January 092007
獅子頭はづし携帯電話受く
馬場公江
いまや日常的な風景となった携帯電話や携帯ゲーム機であり、自らもその恩恵にあずかってはいるが、その景色のどこかに違和感を求めることで、過ぎし日の正しい姿を忘れないでいようと思う気持ちがある。それを具体的に何と取り合わせ、共通する違和感を引き出すかという方向が、現在の俳句の世界の携帯電話やパソコン機器に対する視線になっているようだ。幼い時分、獅子舞とは「おししがきたー」という広報役の子供の声で往来に飛び出すと、緑の胴幕のなかでふたりつながりの獅子が顎をがくがくさせて踊り、ぽかんと見ている子供の頭を厄払いに順に噛んでいくものだった。げらげら笑う子供や泣きさけぶ赤ん坊まで、実ににぎやかなお正月ならではの時間が流れたものだ。掲句では、おそらく獅子舞が一段落した後、獅子頭の部位を担当していた者がおもむろに頭を脱ぎ、携帯電話を受けたのだ。次の予定などの事務連絡だろうが、興奮さめやらぬさなかにいる方にとってはまことに興醒めである。もしかしたら、獅子頭をはずしたのちの姿も、かがやく茶髪の青年かもしれない。こんなところにまで進出しているのか、と思うと同時に、日本の津々浦々で携帯電話を耳に当てるさまざまな人の姿を思い、なまはげや恐山のいたこまでがケータイで連絡を取り合うような図も思い描いてしまうのだった。現状に違和感を感じるということは、それだけ過去を長く持つことでもある。やれやれと思う心のどこかで、自分に向かって「ごくろうさん」とつぶやいている。「狩」(2007年1月号)所載。(土肥あき子)
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