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January 1212007

 奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇

                           高野ムツオ

安時代に征夷大将軍坂上田村麻呂に攻められた東国の夷(えびす)の首領悪路王は、岩手県の平泉から厳美渓に通じる途上にある達谷窟(たっこくのいわや)に籠って最後まで屈せずに戦い遂に討たれる。悪路王などというおどろおどろしい名を付けたのも錦の御旗を掲げた側。本当は、気は優しくて力持ちの美男子だったかも知れぬ。ドラマの中のキムタクやブラピのように。皇軍の名のもとにマイノリティを「征伐」していった歴史の暗部が陸奥(みちのく)には充満しているのだ。夷やアイヌやインディアンや、その他多くの被征服者の苦しみや哀しみを、「大東亜戦争」に敗れた僕等日本人はようやく痛切に感じることができるようになったのではないか。それまでは世界の「征夷大将軍」たらんとしていたのに。権力の合法的暴力や大国の偽善的エゴは今も世界に満ち満ちている。世界中の「みちのく」の冬の闇の中で、顔を失った口の中の奥歯が呪詛を呟き、頭を吹き飛ばされた喉が今日も叫んでいる。「別冊俳句・現代秀句選集」(1998・角川書店)所載。(今井 聖)


January 1912007

 にはとりを叱りつつ雪掃きゐたる

                           友岡子郷

を採るために飼われ家の周辺に放たれる鶏の風景は少なくなった。卵の価格が安値安定しているためである。戦後の物価の推移の中でもっとも値上がり幅が少ないものに卵と牛乳が入っている。鶏は放牧されると木の上で眠る。ちゃんと空を飛ぶし、個性もある。昔家で飼っていた鶏を手乗りにした。腕を差し出すとちゃんと飛び乗ってくる。もっとも乗られるたびに爪を立てられるので布を巻かないと痛い。最新式のオートメーション化した養鶏場は餌も水も電動で巡ってくる。身動きのできない檻の中で採卵の機械と化し短い一生を終える鶏は悲しい。この句、連体形で止めてあるので、句の意味が上句へと循環する。主語である「誰か」または「我」が省略されているから「ゐたる」はそこに戻るわけである。仮に「掃きゐたり」の終止形で止めると画像の強調度は増すが、「叱る」という動詞の焦点と「掃く」という動詞の焦点のうちの後者が強調されることになる。連体形で止めることによって、作者はふたつの動作の対等な連携と反復性を意図したのである。うっすら積もった雪晴れの朝の鶏は鮮やか。鶏冠の朱が印象的である。叱られながら餌を啄ばむ鶏は幸せである。『葉風夕風』(2000)所収。(今井 聖)


January 2612007

 蓮枯れて大いなる鯉どに入りぬ

                           水原秋桜子

原秋桜子が、定期的に粕壁(現春日部)に足を運んだのは昭和五年からの三年間。知己である医師の依頼を受けて月二回出張診療に行くことになる。当時粕壁中学(現春日部高校)教員仲間で句会をやっていた加藤楸邨たちは「ホトトギス」に出ていた秋桜子のエッセイでこのことを知り、秋桜子の診療日に押しかけて指導を頼んだ。以後、診療が終わると秋桜子のグループは粕壁の古利根川や庄内古川を吟行して句会を行ったのである。秋桜子の「ホトトギス」離脱が同六年七月。その三ヶ月後の「馬酔木」十月号に、昭和俳句史上最大の「事件」となった反「ホトトギス」の論文「『自然の真』と『文芸上の真』」が載る。秋桜子著『高濱虚子』に、「革命」前夜の動きが詳細に書かれている。診療後の庄内古川を吟行したあと、鰻屋に向う途中で楸邨に尋ねられた秋桜子は「僕は近いうちに『ホトトギス』をやめるかもしれない」と打ち明ける。楸邨は「一度決意された以上はしっかりなさらなければならない」と応ずる。どは竹を編んで筒状にした川魚を取る仕掛け。川底に沈めて魚を誘い込む。古利根川や庄内古川でよく見られた風景であり、楸邨も当時の句に多く詠んでいる。昭和七年のこの作、どに生け捕られた大きな鯉は「ホトトギス」だったのかもしれぬ。『新樹』(1933)所収。(今井 聖)


February 0222007

 雪の夜の波立つ運河働き甲斐

                           藤田湘子

の夜、都市部を流れる人工の水路をぼうっと見つめる。運河は別に都市部でなくてもいいが、「労働者」のイメージには或る程度の喧騒が必要だ。この句、働き甲斐があるとも無いとも言っていない。そもそも働くということ、そこに甲斐を求めるということはどういうことなのかと、ぼうっと考えている句のように僕には思える。労働が、権力への奉仕でも、搾取のお先棒でもなく、「生の具現」としてある社会を目指せとマルクスは言ったけど、今はそんな図式はもうひからびた発想ということになっている。本当にそうだろうか。資本家とプロレタリアートの対立図式がカムフラージュされても、世界中に貧困や戦争は満ちている。この句、湘子さんが三十代の頃の作品らしい。だとすると、高度経済成長の波の只中で労働が善であり美徳であった時代。そこから思うと「働き甲斐」は、働き甲斐が「ある」と取った方が良さそうだが、ニートや引き籠りや鬱病や自殺や高齢者切り捨ての現状に当てはめると「働き甲斐」自体の意味を問うているというふうに読んでみるのも意義なしとしない。「ああ、働き甲斐って何なんだろう」自分なりの答も出せないまま虚ろな目が運河に降り込む雪を見つめる。生きること、働くことへの懐疑、疲労、諦観。「ぼうっと」がこの句のテーマだ。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


February 0922007

 一本の白毛おそろし冬の鵙

                           桂 信子

の鵙の叫びの鋭さを思えば、この「おそろし」はまさに深刻な事態だ。白毛(しらが)は老化の兆し。気持ちの良いものではないが、男性は女性ほど気にしない。「おそろし」の感じはまさに女性の感覚だろう。男ならさしずめ「抜毛おそろし」だろうか。大方が「おそろし」と感じる部分を逆にファッショナブルに転ずることができれば最高のおしゃれかも知れない。ハゲ頭の似合うカッコいい男性や、白髪が美しい女性。前者としては古くはユル・ブリンナー、ショーン・コネリー。最近のブルース・ウィルス。日本の俳優では渡辺謙や西村雅彦などをすぐに思いつく。後者はあまり思い出せないが、市川房江さんなんか清廉なイメージの中心にあの白髪があったな。過日、吉田拓郎のコンサートの映像を見たとき、客の中に多くのハゲ頭を見出した。拓郎自身かなり額が上がってきていて、それを気にせず舞台に立っている姿に客は自身を重ねて感動するのだろう。そういう点からの共感もあるはずだ。老化は、地球の引力の援護も得て、刻一刻と皺を弛ませ肉体を変貌させていく。美しく老いるのは難しいが、「おそろし」とばかりは言っていられない。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


February 1622007

 骰子の一の目赤し春の山

                           波多野爽波

規の提唱した「写生」と虚子が言った「花鳥諷詠」の違いは、前者が「写すこと」の効果を提唱したのに対して、後者は俳句的情緒を絶対条件としたこと。だから後者は「写生」ではなくて、俳句的ロマンを旨としたと言った方がいい。いわゆる神社仏閣老病死がその代表的な例。ところが虚子の弟子にも変人は出るもので、虚子先生が情緒を詠めと言っておられるのに、情緒などお構いなしに、しっかりと「写す」ことを実行した俳人がいる。高野素十とこの爽波がそれである。作る側が情緒を意図せずとも、「もの」をそこに置けば、勝手に「もの」が動いて「感動」を作り出す。「もの」の選択に「俳句的素材」などという判断は不要、それが俳句という短詩形の特殊な在り方を生かす方法、つまり「写生」であると理解するに到った変り種である。その理屈で出発すると、論理は、では「写す」ことと季語はどう関わるのかというところに行かざるを得ない。季語と写生は必然的な結びつきなのかという疑問も出てくる。しかし、素十も爽波も季語は捨てない。「もの」の選択の範囲を広げた分、情緒を季語に依存しようとしたのか。骰子(サイコロ)の一の目が赤く大きく目を瞠り、そのイメージに春の山の景を被せる。「赤し」と春が色彩として同系。サイコロの存在感が山と呼応する。爽波のような反情緒の「もの」派も、そこのところで「季語の恩寵」を言うんだろうなあ。『骰子』(1986)所収。(今井 聖)


February 2322007

 時計屋の時計春の夜どれがほんと

                           久保田万太郎

句という土俵をこんなに広くみせることのできる俳人はめったにいない。俳句は難しい。季題を用い、その本意を意識し、類想はないか、切れ字は的確か、切れは多すぎないか、一七音は余らぬよう、足らざるなきよう。さまざまの条件を意識し、それらをみずからの表現に課すたびに句は硬直化し、理想的な細部を寄せ集めたあげくまったく個性のない合成写真の顔のような作品ができあがる。そこに陥らぬよう意識して、大らかに作ったように見せかけようとすると余計ドツボにはまる。一時、若手と言われる世代でも、大正時代の俳句の大らかさに学ぼうなどというテーマが流行ったが、知的に繊細な技術を駆使して「大らかさ」を出そうとするのはピストルで戦艦を狙うのと同じかもしれない。時代が違うから、社会的存在である人間自体が違う。現代には現代の感性があり、今の感性に沿った今の文体が必要なのだ。この句、切れは二つ目の「時計」のところ。「春の夜」は微妙に下句につながる。「どれがほんと」は口語。破調でも独自のリズムがあり、口語でも季題の本意は崩さない。こんな「かわいい」句を明治二十二年生まれの人に作られたひにゃ今の「かわいい」はどう作りゃいいんだよお。「俳句現代・読本久保田万太郎」(2001年3月号)所載。(今井 聖)


March 0232007

 探梅の一壺酒われら明治つ子

                           佐野まもる

を持って梅見に行った明治生まれの私たち。という句である。表現上特段に「見せ場」が無さそうに思えるが、やっぱりこんな句が句会で出たら採ってしまうだろうな。一壺酒(いっこしゅ)という言い方が漢詩調であり、どこか品格を添える。明治っ子という言い方が現代から見れば新鮮で面白い。明治っ子、大正っ子、昭和っ子。元号で世代意識を区切るのは無理として、それでも、価値観のブレなかった時代には、それなりの統一的気風のようなものが生まれる。明治から昭和一桁は世界の強国日本だったから、「万里の長城で小便すればゴビの沙漠に虹が立つ」なんてスケールの意識。大東亜戦争中の軍歌に「ホワイトハウスに日の丸立てて」なんてのもあったらしいが、こうなるともう悲惨な強がりをヤケになって歌っている感じだ。僕の父は大正八年生まれ、見習士官で終戦。大日本帝国の残滓を齧って青年期に入った分、価値観の転換に対するショックも大きい。懐疑派というと内面的なようだが、いじめられた記憶が消せない檻の中の狸のような目線で外を見ていた。和魂洋才、車夫馬丁、帝国大学、天下国家、重工業、信義、信念、倫理、遊郭、男尊女卑、家、士族、平民、天皇。明治生まれのダンディズムはそんな言葉の上に立って一壺酒を携え梅の花を見上げる。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 0932007

 城ある町亡き友の町水草生ふ

                           大野林火

ある町は日本の町の代名詞。小さな出城まで入れると日本中城ある町、または城ありし町だ。城があれば堀があり、春になると岸辺に水草(みぐさ)が繁茂し、水面にも浮いている。生活があればそこに友も出来る。どこに住む誰にでもある風景と思い出がこの句には詰まっている。鳥取市と米子市に八年ずつ住んだ。鳥取市は三十二万五千石。市内の真ん中に城山である久松山(きゅうしょうざん)がどっしりと坐っている。備前岡山からお国替えになった池田氏が城主で、池田さんが岡山から連れてきた和菓子屋が母の実家だった。五、六歳の頃から、お堀に毎日通って、タモで泥を掬ってヤゴを捕った。胸まで泥に浸かって捕るものだから、危険だと何度叱られたかわからない。小学校三年生のときそこで初めてクチボソを釣った。生まれて初めての釣果であるクチボソの顔をまだ覚えている。中学と高校は米子。米子には鳥取の支城の跡があり、城址公園で同級生と初めてのデートをした。原洋子さん可愛かったなあ。その後原さんは歯科医になったらしいが、早世されたと聞いた。僕のお堀通いを叱責した父も母も今は亡く、和菓子屋を継いだ叔父も叔母も近年他界した。茫々たる故郷の思い出の中に城山が今も屹立している。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 1632007

 初蝶や屋根に子供の屯して

                           飯島晴子

常の中で見たままの風景から感動を引き出すことは、簡単そうに見えて実は一番難しく、それゆえ挑戦しがいのある方法だと僕は思う。一番というのは、俳句のさまざまの手法と比較しての話。僕等は社会的動物だから、先入観を脳の中にインプットされてここに立っている。どんなシーンには感動があって、どんなシーンが「美しい」のか。ホントにホントの「自分」がそう感じ、そう思っているのだろうか。先入観の因子が「ほらきれいだろ」と脳髄に反射的に命令を出してるだけのことじゃないのか。そもそもラッキョウの皮を剥くみたいに、インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか。こういう句を見るとそう思う。屋根に子供がいるだけなら先入観の範疇。あらかじめ準備されたフォルダの中にある。猫が軒を歩いたり、秋の蝶が弱々しかったりするのと同じ。要するに陳腐な類想だ。しかし、「屯して」と書かれた途端に風景の持つ意味は様相を変える。屋根に子供が屯する風景を誰があらかじめ脳の中に溜めておけるだろう。四、五人の子供が屋根の上にいる。考えてみれば、現実に大いに有り得る風景でありながら、である。一日に僕等の目の前に刻々と展開する何千、何万ものシーンから僕等はどうやればインプットされた以外のシーンを切り取れるのか。子規が気づいた「写生」という方法は実はそのことではないのか。この方法は古びるどころか、まだ子規以降、端緒にすら付いていないと僕は思うのですが。『八頭』(1985)所収。(今井 聖)


March 2332007

 燈を遮る胴体で混み太る教団

                           堀 葦男

季の句。映像的処理は遠近法の中で行われている。そういう意味ではこれも「写生」の句だ。まあ、「太る」の部分は観念ではあるけれど。オウム真理教の事件はまだ記憶に新しい。麻原彰晃が選挙に出ていた頃、同僚の高校講師が、オウムの教義に感心したと話していたのを思い出す。「宇宙の気を脊椎に入れると浮遊できるってのは説得力あるんですよ」この人、英語を教えてたけど、自分で修業して僧侶の資格を取った真面目を絵に描いたような人だったな。俳句はあらゆる「現在」を視界に入れていい。百年経っても変わらない不変の事象を詠もうとする態度はほんとうに普遍性に到る道なのだろうか。一草一木を通して森羅万象を詠むなんて、それこそ胡散臭い宗教の教義のようだ。「現在」のうしろに普遍のものを見出そうとするならまず「現在」に没入する必要がある。その時、その瞬間の「状況」すなわち「私」に拘泥しない限り時代を超えて生き抜いていく「詩」は獲られない。五十年以上前のこの作品が今日的意味を持って立てる所以である。そのとき季語はどういう意味を持つのだろうか。「写生」と季語とは不可分のものだろうか。子規の句の中の鶏頭や糸瓜が一句のテーマであったかどうかを考えてみればわかる。この句、「燈を遮る胴体で混み」の「写生」の角度が才能そのもの。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 3032007

 きびしい荷揚げの荷に頬ずり冬の汗して投票に行かない人ら

                           橋本夢道

句や文学の名に「プロレタリア」の形容を冠する意味はあきらかである。文学に対する政治の優位をはっきりと言っていて、後者の「正しかるべき在り方」の遂行のために前者が存在するという明解な価値観である。これはつまらないと僕は思う。方法としてのリアリズムの効果は認めるが、社会底辺の労働が「必ず美しく正しく」描かれるのは、これはリアリズムというよりは労働ということの「意味」を社会的解説的に問うているということではないか。政治スローガンの戯画化にどれほどの文学性があろうか。「橋本夢道」の一般的評価は別にして、この句は特定の党に投票しなさいと声を張り上げているわけではない。投票日が来ても、その日の日銭を稼ぐのに切羽詰っていて投票所に行く時間がない人たちがたくさんいる。社会変革に踏み出す前にその日のパンをどうするかの問題。ストライキで電車を動かさない現場の人たちを働く仲間として支援できるか。職場に行けない自分が迷惑を蒙ったとしてストを非難するのか。デモ隊と現場で対峙する警官への憎悪と、彼らの個々の「人間性」への理解をどう折り合いをつけるのか。この句のリアルは「荷に頬ずり」と、この人たちを正しいとも間違っているとも言わないところ。現実の瞬間を動的に把握している点において特定の党派の意図など入り込む隙もない。この句の持つ意味をもうひとつ。自由律とは大正期はこんな自由なバリエーションが存在した。尾崎放哉の出現があって、それ以降はみんな放哉調をまねて行く。放哉調が自由律の代名詞になるのである。初期のこういうオリジナルな自由律と比較すれば、山頭火ですら放哉のものまねに見えてくる。谷山花猿『闘う俳句』(2007)所載。(今井 聖)


April 0642007

 春風にこぼれて赤し歯磨粉

                           正岡子規

々の食事の内容について克明な記録を残した点から子規を健啖家として捉える評や句は多くある。子規忌の「詠み方」としてそれは一典型となっている。結核性腹膜炎で、腹に穴が開き、そこから噴出す腹水やら膿やらと、寝たきりの排泄の不自由さに思いを致して、凄まじい悪臭が身辺を覆っていたという見方もよく見かける視点である。子規が生涯独身で、母と妹が看病していたが、その妹への愛情やその裏返しとしての侮蔑についてもよく語られるところ。特異な状況下におかれた人のその特異さについてはさまざまな角度から評者は想像を膨らませていくわけである。それが子規を語る上のテーマになったりする。しかし、死に瀕した人間が特殊なことに固執したり、健常者から見れば悲惨な状況に置かれたりするのはむしろ当然のこと。そういう状況が、どうその俳人の俳句に影響を与えたのか、与えなかったのかの見方の方に僕などは興味が湧く。子規の日記に歯痛についての記述もあるから、この句から歯槽膿漏の口臭について解説する人がいたとしても不思議はないが、僕は歯磨粉という日常的素材と「赤し」の色彩について「写生」の本質を思う。そのときその瞬間の「視覚」の在り処が「生」そのものを刻印する。「見える」「感じる」ということの原点を思わせるのである。子規の「写生」は、「神社仏閣老病死」の諷詠でなかったことだけは確かである。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


April 1342007

 鬼はみな一歯も欠けず春の山

                           友岡子郷

は怖ろしい口を開けて、むしゃむしゃとなんでも食べてしまうから歯が丈夫であらねばならない。虫歯を持った鬼なんて想像もできない。春の山は木々の花の色を映してカラフル。明るい日差しと青空を背景に、そこに住む鬼も極めて健康的なのだ。民話の中の鬼は悪さをするがどこか間が抜けていて憎めない。最後は退治されたり懲らしめられて泣きながら山に逃げ去ったりと、どこか哀れな印象さえ漂う。草田男、楸邨などのいわゆる「人間探求派」の作品傾向についてよく使われる向日性という言葉がある。虚子が言った「俳句は極楽の文学」という言葉もある。両者とも、辛い、暗い、悲しい内容より、明るい前向きの内容こそが俳句に適合するという意味。苦しい現実を描いてもそのむこうに希望が見えて欲しい。「写生」の対象も明るくあって欲しい。そういう句を目指したいという主張だ。こういう句をみるとそれが納得できる。癌と闘いながら将棋を差した大山康晴永世十五世名人は最晩年、色紙揮毫を頼まれると「鬼」という字を好んで書いたという話を思い出した。誰かが将棋の鬼という意味ですねと尋ねると、そうじゃなくて鬼が近頃夢の中に現れて黄泉の国に連れていこうとするんだ、と話したとあった。これは怖い鬼だ。花神現代俳句『友岡子郷』(1999)所載。(今井 聖)


April 2042007

 胸の幅いつぱいに出て春の月

                           川崎展宏

宏さんが虚子に興味を持ち始めたのはいつごろからだろう。「寒雷」の編集長を長く勤めた森澄雄さんの周辺にいて、「杉」創刊に参加。理論、実作、その気風からも「寒雷」抒情派の青年将校だった氏はそのまま「杉」の中核となったが、同時に「寒雷」同人として作品を寄せ師加藤楸邨への真摯な敬慕を感じさせた。句会に展宏さんが顔を見せたときの楸邨のうれしそうな顔が忘れられない。「展宏くんいくつになった」「はい、四十を超えました」「この間、大学卒業の挨拶に見えたような気がするけど、もう四十ですか」。句会の席でのそんなやりとりを昨日のことのように覚えている。「杉」参加後の展宏さんは高濱虚子への興味を深め、『虚子から虚子へ』などの著作を著す。花鳥諷詠と新興俳句への疑義が「寒雷」創刊の動機のひとつだったという認識から、僕はいろんなところで展宏さんに咬みついたが、今になってそのことは僕の思慮不足だったように感じている。展宏さんは自分の抒情の質に新しい息吹を注入するために観念派楸邨と対極にある存在から「学んで」いたのだった。こんな句をみるとそのことがよくわかる。「胸の幅いつぱいに」の「幅」は楸邨と共通する「観念」。そこに基づいた上で、この句全体から醸し出すおおらかな「気」は展宏さんが開拓した新しい抒情を示しているように思う。ふらんす堂『季語別川崎展宏句集』(2000)所載。(今井 聖)


April 2742007

 春水や子を抛る真似しては止め

                           高浜虚子

の川べりを子供と歩き、抱き上げて抛る真似をする。「ほらあ、落ちるぞ」子供は喜んではしゃぎ声をあげる。ああ、こんなに子煩悩な優しい虚子がいたんだ。普通のお父さん虚子を見るとほっとする。「初空や大悪人虚子の頭上に」「大悪人」と虚子自身も言ってるけど、俳句の天才虚子には、実業家にして政治屋、策士で功利的な側面がいつも見えている。熱狂的追っかけファンの杉田久女に対する仕打ちや、「ホトトギス」第一回同人である原田浜人破門の経緯。そして破門にした同人に後年復帰を許したりする懐の広さというか老獪さというか。そんな例を数え上げたらきりがない。とにかく煮ても焼いても食えない曲者なのだ。虚子は明治七年生まれ。同じ明治でも中村草田男の啓蒙者傾向や加藤楸邨のがちがちの求心的傾向、日野草城なんかのモダンボーイ新しがりと比べると、幅の広さが全然違う。上から見るのではなく、「俗」としっかりと四つに組む。ところでこの句、抛る真似をするのは、他人の子だったら出来ないだろうから自分の子、とすると虚子の二男六女、八人のうちの誰だろう。子の方はこんなシーン覚えているのかな。『五百五十句』(1943)所収。(今井 聖)


May 0452007

 しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る

                           富安風生

快なリズム、童心が微笑ましくも楽しい。こういう句はどうやったらできるかな。俳句に過剰な期待をかけないことかもしれない。「右手で自己の人間悪、左手で社会悪と闘う」そんな内容を楸邨は句集『野哭』の後記で述べている。そういう気張り方では、こういう句はできない。状況を見遣り自己を見つめ追いつめ、対象の実相に肉薄しようとする。この句は楸邨の作り方と対極に見える。僕は後者の方の傾向を選択したから、まずその伝でいくわけだけど、だからこそこういう傾向の魅力に憧れるところがある。求心的傾向がときにスベッテしまうのは、盛り込みたい内容がふくらみすぎてひとりよがりになってしまい、混沌とし過ぎて伝達性が失われてしまうから。逆にこういう句は類想陳腐の何百もの駄作の果てに得られる稀有の一句だろうと思う。平明と平凡は紙一重なのだ。眉間に皺を寄せて苦吟しても、口をぽかんと空けて小学校低学年になりきっても、秀句にいたる道はどっちもどっちなのだから俳句は難しい。ところでこの句の「来る」は「きたる」。最近は歴史的仮名遣い派でも「来たる」と表記する場合が多い。下の五音だから「来る」と書いても読者はかならず「きたる」と読んでくれる、という信頼感が無いんだろう。そういう点にも歴史的仮名遣いの崩壊は着実に進行していると思わざるを得ない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1152007

 品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る

                           森田緑郎

郎さんはどこから出てどこへ帰るおつもりなのか。品川は多くの鉄道路線が通っている。僕は家が横浜なので東京方面で用事を済ませると山手線が品川に着く前に乗り換え作戦を考える。東海道線、京浜東北線、京浜急行。この三択だ。横須賀線に乗って万が一乗り過ごすととんでもないところを回ってえらい時間がかかるのでこれはだめ。その前に新宿、渋谷、恵比寿を通る場合は、湘南ライナーも有効だが、これは終電が早いので、「酔い」がまわるころはもう選択外である。しかし、どの選択も猛烈な混み具合を覚悟せねばならない。とにかく足が宙に浮くというのも大げさではないくらい。僕は怒りと諦めの中でこの苦痛に耐える。家畜運搬車とか、「アウシュビッツ行き」というような不吉な言葉が頭を掠める。「労働者よ、怒れ。電車を停めて革命だ」そうしたら品川なんか毎日が騒乱罪だ。戦後すぐの混雑を体験している人も同様の思いだろう。「客車に窓から乗ったことがある」って僕が言ったら、詩人の井川博年さんなんか、「僕は網棚に寝たことがある」って言ってたもんな。緑郎さんの酔いは紳士の酔いだ。混雑もまた良し、初夏の夜空を眺めて行こうよ、と言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1852007

 蠅取紙飴色古き智恵に似て

                           百合山羽公

百屋や魚屋の店頭にぶら下がってた。蠅取紙と並んで、銭を入れる笊が天井から下がっている。こちらの方はまだやってるけど、蠅取紙はなくなった。小学校三年生とき、学校の帰り道に八百屋で友達とちくわを買って食べた。買い食いは学校からも親からも禁じられていたので、秘密の決断だった。美味しかったなあ。鳥取だったので、あご(飛魚)ちくわが名産。学校の遠足で海辺のちくわ工場を見学したことがあって、木造の工場の中に蠅取紙が何本も下がっていた。製造中のちくわと蠅の関係はこれ以上書くのははばかられる。この見学のあとしばらくちくわが食べられなかった。もちろん今はそんなことはないだろうけど。この句、古き智恵は蠅取紙のごときものだ、というふうに解釈すると、「古き」を嗤うアイロニーに取れる。僕は「飴色」の方に重きを置きたい。古い智恵は飴色をしている。そう思うとこの琥珀色はなかなかの重厚な色合いだ。しかも蠅まで捕るのだから捨てたものではない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 2552007

 初夏のわれに飽かなき人あはれ

                           永田耕衣

の句、「飽く」を現代語的に解釈すると、飽きるの意味だから、われに飽きていない人が「あはれ」だという内容。こんな自分にも飽きないで付き合ってくれているねという、例えば糟糠の妻への愛情をひとつひねった表現かと思った。最初は。しかし、だとするとどうして「飽かざる」にしないのかと不思議に思ったのだった。自分なら「われに飽かざる人あはれ」にするのにと。耕衣は俳句の技法においては、どんなカードでも切れる人だ。系譜的には誓子門の「天狼」系というふうに知られているが、「寒雷」創刊号の巻頭二席もこの人だ。なんでも自在に出してこられる俳人が「飽かざる」にしない違和感が残った。納得が行かないので調べてみると、古語の「飽く」には肯定的に用いて「満足する」という意味がある。その意味で取ると「われに満足しない人があわれだ」という、前述とは逆の内容になる。こちらだと自分の気持ちを直截に相手にぶつけている句だ。こちらの方が作者の本意だろう。耕衣の仕掛けはまだある。「あはれ」には今の語意の「哀れ」の他に「しみじみと趣き深い」という意味もある。こうなると意味の組み合わせはますます何通りにも拡散していくようにも思える。「初夏」の働きは季節感よりも枕詞のように「われ」につながるだけだ。「おい、わかるかい、この句」と耕衣が言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 0162007

 蚊柱や吹きおろされてまたあがる

                           村上鬼城

の「や」の用法がめっきりみられなくなったのは現代の特徴的傾向。一句一章の主格の「や」。「は」や「が」と同じ意味だが、現代俳人のほとんどは、ここに「の」を置くだろう。「蚊柱の吹きおろされてまたあがる」。どちらがいいか。切れ字をおくと俳句の格調が出るが、この古格のような渋さを俳句情趣臭として敬遠するのだろう。後者はすんなり読めるが説明的な感じが否めない。説明的即散文的と言ってもいい。困るのは「や」に過剰な切れを想定する読み方で、蚊柱を背景として、ふきおろされてまたあがるものは蚊柱ではないとする鑑賞もありそうである。省略されているのは「我れ」だとしたりする。切れ字や「切れ」に大きな断絶を負わせる傾向の氾濫は、二物衝撃(二句一章)の技法が俳句の典型的な用法として定着したことと、「写生」の意味が次第に拡大解釈を許す方向に向っていることが影響している。結果、緩慢な切れの用法などは怖くて使えず、「の」に頼ることとなる。句の意味は明瞭。不定形の塊としての蚊柱の動きがよく出ている。一句一章主格の「や」もお忘れなくというところ。僕も是非使ってみたい。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 0862007

 わが金魚死せり初めてわが手にとる

                           橋本美代子

魚が死んだ。長い間飼っていたので犬や猫と同様家族の一員として存在してきた。死んだ金魚を初めて掌に乗せた。触れることで癒されたり癒したりするペットと違って、一度も触れ合うことのない付き合いだったから、死んで初めて触れ合うことが出来たのだった。空気の中に生きる我等と、水中に生きる彼等の生きる場所の違いが切なく感じられる。この金魚は季題の本意を負わない。夏という季節は意味内容に関連してこない。この句のテーマは「初めてわが手にとる」。季題はあるけれど季節感はない。そこに狙いはないのである。もうひとつ、この素気ない読者を突き放すような下句は山口誓子の文体。「空蝉を妹が手にせり欲しと思ふ」「新入生靴むすぶ顔の充血する」の書き方を踏襲する。誓子は情感を押し付けない。切れ字で見せ場を強調しない。下句の字余りの終止形は自分の実感を自分で確認して充足している体である。作者のモノローグを読者は強く意識させられ自分の方を向かない述懐に惹き入れられる。橋本多佳子の「時計直り来たれり家を露とりまく」も同じ。誓子の文体が脈々と繋がっている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 1562007

 老婆外寝奪はるべきもの何もなし

                           中村草田男

婆だから「奪はるべきもの」がない、乙女ならあるのかと読むと、そこまで言うかという気になるが、この句の狙いはそんな卑俗なところにはないことにやがて気づいた。この句は本来の裸の人間が持っている天賦の聖性について言っているのだろう。飼っている犬が食べ物をねだるとき、喜ぶとき、糞尿をするとき、ふと聖なる存在を感じるのと同じ。羞恥心も遠慮もない赤裸々な姿が、逆に我等人間のひねくれ方を映し出す。理知なるものがいかに人間の聖性を侵食したかを教えてくれるのだ。赤ん坊が大人につきつける聖性も同様。人間の原初の在り方を草田男は一貫して問うている。そういう一貫した思想を俳句の中に盛ろうとすれば表現は通常観念色、説教色に染まるものだが、草田男はそうならない。外寝という季題を配して現実的な風景のリアリティを構成する。虚子門草田男が、最後まで「写生」を肯定していた所以である。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 2262007

 思ひ出すには泉が大き過ぎる

                           加倉井秋を

入観というもの。俳句をつくる上でこんなに邪魔になるものはない。泉といえば即座に水底の砂を吹き出して湧き出てくる小さな泉を思ってしまう。先入観、即ち、先人の見出したロマンを自分の作品に用いるのは共通認識を見出すのがた易いからだ。共通認識を書くのは安堵感が得たいため。そうよね、と顔見合わせてうなずくためだ。そこに自己表現はあるのか。共通認識の何処が悪い、むしろそこにこそ俳句の庶民性、俳諧性が存するのだと、居直りとも逆切れとも取れる設定が、季題の本意という言い方。われら人間探求派は季題をテーマからは外したが、人間詠というテーマの背景としてはそれを援用している。寺山修司の「便所から青空見えて啄木忌」のように季題の本意を逆手に取って、古いロマンを嗤う方向もあるが、これも逆手に取ったというあざとさが臭う。中心に据えようと援用しようと逆手に取ろうと、「真実の泉」には届かない。目の前の泉そのものを書き取る。答はすぐそこにありそうなのだが、実は何万光年もの距離かもしれない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 2962007

 汗のシャツぬげばあらたな夕空あり

                           宮津昭彦

語に「あり」と一字字余りで置かれた言葉が作者の実感を刻印する。「夕空あたらしき」などの定型表現にはない力強さが生じる。「あらたな夕空」は明日への決意に通じる。汗が労働の象徴だった時代はとうの昔に過ぎ去った。都市化のエネルギーの象徴だった煙突やダムやトンネルはいつのまにか環境破壊の悪者に役どころを変えている。勤勉も勤労も真実も連帯もみんなダサイ言葉になった。死語とはいわないけど。これらの言葉を失った代わりに現代はどういう生きるテーマを得たのだろう。そもそも生きるテーマを俳句に求めようとする態度が時代錯誤なのかな。否、「汗」と言えば労働を思うその連想がそもそも古いのか。だとすると、汗と言えば夏季の暑さから生じる科学的な生理現象を思えばいいのか。それが季題の本意だという理由で。何でシャツは汗に濡れたのか。やはり働いたからだ。テニスやサッカーやジョギングではなく、生きるための汗だ。そんなことを思わせるのはみんなこの「あり」の力だ。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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