじゃなあ、それにしても御神輿はどこなのかしら、と思ってふと見ると、細い路地の向こうを通過中である。あわてて路地をぬけて後ろ姿を見送った。この句の作者は、私のように無計画ではない。神輿の通る道端の最前列に陣取って今か今かと待っていたのである。由緒ある祭の立派な御神輿が近づいてくるのが見える、そして目の前を汗と熱気のかたまりが通過、やはり後ろ姿を見送ったのだろう。案外あっけなかったなあ、という、ふと我に返ったような気持を、簡単に、と感情をこめずに叙したところに余韻が生まれている。通り過ぎたる、というのを、祭後(まつりあと)の寂寥感にも通ずる、と読むこともできるのかもしれないが、私には、もっとあっけらかんとした明るさと、逆に熱気に包まれた神輿の勇壮な姿が見えてくる。簡単に、という上五は、それこそ簡単には浮かばない。二十代前半からの句歴四十年の作者ならではだろう。同人誌「YUKI」(2007・夏号)所載。(今井肖子)


May 2652007

 花桐やがらがらゆるみ竹庇

                           楠目橙黄子

があんなに大きい木で、薄紫の花が高い所に咲くものだということを、恥ずかしながらつい数年前知った。子供の頃桐といえば、熱中して遊んだ花札。父、母、妹と4人で座布団を囲んだ。勉強は学校で教われ、遊びは家で教えてやる、という父の方針(?)で、小学校低学年の頃から麻雀、花札、ポーカー等、賭こそしないが、めんたんぴん、リーチ、ぴかいち、フルハウスが語彙にある小学生も珍しい、というかのんきな時代だった。花札の桐の花は、いわゆる家紋のデザイン、漠然とすみれのような咲き方を想像していたので、あれが桐の花よ、と教えられた時は驚いた。一度覚えると目につくが、車窓からの遠景が多い。ある時、近所の桐の木がある空き地に、花が散り始める頃車を止めた。雨上がり、桐の花は散ってもさらに匂い立ち、手に取った花は思った以上に大きかった。植えれば二十年余りでタンスが作れるほどに成長することから、娘が生まれたら庭に桐の木を植えよともいわれたようだが、この句の桐の木も、かつてそんな思いをこめて植えられたのかもしれない。人が住む気配のない庭、庇からたれた紐の先に光る雨しずく、今はただ、桐の花の甘い香りがただようばかりである。橙黄子(とうこうし)の原句は、がらがら、の部分、くり返し記号を用いている。横書きではうまく表せなくこうなったが、こうして重なるとやはり強く、ゆるみ、と叙したやわらかさの邪魔をするようにも思われる。「ホトトギス雑詠撰集夏の部」(朝日新聞社)所載。(今井肖子)


June 0262007

 雷のごと滴りのごと太鼓打つ

                           村松紅花

語は季節を表す言葉だが、十七音の短い詩を俳句にするために適当にポケットから出してくっつける言葉ではなく、そこから俳句が生まれるという思いをこめて季題と言う、と俳句を始めた時に教わった。四季折々の自然の中で得る感動から俳句が生まれる時、そこには頭で考えていることを越えた何かがある、と感じることはよくある。しかしこの句、雷、滴り(したたり)、共に夏季だが、雷の句でも滴りの句でもない、太鼓の句である。天に轟くかと思えば地の底から響き、ときに咆哮し、ときに囁く太鼓のリズムのうねりの中に作者はいる。体の芯を揺さぶられるような強い感動が、一句となったのだろう。じっと目を閉じて、太鼓の音が作り出す世界に身をゆだねているうち、作者の中に存在している多くの言葉の中から自然に、雷、滴り、が浮かび出て、感動をそれらの季節の言葉に託して句が生まれた。縁打ち(ふちうち)を聞きながら、滴り、を得たところで句になったのではないかと思われるが、二つの言葉は、重量感と清涼感、激しさと静けさ、正反対でありながら、共に水を連想させ、その言葉の選択も絶妙である。そして、できあがった句には、太鼓の響きと共に夏の空が広がってくる。『破れ寺や』(1999)所収。(今井肖子)


June 0962007

 眼のほかは長所なき顔サングラス

                           吉村ひさ志

どいこと言うなあ…クスッとしつつ思った。眼のほかに長所がない、と断言しているのだ。しかしよく考えると褒めているのだとわかってくる、よほど素敵な眼の持ち主なのである。目、でなく、眼であるから、その眼差しにまた表情のある魅力的な女性(おそらく)なのだろう。これがもし、眼のほかに、であったとしたら、まああえて長所をあげるなら眼だね、と、「長所なき顔」が強調される。それを、眼のほかは、と、限定の助詞「は」にしたことで、魅力的な眼が強調され、サングラスをはずしたその眼をあれこれ想像しつつ、個性的であろうその女性への作者の親愛の情もうかがえる。成瀬正としに〈サングラス瞳失せても美しや〉という正攻法の一句があるが、掲句の味わいは捨てがたい。句集に並んで〈団扇手に今は平和な老夫婦〉とある。団扇という季題も効いているが、やはり、「は」という助詞がうまく働いている一句と思う。あとがきに、「大方の季題を理解し、見たまま、思ったことを五・七・五で表現するのには、五十年の句歴が必要であるとの思いである。」とある作者だが、昨年二月急逝されたと聞く。享年八十歳。あとがきにはまた、句集の名は、作者が愛した故郷群馬のぶな林からとった、とも。〈踏む音の独りの時の登山靴〉『ぶな(木ヘンに無)林』(1999)所収。(今井肖子)


June 1662007

 傘ひらく未央柳の明るさに

                           浜田菊代

央柳(びようやなぎ)、美容柳とも書き、別名美女柳。柳に似た細い葉を持つこと、輝くような五弁の黄色の花に、長い蕊が伸び広がり、いかにも美しいことからこの名が付けられたという。確かに葉は地味でふだんは見過ごしているが、街角の植え込みや線路脇など、梅雨時の街のあちこちを彩っている。そんな華やかさを、明るい、と詠むのはためらわれるものだ。しかも、びようやなぎ、の六音は、字余りを避ければ中七に置かざるを得ず、美女柳、と五音で詠まれることも多いだろう。この句の場合、傘ひらく、という何気ない動作が、日々の暮らしの中にあるこの花らしさを表していると同時に、雨に濡れて金色に光る蕊を揺らして見せる。軽い切れがあることで、びようやなぎ、という六音のなめらかな呼び名が生き、明るさに、がさりげない。それにしても、とふと思った。柳に似た葉を持つ美しい花、なら、美容柳でいいだろう、未央って?こういう一瞬の疑問に、インターネットは便利である。検索すると未央は、玄宗皇帝が、かの楊貴妃と暮らした未央宮に由来するという。白居易の長恨歌に、楊貴妃亡き後ここを訪れた玄宗皇帝が、池の辺の柳を見て楊貴妃の美しい眉を思い出す、というくだりがあるとか。通勤途中に見慣れたこの花の名に、そんな由来があるのだと思うと、その明るさが少し切ない。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


June 2362007

 漂著のバナナの島は地図になし

                           風 石

後生まれの私でも子供の頃、バナナはみかんやりんごよりも高級品だった。熱を出すと食べられる、というあれである。かつての住まいの庭には、柿、枇杷、夏みかん、いちじく、梅、桑などが実っていたが、バナナはその横文字の響きと、強い香りと甘みが、遠い外国、それも熱帯のジャングルを想像させるのだった。実芭蕉(みばしょう)という和名を知ったのはつい最近、俳句では夏季に分類されている。ばなな、という音には、鼻にぬけるようなとぼけた感じもあるのだが、この句が作られたのは、太平洋戦争も終末に向かっていた昭和十九年である。その年の「ホトトギス」六月号の巻頭の一句であり、作者の出身地の所には、○○船、とある。船の名称は軍事機密、作者も、風石、とだけあり定かでない。太平洋上の小さい島に漂著(ひょうちゃく)した経緯がどういったものだったのか、そこで詠まれた句がどうやって日本へ届いたのか。そんな境遇を余儀なくされながら、俳句を詠むことで、ひとりの人間としての自分と向き合っていられたのかもしれない。今日、六月二十三日は、沖縄慰霊の日。日本で唯一、地上戦となった沖縄では、犠牲者の数二十万人以上であったという。「夾竹桃の花を見ると玉音放送を思い出す」という言葉が記憶にあるが、バナナの島、太平洋、南国、常夏、などから戦争を連想する世代は、確実に少なくなっていく。「ホトトギス巻頭句集」(1995・小学館)所載。(今井肖子)


June 3062007

 天瓜粉子供の頃の夕方よ

                           杉本 零

瓜粉(てんかふん)、いわゆるベビーパウダーのようなもので夏季。昨年八月に新増俳が始まって、一年になろうとしている。担当させていただくと決まって、それまであまり読むことのなかった句集その他を読むようになり、最初に惹かれた句集が、この杉本零(ぜろ)氏の『零』だった。昭和六十三年に、五十五歳で亡くなった氏の遺句集である。この句は「慶大俳句」時代の一句。〈よく笑ふ停學の友ソーダ水〉〈見廻して卒業式の上の空〉など学生らしい句の中に混ざり、ふっとあった。子供の頃、といってもこの時まだ二十代、そう遠い昔ではないはずだが、そこに戦争をはさんでいることを思うと、長い時間の隔たりがあるような気持になったのかもしれない。兼題句ではないだろうか、「天瓜粉」の言葉から、心に浮かんだ風景があったのだろう。風呂上がりにつかまえられてはたかれる昔の天瓜粉には、黄烏瓜の独特の匂いがあった。日が落ちかけて涼しい風が吹くともなく吹いてくる夏の夕方、天瓜粉の匂いとともに、縁側に置かれた蚊取り線香の匂い、さっとやんだ夕立あとの土の匂い、記憶の底にある夏の匂いがよみがえってくる。同じ頃の句に〈草紅葉愉しき時はもの言はず〉〈寒燈やホームの端に来てしまひ〉『零』(1989)所収。(今井肖子)




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