学校週5日制見直し、教育再生会議。そんなことより子供たちが希望を持てる社会作りを。(哲




2007ソスN1ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2012007

 弦月の弦とけてゐる寒の晴

                           本井 英

を仰がない日はないなあ、とふと思う。朝窓を開けて、出勤の時玄関を出て、通勤電車の中から、職場の窓から、東京の狭い空にも四季の移り変わりと表情がある。勤め帰り、都心のビルに埋もれた夕日に染まる空、駅を降りて、わずかな星や月を探して見上げる空。青く澄んでいるというと、秋の空の印象が強いが、冬、特に年が明けてからの寒中(寒の入から寒明けまで)の空は、強い北風に吹き清められて青く冴えている。弦月(げんげつ)は弓張り月。この句は昨年の作なので、2006年の月のカレンダーを見ると、大寒の二、三日後、下弦の半月が有明の空に見えたと思われる。うすうすと消えてゆく弓形の月、半円の輪郭はほの明るいが、だんだんと空にとけ始めている。空との境目をなくしてゆく月を、全体のイメージではなく、弦という線に焦点をあてて詠み、その月をとかしている空は、大寒過ぎの雲ひとつない青空になりつつある。弦月は場合により季題となり秋季だが、下五の「寒の晴」のくっきりとした強さと広がりから、この句は「寒」の句であろう。一年で最も寒いこの時期だが、今日一月二十日は大寒、また大学入試センター試験初日でもある。あとは春を待つばかり。同人誌『珊』(2006年冬号)所載。(今井肖子)


January 1912007

 にはとりを叱りつつ雪掃きゐたる

                           友岡子郷

を採るために飼われ家の周辺に放たれる鶏の風景は少なくなった。卵の価格が安値安定しているためである。戦後の物価の推移の中でもっとも値上がり幅が少ないものに卵と牛乳が入っている。鶏は放牧されると木の上で眠る。ちゃんと空を飛ぶし、個性もある。昔家で飼っていた鶏を手乗りにした。腕を差し出すとちゃんと飛び乗ってくる。もっとも乗られるたびに爪を立てられるので布を巻かないと痛い。最新式のオートメーション化した養鶏場は餌も水も電動で巡ってくる。身動きのできない檻の中で採卵の機械と化し短い一生を終える鶏は悲しい。この句、連体形で止めてあるので、句の意味が上句へと循環する。主語である「誰か」または「我」が省略されているから「ゐたる」はそこに戻るわけである。仮に「掃きゐたり」の終止形で止めると画像の強調度は増すが、「叱る」という動詞の焦点と「掃く」という動詞の焦点のうちの後者が強調されることになる。連体形で止めることによって、作者はふたつの動作の対等な連携と反復性を意図したのである。うっすら積もった雪晴れの朝の鶏は鮮やか。鶏冠の朱が印象的である。叱られながら餌を啄ばむ鶏は幸せである。『葉風夕風』(2000)所収。(今井 聖)


January 1812007

 寒夜明け赤い造花が又も在る

                           西東三鬼

の頃は本物と見間違うばかりの精巧な造花が多く出回っているが、掲載句の頃と言えば「ホンコンフラワー」と呼ばれた安物のプラスチック造花が巷に売られていた時代だろうか。学校のトイレや洗面所の片隅に打ち捨てられたように置かれている埃っぽい花をしばしば目にした。咲き誇る花の美しさは数日で衰えてしまう。萎んだ花殻を摘んで残りの花を活け直し、最後に始末するまでが人と花のかかわりだとすれば、いつまでも同じ形を保ち続けている花とは何だろう。芯から冷え込む「寒夜」(かんや)が明けても、昨日と同じ場所に赤の造花が、寸分変わらぬ姿でそこに在る。「俳句に説明が要らないといふことは、事物の選択が、すでに充分作者の思念を表明しているからである。」三鬼は述べる。確かに掲載句にも事実だけが書き留められてはいるが、「又も在る」の表現にかすかに作者の気持ちが滲む。その言葉の裏にひそむ彼の心持ちは「もう、うんざり」と言ったところか。戦前、戦後。俳句のために職も生活も擲って奔走しながらも報われることが少なかった三鬼。「わが一生は阿呆の連続ときわまったり」と述懐せねばならなかった三鬼の虚無的な在りようが赤い造花に色濃く投影されているように思える。『変身』(1961)所収。(三宅やよい)




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