こんなにも土日が待ち遠しいとは。この四十年忘れていた生活の味。ああ、疲れた。(哲




2007ソスN1ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2712007

 切り株はまだ新しく春隣

                           加藤あけみ

本列島概ね暖冬という今年である。寒いのは嫌いだがそうなると勝手なもので、大寒の日、木枯に背中を丸めて、こうでなくちゃとつぶやく。十数センチの積雪で電車は遅れ、慣れない雪掻きで筋肉痛になるとわかっていても、一度くらいは積もってほしいと、これまた勝手なことを思ううち、一月も終わろうとしている。春隣、春待つ(待春)、ともに冬の終わりの季題だが、心情が色濃い後者に比べ、春隣には、まだまだ寒い中に思いがけなく春が近いと感じる時の小さい感動がある。冬晴れの日、木立に吹く風はまだ冷たい。一面の落ち葉、その枯れ色の風景の中、白く光るものが目にとまる。近づくとそれは切り株で、ふれると、まだ乾ききっていない断面には、生きている木の感触が残っている。切り株の、とすれば、その断面がはね返している日差が春を感じさせる。しかし、切り株は、と詠むことで、今は枯れ色のその森の木々すべてに漲っている生命力を感じさせるとともに、切られてしまった一本の木に対する作者の眼差しも見えるようだ。ほかに〈中庭は立方体や秋日濃し〉〈クレッシェンドデクレッシェンド若葉風〉〈石投げてみたくなるほど水澄めり〉などさらりと詠まれていながら、印象深い。『細青(さいせい)』(2000)所収。(今井肖子)


January 2612007

 蓮枯れて大いなる鯉どに入りぬ

                           水原秋桜子

原秋桜子が、定期的に粕壁(現春日部)に足を運んだのは昭和五年からの三年間。知己である医師の依頼を受けて月二回出張診療に行くことになる。当時粕壁中学(現春日部高校)教員仲間で句会をやっていた加藤楸邨たちは「ホトトギス」に出ていた秋桜子のエッセイでこのことを知り、秋桜子の診療日に押しかけて指導を頼んだ。以後、診療が終わると秋桜子のグループは粕壁の古利根川や庄内古川を吟行して句会を行ったのである。秋桜子の「ホトトギス」離脱が同六年七月。その三ヶ月後の「馬酔木」十月号に、昭和俳句史上最大の「事件」となった反「ホトトギス」の論文「『自然の真』と『文芸上の真』」が載る。秋桜子著『高濱虚子』に、「革命」前夜の動きが詳細に書かれている。診療後の庄内古川を吟行したあと、鰻屋に向う途中で楸邨に尋ねられた秋桜子は「僕は近いうちに『ホトトギス』をやめるかもしれない」と打ち明ける。楸邨は「一度決意された以上はしっかりなさらなければならない」と応ずる。どは竹を編んで筒状にした川魚を取る仕掛け。川底に沈めて魚を誘い込む。古利根川や庄内古川でよく見られた風景であり、楸邨も当時の句に多く詠んでいる。昭和七年のこの作、どに生け捕られた大きな鯉は「ホトトギス」だったのかもしれぬ。『新樹』(1933)所収。(今井 聖)


January 2512007

 絶頂の東西南北吹雪くかな

                           折笠美秋

が降れば単純に嬉しい地域にしか住んだことのない私に吹雪への恐怖はない。その凄まじさについて「暖国にては雪吹を花のちるさまに擬したる詩作詠歌あれど、吾国(北越)にては雪吹にあふものは九死に一生」と『北越雪譜』に記載がある。横須賀出身の美秋も吹雪の激しさに縁が薄かったろうから、経験からではなく言葉で描きだされた心象風景だろう。四方さえぎるもののない頂上に登り詰めた末、進むことも退くこともできぬまま真っ白な世界に閉じ込められて方角を見失う。絶景を約束された場所で吹雪に封じられる逆説が映像となって立ち上がるのは叙述が「かな」の強い切字で断ち切られているから。東京新聞の記者として第一線で活動していた美秋は筋萎縮性側索硬化症(ALS)に倒れ7年の闘病生活を送った。唇の動きや目の瞬きで妻に俳句を書き取らせ、身動きの出来ぬ病床で俳句を作り続けたという。句集の最後は「なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため」の句で終っている。掲載句も病床から発表されたものらしい。言葉と言葉の連結で俳句世界を作り上げることにこだわった作者にとって、自分の俳句が境涯から語られることは不満かもしれない。しかし、彼の病気を考慮にいれても、背景から切り離してもなおこの句が生きるのは選ばれた言葉にそれだけの強靭さが備わっているからだろう。『君なら蝶に』収録『虎嘯記』抄(1984)所収。(三宅やよい)




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