TV「納豆で痩せる」は大嘘だった。嘘つく方も買いに走った側もどっちもどっち。世も末だ。(哲




2007ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

人、岡崎清一郎の句です。季語は木枯らし、冬です。語源は、「木を枯らす」からきているとも言われています。「この風が吹くと、枝の木の葉は残らず飛び散り、散り敷いた落ち葉もところ定めずさまよう」と、手元の歳時記には解説があります。垂直に立つ煙突を、木枯らしは横様に吹きすぎます。煙突を、枝のない木と発想するところから、この句は生まれました。その発想自体は、それほどめずらしいものではありません。しかし、木という言葉と、煙突という言葉の間に、「木枯らし」を吹かせたことで、空を支える三者につながりができ、その言葉の組み合わせが、物語をつむぎだす結果になりました。まるで、煙突にはもともと枝葉があって、木枯らしに吹かれたために、今のような姿になったかのようです。冬空に高くそびえ、寒さに耐える煙突の姿は、たしかにいたいたしくもあります。それはそのまま、コートのポケットに手を入れて冷たい風の中にたたずむ老いた人のようでもあります。かつて、友人や家族という枝葉に囲まれて、遮二無二生きてきた日々を、その人は路上に立って思い返している。と、そこまで読み取る必要はないのかもしれません。しかし、この句を読めば、だれしもの頭の中に、しんとした物語が始まってしまうはずです。『詩のある俳句』(1992・飯塚書店)所載。(松下育男)


January 2012007

 弦月の弦とけてゐる寒の晴

                           本井 英

を仰がない日はないなあ、とふと思う。朝窓を開けて、出勤の時玄関を出て、通勤電車の中から、職場の窓から、東京の狭い空にも四季の移り変わりと表情がある。勤め帰り、都心のビルに埋もれた夕日に染まる空、駅を降りて、わずかな星や月を探して見上げる空。青く澄んでいるというと、秋の空の印象が強いが、冬、特に年が明けてからの寒中(寒の入から寒明けまで)の空は、強い北風に吹き清められて青く冴えている。弦月(げんげつ)は弓張り月。この句は昨年の作なので、2006年の月のカレンダーを見ると、大寒の二、三日後、下弦の半月が有明の空に見えたと思われる。うすうすと消えてゆく弓形の月、半円の輪郭はほの明るいが、だんだんと空にとけ始めている。空との境目をなくしてゆく月を、全体のイメージではなく、弦という線に焦点をあてて詠み、その月をとかしている空は、大寒過ぎの雲ひとつない青空になりつつある。弦月は場合により季題となり秋季だが、下五の「寒の晴」のくっきりとした強さと広がりから、この句は「寒」の句であろう。一年で最も寒いこの時期だが、今日一月二十日は大寒、また大学入試センター試験初日でもある。あとは春を待つばかり。同人誌『珊』(2006年冬号)所載。(今井肖子)


January 1912007

 にはとりを叱りつつ雪掃きゐたる

                           友岡子郷

を採るために飼われ家の周辺に放たれる鶏の風景は少なくなった。卵の価格が安値安定しているためである。戦後の物価の推移の中でもっとも値上がり幅が少ないものに卵と牛乳が入っている。鶏は放牧されると木の上で眠る。ちゃんと空を飛ぶし、個性もある。昔家で飼っていた鶏を手乗りにした。腕を差し出すとちゃんと飛び乗ってくる。もっとも乗られるたびに爪を立てられるので布を巻かないと痛い。最新式のオートメーション化した養鶏場は餌も水も電動で巡ってくる。身動きのできない檻の中で採卵の機械と化し短い一生を終える鶏は悲しい。この句、連体形で止めてあるので、句の意味が上句へと循環する。主語である「誰か」または「我」が省略されているから「ゐたる」はそこに戻るわけである。仮に「掃きゐたり」の終止形で止めると画像の強調度は増すが、「叱る」という動詞の焦点と「掃く」という動詞の焦点のうちの後者が強調されることになる。連体形で止めることによって、作者はふたつの動作の対等な連携と反復性を意図したのである。うっすら積もった雪晴れの朝の鶏は鮮やか。鶏冠の朱が印象的である。叱られながら餌を啄ばむ鶏は幸せである。『葉風夕風』(2000)所収。(今井 聖)




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