2007ソスN1ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1112007

 主婦の手籠に醤油泡立つ寒夕焼

                           田川飛旅子

学生の頃、茶色とクリーム色に編み分けられた買物籠を手にお使いに出された。台所の打ち釘に掛けられていた買物籠が姿を消したのはいつごろだろう。八百屋や肉屋を回らなくとも大抵のものはスーパーで買えるようになり、白いポリ袋が買物籠にとって代わった。昭和30年代の主婦達は夕方近くなると、くの字に曲げた肘に籠を提げ、その日の献立に必要なものだけを買いに出た。その籠の中に重い醤油瓶が斜めに入っている。すぐ暮れてしまう寒夕焼の家路を急ぐ主婦。彼女が歩く振動で手籠が揺れるたび、黒い液体の上部が白く泡立つ。何気ない夕暮れの景なのだが、籠の中の醤油の波立ちが強く印象づけられる。調味料を主題にした作品としてよく引用される葛原妙子の短歌に「晩夏光おとろえし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて」(『葡萄木立』所収)がある。妥協を許さぬそのすっぱさで、黄色味を帯びた酢が自らの意思で瓶の中に立っているかのようだ。液体に主体を置いた見方で、酢が普段使いの調味料とは違う表情で現れてくる。飛旅子(ひりょし)の場合は、手籠の中の醤油の泡立ちに焦点を絞り込んだことで、静止画像ではなく映画のワンシーンのような動きが感じられる。細部の生々しい描写から寒夕焼を急ぐ主婦の情景全体をリアルに立ち上がらせているのだ。『現代俳句全集』第六巻(1959)所収。(三宅やよい)


January 1012007

 新年の山重なりて雪ばかり

                           室生犀星

句が多い犀星の俳句のなかで、掲出句はむしろ月並句の部類に属すると言っていいだろう。句会ではおそらく高点は望めない。はや正月も10日、サラリといきたくてここに取りあげた。新年も今日あたりともなれば、街には本当の意味での“正月気分”などもはや残ってはいない。年末のクリスマス商戦同様に、躍起の商戦が勝手な“正月”を演出し、それをただ利用しているだけである。ニッポンもここまで来ました、犀星さん。世間はせわしない日常にどっぷりつかっていて、今頃「明けましておめでとうございます」などと挨拶しているのは、場ちがいに感じられる。生まれた金沢というふるさとにこだわった犀星にとって、「新年」と言えば「雪」だったにちがいない。彼には新年の山の雪を詠んだ句が目につく。「新年の山見て居れば雪ばかり」「元日や山明けかかる雪の中」等々。雪国生まれの私としても、今頃はまだのんびりとして、しばし掲出句の山並みの雪を眺めていたい気持ちである。ここで犀星の目に見えているのは、もちろん雪をかぶった山々ばかりだけれど、山一つ一つの重なりのはざまには、雪のなかに住む人たちの諸々の息づかい、並々ならぬ生活があり、一律ではないドラマも新しい年を呼吸しているだろう。白一色のなかで、人はさまざまな色どりをもった暮しを生きている。そこでは赤い血も流され、黒いこころも蠢いているだろう。そうしたことにも十分に思いを及ばせながら、あえて「雪ばかり」と結んでいる。作者はうっとりと、重なっている雪の山々を眺めているだけではない。山の重なりは雪景色に映し出された作者の内面、その重なりのようにも私には思われる。「犀星は俳句にはじまり俳句に終った人である」と句集のあとがきで室生朝子は書いている。『室生犀星句集・魚眠洞全句』(1979)所収。(八木忠栄)


January 0912007

 獅子頭はづし携帯電話受く

                           馬場公江

まや日常的な風景となった携帯電話や携帯ゲーム機であり、自らもその恩恵にあずかってはいるが、その景色のどこかに違和感を求めることで、過ぎし日の正しい姿を忘れないでいようと思う気持ちがある。それを具体的に何と取り合わせ、共通する違和感を引き出すかという方向が、現在の俳句の世界の携帯電話やパソコン機器に対する視線になっているようだ。幼い時分、獅子舞とは「おししがきたー」という広報役の子供の声で往来に飛び出すと、緑の胴幕のなかでふたりつながりの獅子が顎をがくがくさせて踊り、ぽかんと見ている子供の頭を厄払いに順に噛んでいくものだった。げらげら笑う子供や泣きさけぶ赤ん坊まで、実ににぎやかなお正月ならではの時間が流れたものだ。掲句では、おそらく獅子舞が一段落した後、獅子頭の部位を担当していた者がおもむろに頭を脱ぎ、携帯電話を受けたのだ。次の予定などの事務連絡だろうが、興奮さめやらぬさなかにいる方にとってはまことに興醒めである。もしかしたら、獅子頭をはずしたのちの姿も、かがやく茶髪の青年かもしれない。こんなところにまで進出しているのか、と思うと同時に、日本の津々浦々で携帯電話を耳に当てるさまざまな人の姿を思い、なまはげや恐山のいたこまでがケータイで連絡を取り合うような図も思い描いてしまうのだった。現状に違和感を感じるということは、それだけ過去を長く持つことでもある。やれやれと思う心のどこかで、自分に向かって「ごくろうさん」とつぶやいている。「狩」(2007年1月号)所載。(土肥あき子)




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