2007N2句

February 0122007

 鴨沢山呼んであります来ませんか

                           ふけとしこ

は普段でも目にする鳥だが、1月から4月にかけて越冬のためシベリア付近から飛来するという。マガモ、オナガ、コガモ、同じ鴨でもよく見ると首の長さや身体の大きさに違いがあることがわかる。春近い陽射しを受けて鴨達の羽根がきれいに光っている。池に群れている鴨は誰かに呼ばれて来ているわけではないが、こう書かれてみると鴨好きのあなたのために作者が集めてくれたみたいだ。こんな俳句が載った吟行案内のハガキを受けとったら、何を置いてもいそいそと出かけそう。例えば男の子がこの句の案内を見れば、レストランに可愛い女の子達が肩をぶつけあいながら座っている場面を想像するかもしれないし、狩猟好きのおじさんなら鉄砲をかついですぐさま出掛けて行きそうだ。読み手の立場で楽しい想像がいくらでも広がっていく。このふくらみは呼びかけの間の小休止が切れとして効果的に効いているからだろう。そして「鴨」は生活に密着したところで様々な成語になっているので、読み手の連想によって多義的な表情を見せることができる。動植物に親しい作者は、彼らの生態とともにその名前が多彩なイメージを生み出す秘密を知っているようだ。「仏の座光の粒が来て泊まる」『ふけとしこ句集』(2006)所収。(三宅やよい)


February 0222007

 雪の夜の波立つ運河働き甲斐

                           藤田湘子

の夜、都市部を流れる人工の水路をぼうっと見つめる。運河は別に都市部でなくてもいいが、「労働者」のイメージには或る程度の喧騒が必要だ。この句、働き甲斐があるとも無いとも言っていない。そもそも働くということ、そこに甲斐を求めるということはどういうことなのかと、ぼうっと考えている句のように僕には思える。労働が、権力への奉仕でも、搾取のお先棒でもなく、「生の具現」としてある社会を目指せとマルクスは言ったけど、今はそんな図式はもうひからびた発想ということになっている。本当にそうだろうか。資本家とプロレタリアートの対立図式がカムフラージュされても、世界中に貧困や戦争は満ちている。この句、湘子さんが三十代の頃の作品らしい。だとすると、高度経済成長の波の只中で労働が善であり美徳であった時代。そこから思うと「働き甲斐」は、働き甲斐が「ある」と取った方が良さそうだが、ニートや引き籠りや鬱病や自殺や高齢者切り捨ての現状に当てはめると「働き甲斐」自体の意味を問うているというふうに読んでみるのも意義なしとしない。「ああ、働き甲斐って何なんだろう」自分なりの答も出せないまま虚ろな目が運河に降り込む雪を見つめる。生きること、働くことへの懐疑、疲労、諦観。「ぼうっと」がこの句のテーマだ。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


February 0322007

 入学試験子ら消ゴムをあらくつかふ

                           長谷川素逝

日二月三日は節分、暦の上では今日まで冬。一方、この句の季題、入学試験は春季、虚子編歳時記では、入学の傍題で四月のページにある。しかし、私が勤務する学校も含め、現在東京の私立中学の入学試験の日程は、二月一日から三日に集中している。それゆえ、たいてい採点が終わってヘトヘトになって豆を撒く羽目になるのだ。私の担当教科は数学なので、入試では算数を採点するが、消しゴム使用率が高い教科のひとつではないかと思う。日常の定期試験でも、点数をつけながらめくっていくと、必ず消しゴムのかすが挟まった答案が何枚かある。たいてい、途中で行き詰まって焦っているわけで、白紙部分が多い。それでも一生懸命考えている顔を思い浮かべ、複雑な気持ちでそのかすをぱらぱらと払い、時には勢い余って破れた答案に裏からテープを貼る。ましてや入学試験の場合、相手は小学六年生、たいてい十歳前後から塾に通っている。消しゴムのかすが挟まった、白紙部分の多い答案の見知らぬその子は、中学受験算数とはどうにもそりが合わなかったのだ、気の毒である。長谷川素逝(そせい)は、旧制甲南中学、高等学校に勤務していたので、入学試験監督をしていての一句と思われる。大試験、受験子、などと言わずに、入学試験(の)子ら、と日常語で表現したことで臨場感が増すと共に、消ゴム、という具体物に焦点を当てたことにより、彼等の表情をも見せている。『ホトトギス虚子と100人の名句集』(2004・三省堂)所載。(今井肖子)


February 0422007

 春浅し引戸重たき母の家

                           小川濤美子

年は暖冬ですが、暦の上では今日が立春、本日からが「春」です。掲句、季語は「春浅し」。まだまだ寒さの残る時期を指しています。「母の家」とありますが、たしかに実家といえば母親の姿が思い浮かびます。悲しいかな父親というのは、家の中では影の薄い存在です。この句を、まさにわが事のように感じる読者は多いだろうと思います。わたしの母も85歳で健在ですが、数年前までは元気に歩き回っていたものが、最近、急に足腰が弱ってきました。そういう日が来ることは当たり前であり、うろたえてはいけないとは思うものの、部屋の中での移動も難渋している様子を見るにつけ、たまらない思いを抱いてしまいます。実家は木造の、ごくありふれた作りの小さな家です。いつ行っても同じ匂いがします。何年たっても同じものが同じところに置いてあります。そのことにほっとするのです。引戸が重いのは、建付けの悪さから来ているものか、単に古くなったせいなのか。たしかに、マンションのサッシのように滑らかには動きません。がたんがたんと引戸に力を込める手は、容易に前に進もうとしません。その重さは、どこか、母の背負ってきた時間の重さのようにも感じられます。それでもやっと開け放てば、外は驚くほどの明るい日差しです。「お母さん、もうこんなに春の光ですよ」。『角川大歳時記 春』(2007・角川書店)所載。(松下育男)


February 0522007

 洞窟はモンシロチョウを放しけり

                           松原永名子

ンシロチョウは、まだ蛹(さなぎ)のままで冬眠中だろう。これがどこからともなくヒラヒラ舞い出てくると、春来たるの実感が湧く。この句、そのどこからかを「洞窟」からと特定したところが面白い。良いセンスだ。情景としては洞窟のあたりにモンシロチョウが飛んでいるだけなのだが、冬の間はじいっと洞窟が囲い込んでいたチョウを、陽気が良くなってきたのを見定めたかのように、「もう大丈夫だよ」と、ようやく表に放してやったと言うのである。このときに、洞窟は温情あふれる生き物と化している。真っ暗な空間が抱え込んでいた真っ白(厳密には斑点があるので純白とはちがうけれど)なモンシロチョウ。想像するだけで、この色彩の対比も鮮やかである。この対比が鮮やかだから、読者は句のどこにも書かれていない春の陽光の具合や洞窟周辺の草木や花々の色彩にまでイメージを膨らますことができるというわけだ。余談になるが、日本のモンシロチョウは奈良時代に、大根の栽培と共に移入されたと考えられているそうだ。ひょっとすると大昔には、本当にモンシロチョウは洞窟が放すものと思っていた人がいたかもしれない。俳誌「花組」(2006年・第31号)所載。(清水哲男)


February 0622007

 春立つや櫛ふところに野良着妻 

                           蛯原方僊

は女の命という言葉があるように、いつの時代も女は髪を大切にし、また異性からはつややかな髪は豊かな魅力として見られてきた。女が櫛を使うとき、それは男が眺めるもっとも女性らしい姿であろう。妻がふところから櫛を取り出せば、そこにひとりの女性が現れる。それにしても、土にまみれた野良着姿である女に櫛が必要なのだろうか、と男はふと考える。「今さら髪を整えてどうするというのだ」と首を傾げる単純な気持ちと、着飾ることもなく働く妻への憐憫が交錯する。まだわずかに冷たさが残る、しかし確かに春の兆しを感じる日差しのなかで、妻の誰に見せるともないありふれた仕種に、長年連れ添った日々を振り返り、良き伴侶を持ち得た幸福に満たされる瞬間ではないだろうか。今日から春になるという立春の日。あらゆる四季の節目のなかで、もっとも待ちこがれる日を取り合わせたことで、しみじみとあたたかい句となった。わたしには、太陽の下でほつれた髪を整えるこの野良着の女性が、健やかな大地の女神にも思え、一枚の絵のように大切に胸にたたまれている。『頬杖』(2005)所収。(土肥あき子)


February 0722007

 残寒やこの俺がこの俺が癌

                           江國 滋

の俳句には余計なコメントは差し控えるべきなのかもしれない。鑑賞やコメントなどというさかしらな振る舞いなどきっぱり拒絶して、寒の崖っぷちに突っ立っている句である。・・・・句集『癌め』には、癌を告知された平成9年2月6日から、辞世となった8月8日(死の2日前)の作「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」までが収められている。掲出句は、告知された2月6日から同月9日までに作られたうちの一句。「残寒や/この俺が/この俺が癌」とも「残寒や/この俺がこの俺が/癌」とも読める。前者は中七「この俺が」の次に「癌」は咄嗟には詠み淀んで溜め、最後にようやく打ち出された。後者の「この俺がこの俺が」という大きな字余りには、重大な告知をされた者ならではの万感がこめられているし、下五を字足らず「ガン」で止めた衝撃も、したたかで強烈。「残寒や・・・・」の句のすぐ前には「木の芽風癌他人事(ひとごと)と思ひしに」という句が置かれている。癌をはじめ難病に罹った者は、誰しも「他人事」と思っていただろうし、「選りによって、なぜ、この俺が・・・」という怒りに似た思いを禁じえない。さらに「残」と「寒」という字は苛烈な意味合いを孕むだけでなく、「ザン」「カン」という言葉は、切り立つような尖った響きを放って作者にも読者にも迫る。江國滋が俳句や落語、日本語などについて書いたものは毒がきいていて痛快だった。鷹羽狩行は「江國さんは、正義の味方であり、弱者の味方でした。正義の味方がエッセイとなり、弱者の味方が俳句となったのではないか」と指摘している。滋酔郎の俳号で東京やなぎ句会のメンバーでもあった。句集『癌め』(1997)所収。(八木忠栄)


February 0822007

 白梅の空は産湯の匂かな

                           石母田星人

田龍太の句に「白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり」とあるように、春に先がけて咲くのは白梅が多いのだろうか。中国から渡来した順も白梅からだったらしく、天平時代和歌に詠まれた梅は全て白梅だったと歳時記の記述にある。東京は暖冬のせいか一月末にもう紅梅が咲いていたが、日増しに明るさを増す早春の空にはさっぱりと清潔な白梅が似つかわしい。産湯は生まれたての赤子の汚れを落とすだけでなく、外気に触れて冷えた身体を羊水とほぼ同じ温度で温める効用があるという。この産湯が遠い昔に自分が浸かっただろう湯の匂いを想像しているのか、生まれたての赤子を父として抱き上げた時ふっと感じた匂いなのかわからないが、あるかなきかの淡い香だろう。とはいっても作者は産湯と白梅の匂いを単純に結びつけているのではない。白梅の間から透かし見る早春の空と梅の香りの調和に、季節が生まれでる予感を感じているのだ。春と呼ぶにはまだ寒いけれど、見渡せば赤味を帯びた裸木の梢に、道端の下萌えに春は確実に近づいている。初々しい季節の誕生に託して、誰もが産湯につかってこの世に迎え入れられた。そんな当たり前の事実を懐かしく思い起こさせる一句である。『濫觴』(2004)所収。(三宅やよい)


February 0922007

 一本の白毛おそろし冬の鵙

                           桂 信子

の鵙の叫びの鋭さを思えば、この「おそろし」はまさに深刻な事態だ。白毛(しらが)は老化の兆し。気持ちの良いものではないが、男性は女性ほど気にしない。「おそろし」の感じはまさに女性の感覚だろう。男ならさしずめ「抜毛おそろし」だろうか。大方が「おそろし」と感じる部分を逆にファッショナブルに転ずることができれば最高のおしゃれかも知れない。ハゲ頭の似合うカッコいい男性や、白髪が美しい女性。前者としては古くはユル・ブリンナー、ショーン・コネリー。最近のブルース・ウィルス。日本の俳優では渡辺謙や西村雅彦などをすぐに思いつく。後者はあまり思い出せないが、市川房江さんなんか清廉なイメージの中心にあの白髪があったな。過日、吉田拓郎のコンサートの映像を見たとき、客の中に多くのハゲ頭を見出した。拓郎自身かなり額が上がってきていて、それを気にせず舞台に立っている姿に客は自身を重ねて感動するのだろう。そういう点からの共感もあるはずだ。老化は、地球の引力の援護も得て、刻一刻と皺を弛ませ肉体を変貌させていく。美しく老いるのは難しいが、「おそろし」とばかりは言っていられない。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


February 1022007

 鶯や白黒の鍵楽を秘む

                           池内友次郎

楽をするのだから俳句を作ってみたらどうか、と虚子に言われ何となく作り始めた、と次男友次郎は述懐している。渡仏をひかえた二十歳頃のことだ。調べ、リズムが俳句の大切な要素の一つであるのもさることながら、友次郎のユニークな感覚が生む句を見たかったのだろう。この句は、友次郎三十一歳、パリ留学から帰ったばかりの頃の作。音楽の仕事の合間に自然に生まれてきた句ということなので、白黒(びゃっこく)の鍵はピアノの鍵盤。溢れ出るイメージが指を動かし、鍵盤にふれることでそれが音になり耳からまた体内へ。そんな風に彼の音楽が生まれている時、ふと鶯が鳴いたのだ。誰が作ったわけでもない自然の、春を告げる澄んだ音色。手を休めて、しばらく鶯の声を聴いていたのではないか。そして目の前のピアノをぼんやり見つめるうちに、まるで鶯の声に誘われるように、彼の中でまた音楽が生まれ始めたことだろう。「楽」を秘めているのは友次郎自身であり、ピアノを詠んでいながら、聞こえるのは鮮やかな鶯の声である。音楽家らしい一句だが、戦後本業が忙しくなったこともあり、俳句から遠ざかっていく。そんな友次郎に虚子が、「おまえはかなりな句を作っていたのに何故このごろ作らなくなったのか」と言い、「あなたのような人を父としたから句を作る気にならなくなった」と答えると、「悪かったですね」と笑った、との述懐もある句集『米壽光来』(1987)所収。(今井肖子)


February 1122007

 豆腐屋の笛もて建国の日の暮るる

                           岡崎光魚

和をノスタルジーの対象にする最近の風潮には、多少の抵抗があります。しかし、気がつけばわたしも昭和を、懐かしく思い出していることがあります。掲句、「豆腐屋の笛」という言葉を目にして、そういえば昔、そんな音を聞いたことがあったなと思いました。あの、どこか気の抜けた金属的な音が、耳の奥で蘇ります。当時の家は、今ほど密閉性にすぐれていませんから、家の中にいても道端の音がはっきりと聞こえてきました。笛の音と、「とーふぃー」という間延びのした声を聞くと、割烹着すがたの母親が鍋をかかえて外に急いだものです。たしかに当時の家は、今よりもずっと外と緊密につながっていました。扉も今のようにいくつも鍵がかけられていたわけではありません。外部というのは、必ずしも防ぎとめる対象ではありませんでした。時に「さおだけー」だったり「いしやきいもー」だったり、ラーメンのチャルメラだったり、家の玄関の延長のような場所で、物売りがのんびりと通り過ぎたものです。今日の句を読んで真っ先に目に浮かんだのは、昭和の懐かしい風景でした。道端を通り過ぎる豆腐屋の向こうの、広々とした原っぱに夕日が沈もうとしています。そんな懐かしさの只中に、「建国」という重い言葉が置かれています。しかし、神武天皇がその昔即位した日にしろ、一日はただの一日です。市井の人々にとっては、国を作ることよりも切実な出来事があり、その日もいつもと変わらずに、豆腐屋の笛を合図に、何事もなく暮れてゆくのです。『角川大歳時記 春』(2007・角川書店)所載。(松下育男)


February 1222007

 早春や藁一本に水曲がり

                           田中純子

者がのぞき込んだのは、小川とも言えない細い水の流れだろう。道路に沿った排水溝(側溝)のようなところか。そこに藁しべが一本引っかかっていて、よく見ると、流れてきた水がその藁に沿って曲がって流れていると言うのだ。当たり前といえば、当たり前。まことにトリビアルな観察句だけれど、作者をしてこの句を生ましめた背景には、まことに大きな自然との交流がある。私にも覚えがあって、気候が温暖になってくると、人の目は自然と水に向うようだ。べつに風流心があったわけではないけれど、田舎での少年時代には、学校帰りにしばしば立ち止まって小川をのぞき込み、小さな魚影や蟹たちなどの動きに見惚れたものだった。冬の流れなんぞは、暗くて冷たそうで見向きもしなかったのに、猫柳が少しずつ膨らんでくるころになると、水を見るのが楽しくなってくるのである。これから日に日に暖かくなるぞという予感が、そうさせたのだと思う。揚句の作者もまた、春の足音に背中を押されるようにしてのぞき込んでいる。キラキラと光りながら流れている水が、ちっぽけな藁一本を迂回していく様子に、やがて訪れてくる陽春への期待感と喜びの気持ちを重ね合わせている。なんとはなしに、ほのぼのとしてくる一句だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1322007

 四匹飼えば千句与えよ春の猫

                           寺井谷子

所の雑司が谷墓地に恋する猫たちが闊歩する季節となった。「恋猫」「孕み猫」「子猫」と、春の歳時記にあふれる猫の句を前に、飼い猫たちを「一体どうなのよ」と眺めている作者の視線が愉快な掲句である。もちろん、猫の方は我関せずの態を崩さず、顔など洗っているのだろう。愛玩動物として飼われる猫が大半になった現在、俳句にペットを持ち込むことは、吾子俳句、孫俳句同様、舐めるような愛着を見せられては敬遠されることは必定で、例句がふんだんにあるわりに、新しい猫の句を誕生させることは難しい。そこへいくと掲句には、意表をつく「千句与えよ」という大上段に構えた表現と、そこに込められた明らかな諦観がユーモラスな笑いにつながってゆく。また、猫を飼っている読者も「一匹につき250句かあ」などと詮無い割り算ののち、やはりそれぞれの飼い猫を眺め、その「まるっきり関係ありません」的な態度に肩をすくめていることだろう。漫画「サザエさん」には、縁側で猫をからかいながら「よごれ猫それでも妻は持ちにけり」とくちづさむ波平に、カツオとマスオが「おとうさん、それは犬のほうが…」などといいように添削され、「一茶の句だ」と一喝する場面がある。俳句を趣味とする波平にも250句与えてくれたとは思えないサザエさん家のタマであった。『母の家』(2006)所収。(土肥あき子)


February 1422007

 雪崩るゝよ盆地の闇をゆるがして

                           藤沢周平

語は「雪崩るゝ」で春。雪崩はちょろちょろとしたほんの小規模のものから、天地をゆるがすような大雪崩までいろいろである。大雪だったのだろう、ようやく春を迎えようという時季に、寝静まった盆地の村の闇の夜をゆるがすような雪崩が突如起こる。「ゆるがして」といっても、盆地の一村が埋まってしまうほどの大規模のものではあるまい。しかし、盆地の斜面をドドドーッとずり落ちる雪崩の音に、安眠を破られた住人たちの驚きが暗闇のなかに見え隠れしている。静かな闇をゆさぶり起こす、まさに白い軍団。それでも、「雪崩るゝよ」の「よ」が、雪崩がそれほどスケールの大きいものではないことを物語っている。いったん目を覚まされた者も再び眠りに就き、おっとりした者は寝床のなかで「今夜も、またか」などと呟いて再び白河夜船か。手もとの歳時記に「雪崩です沈みゆく白い軍艦です」(田中芥子)というモダンな俳句が載っていて、ちょっと気になった。ほほう、軍艦ですか? 時代小説の名手藤沢周平は若い頃、野火止川近くの病院で療養中に賞味一年半ばかり、誘われて俳句を作ったことがあった。振りかえって「作句の方はのびなかった」「才能に見切りをつけた」とエッセイに書いている。「軒を出て狗寒月に照らされる」などは時代小説の一齣を思わせるが、やはり大立ち回りというよりは淡々と詠んだ句が多い。俳句は作るよりも読むほうにウエイトを置いたらしい。人事よりも自然のほうに心動かされたという。のちに小説「一茶」を書き、舞台化もされた。『藤沢周平句集』(1999)所収。(八木忠栄)


February 1522007

 薄氷をひらりと飛んで不登校

                           清水哲男

水さん、お誕生日おめでとうございます。一年に一度、清水さんの自句自解を毎年とても楽しみにしていたのですが、残念ながら今日は木曜日(笑)。後日の自句自解を期待して私の好きな清水さんの句を採り上げさせていただきます。薄氷(うすらい)は寒気のもどりに薄々と張る氷。「はくひょう」と読めば、極めて危険な状況にのぞむ「薄氷をふむ」へと繋がってゆきます。季語の「うすらい」とともに、その意も踏まえられているのでしょうね。学校へ行ってもクラスになじめない。いじめやからかいも怖い。そんな重苦しい思いを抱えたまま登校して自分を追い込むより、ひらりと身をかわして好きな場所を見つけなよ。と掲句は「不登校のススメ」のように思えます。清水さんは学校がきらいだったようで「十数年前、娘の学校のPTA役員をおおせつかったときも、会合のための教室へ入ったとたん吐き気をもよおしたほどだ」(『現代詩つれづれ草』より引用)と、書き留めていらっしゃいます。そういえば、公立学校は黒板の位置。天井の蛍光灯の明るさ、教卓の高さにいたるまで文部省の通達で決められているらしいですね。そんなに学校が嫌だったのに一日も休まなかったとか。負けん気の強い清水さんのこと。嫌いだからこそ意地でも通い続けたのかもしれませんね。去年から学校をめぐる暗いニュースが続いています。学校が世知辛い場所になればなるほど、清水さんのこの句が優しい呼びかけのように思えます。『打つや太鼓』(2003)所収。(三宅やよい)


February 1622007

 骰子の一の目赤し春の山

                           波多野爽波

規の提唱した「写生」と虚子が言った「花鳥諷詠」の違いは、前者が「写すこと」の効果を提唱したのに対して、後者は俳句的情緒を絶対条件としたこと。だから後者は「写生」ではなくて、俳句的ロマンを旨としたと言った方がいい。いわゆる神社仏閣老病死がその代表的な例。ところが虚子の弟子にも変人は出るもので、虚子先生が情緒を詠めと言っておられるのに、情緒などお構いなしに、しっかりと「写す」ことを実行した俳人がいる。高野素十とこの爽波がそれである。作る側が情緒を意図せずとも、「もの」をそこに置けば、勝手に「もの」が動いて「感動」を作り出す。「もの」の選択に「俳句的素材」などという判断は不要、それが俳句という短詩形の特殊な在り方を生かす方法、つまり「写生」であると理解するに到った変り種である。その理屈で出発すると、論理は、では「写す」ことと季語はどう関わるのかというところに行かざるを得ない。季語と写生は必然的な結びつきなのかという疑問も出てくる。しかし、素十も爽波も季語は捨てない。「もの」の選択の範囲を広げた分、情緒を季語に依存しようとしたのか。骰子(サイコロ)の一の目が赤く大きく目を瞠り、そのイメージに春の山の景を被せる。「赤し」と春が色彩として同系。サイコロの存在感が山と呼応する。爽波のような反情緒の「もの」派も、そこのところで「季語の恩寵」を言うんだろうなあ。『骰子』(1986)所収。(今井 聖)


February 1722007

 野火ふえて沼の暦日俄かなる

                           石井とし夫

べりの春の到来を端的に教えてくれるのが野火のけむりである、と句集末尾の「印旛沼雑記」にある。「総じて野焼き、野火と言っているが小野火、大野火、夕野火、夜野火等々野火にも畦火にもその時々に違った趣がある」とも。印旛沼(いんばぬま)は千葉県北西部に位置し、その大きさは琵琶湖の約六十分の一、内海がふさがって沼となって千年という。作者はこの印旛沼と利根川に挟まれた町で生まれ育ち、その句は、句作を始めた二十代から八十三歳になられる現在まで、ずっと四季折々の沼の表情と共にある。野焼きは、早春に野の枯れ草などを焼くことで、野火はその火。木枯しに洗われて青く張りつめていた空が少し白く濁り、風もゆるんでくる頃、遠くに野焼きのけむりが立ち始める。枯れた田や畦を焼き、沼周辺の枯蘆を焼き、農耕や漁に備えるそのけむりが増えてくることに、作者は春の胎動を感じている。中七下五の省略のきいた表現が、春に始まる沼の暮らしが俄かに動き出す、と言った意味ばかりでなく、冬の間は水鳥を浮かべ眠っている、沼の静けさをも感じさせる。〈沼の雑魚良夜に育ちをるならむ〉〈鳰沈みひとりひろがりゐる水輪〉〈梅一枝抱かせて妻の棺を閉づ〉そこにはいつも、穏やかで愛情深い確かな眼差しがある。『石井とし夫句集』(1996)所収。(今井肖子)


February 1822007

 春一番今日は昨日の種明かし

                           上田日差子

でに先週の水曜日に、春一番が吹いた地域も多いかと思います。季語はもちろん「春一番」。立春を過ぎてから初めて吹く強い南寄の風のこと、と手元の歳時記にはあります。「一番」という言い方が自信に満ちていて、明るい方向へ向かう意思が感じられます。春になり、日に日に暖かくなってゆくこの季節に、種明かしされるものとは、命の源であるのでしょうか。「種明かし」という語が本来持っている意味よりも、「種」と「明かす」という語に分ければ、未来へ伸びやかに広がり続けるイメージがわいてきます。昨日蒔かれた種の理由が、今日あきらかにされます。次々と花ひらく今日という日を、わたしたちは毎年この季節に、驚きをもって迎えいれます。「風」も「時」も、こころなしかその歩みをはやめてゆくようです。その歩みに負けじと歩き出すと、顔に心地よく「春一番」がぶつかってきます。余韻をもった句や、潜められた意味を持った句も魅力的ではありますが、この句のように隅々まで明るく、意味の明快な句は、それはそれで堂々としていて、わたしは好きです。よけいなことながら、作者の名からも、あたたかな日が差し込んでくるようです。『現代歳時記』(1998・成星出版)所載。(松下育男)


February 1922007

 手に受けて少し戻して雛あられ

                           鷹羽狩行

誌にこの作者の句が載っていると、必ず真っ先に読む。何でもないような些事をつかまえる名手ということもあるが、単に巧いというだけではなく、句の底にはいつも暖かいものが流れていて、そこにいちばん魅かれているからだ。とくに心弱い日には、大いに癒される。揚句でも、まさに何でもない所作を詠んでいるだけだが、作句の心根がとても優しく温かい。雛あられを受けるときには、自然に両掌を差し出す。こぼしてはいけないという配慮の気持ちもあるのだけれど、そこには同時に人から物をいただくときの礼儀の気持ちが込められている。すると領け手の側は、その礼儀に応えるようにして、これまた自然な気持ちから両掌いっぱいに雛あられを注ぐのである。そういうことは句のどこにも書かれてはいないが、「少し戻して」という表現から、読者はあらためてこの日常的な礼節の交感に気づかされ、そこに何とも言えない暖かさを感じ取るというわけだ。ひとつも拵え物の感じがしない、こねくりまわしていない。けれども、人のさりげない所作の美しさにまで、きちんと錘がおりている。天賦のセンスの良さがそうさせたのだと言うしか、ないだろう。掲載誌より、もう一句。<まんさくの一つ一つの片結び>。「俳句研究」(2007年3月号)所載。(清水哲男)


February 2022007

 菜の花や象と生まれて芸ひとつ

                           佐藤博美

大な身体を持ちながら従順に命令に従う象の芸は、賢さや器用さを思うより、いいようのない切なさを伴うものだ。さらに戦争中の1943年、逃走したら危険という理由で餓死させられた上野動物園の象が最後まで芸を繰り返したという実話も重なり、異国の地に連れてこられた動物たちの哀れな運命に思いを馳せる。涅槃図に描かれる白象ではなく、人々は一体いつ実物の象という動物を目にしたのだろうかと思い調べてみると、1728年8代将軍吉宗が注文した5才のメスと7才のオスの2頭の象がベトナムから長崎に到着していた。船旅の疲れが祟ったのか、メス象は3カ月ほどで死んでしまうが、オス象と象使いたち一行は江戸を目指し、一日に3里から5里のペースで陸路をたどったという。京都御所謁見の際「広南従四位白象」という位まで頂戴した象さまをひと目見ようと、道中の熱狂の人垣はいかばかりかと想像するが、象の方は街道の人々に愛嬌を振りまいて穏やかに歩を進めていたようだ。オス象は10年ほど浜離宮で飼育され、吉宗は時折江戸城に召し出したというが、その後は中野の農夫に払い下げられ見世物とされ、数カ月後の真冬の12月に病死している。象の寿命が70年余りだと考えると、享年21才という年齢は短いものだろうが、伴侶もなくたった一頭で繰り返す四季はあまりに長く悲しい歳月だったことだろう。掲句の菜の花の屈託のない黄色が、ひときわ印象的な色彩となって胸に灯る。『空のかたち』(2006)所収。(土肥あき子)


February 2122007

 寄席の木戸あいて春めく日なりけり

                           入船亭扇橋

席の客席は映画館や劇場とちがって真っ暗ではない。薄明かりのなかで、白昼から三味線が鳴り、鉦太鼓が響き、亭内には赤い提灯がずらり。そのうえ笑いが絶えない。こんなスペースは他にはない。寒さがゆるんでくる時季になれば、亭内の空気も一層やわらいでくる。客の身なりも然り。以前ならば、「らっしゃいー」という木戸番の爺さんの威勢のいい声が、雰囲気を盛りあげていた。木戸をくぐれば、笑いもどこやら春めいてやわらぎを増し、高座の演し物も春にふさわしい噺がならぶ。いつも楽屋入りしている落語家が、木戸をあけて出入りする客にふと春めいた気配を感じとったのだろう。「さて、今日あたりは『長屋の花見』でも伺うか・・・・」とか。高座にも客席にも、ぬくい空気がふくらみを広がってくる結構な時季である。楽屋でも春めいた洒落が立ったり座ったりしているにちがいない。掲出句はそうした“春”をさらりと詠んで、屈託ない。九代目扇橋は名人桂三木助(三代目)に入門した。句歴は古く、すでに小学校6年生の頃に運座に参加して、商品に団扇や味噌をもらったりしていた。十代で「馬酔木」に投句。秋桜子編『季語集』には「溝蕎麦の花淡し吾が立つ影も」「山吹に少女の雨具透きとほる」の二句が収載されている。俳号は光石。現在、東京やなぎ句会の宗匠。俳句については「喜び、悲しみ、笑い、叫び、怒り、憎しみ、たわむれ――すべてをすっぽり包み込んでしまう俳句は、本当に偉大な風呂敷である」と書く。今も元気でまめに寄席に出演し、飄々とした枯淡の味わいが、独自の滑稽味をにじませている。『扇橋歳時記』(1990)所収。(八木忠栄)


February 2222007

 春光や家なき人も物を干す

                           和田 誠

光は春の訪れを告げ、物みな輝かす明るさを持った光。まだ寒く冷たい風が吹き荒れる日も多いけど、黒い古瓦に照り返す日差しがまぶしい。小学生のときに読んだ『家なき子』は少年レミが生き別れた親を探す話だったが、現在の「家なき人」は住みどころなく仮住まいを余儀なくされている人たちだろう。公園の片隅や川の土手にありあわせの材料で小屋を建てる。多重債務。家庭崩壊。病気。失職。自ら競争社会に見切りをつけた人もいるかもしれない。酷薄な福祉環境へ変わりつつある今の日本では明日どんな運命が待ち構えているかわかったものではない。ホームレスではなく「家なき人」と表現したところに既成の言葉に寄りかからない作者の見方が表れているように思う。仮住まいをしている人たちにも生活がある。春の光があふれる公園で、冬の間に湿った蒲団を干し、ありったけの服を洗濯する。何年前だったか、とある春の午後、隅田川の土手に仮住まいをしているおじさんが家財道具を干し出したそばの椅子に腰掛け、上流に向う水上バスにしきりに手を振っているのを見たことがある。水上バスのデッキに出ている人達も笑顔で手を振り返す。春日はきらきらと隅田川の川面に光り、手を振る人も白い水上バスも景色の中に輝いて見えた。『白い嘘』(2002)所収。(三宅やよい)


February 2322007

 時計屋の時計春の夜どれがほんと

                           久保田万太郎

句という土俵をこんなに広くみせることのできる俳人はめったにいない。俳句は難しい。季題を用い、その本意を意識し、類想はないか、切れ字は的確か、切れは多すぎないか、一七音は余らぬよう、足らざるなきよう。さまざまの条件を意識し、それらをみずからの表現に課すたびに句は硬直化し、理想的な細部を寄せ集めたあげくまったく個性のない合成写真の顔のような作品ができあがる。そこに陥らぬよう意識して、大らかに作ったように見せかけようとすると余計ドツボにはまる。一時、若手と言われる世代でも、大正時代の俳句の大らかさに学ぼうなどというテーマが流行ったが、知的に繊細な技術を駆使して「大らかさ」を出そうとするのはピストルで戦艦を狙うのと同じかもしれない。時代が違うから、社会的存在である人間自体が違う。現代には現代の感性があり、今の感性に沿った今の文体が必要なのだ。この句、切れは二つ目の「時計」のところ。「春の夜」は微妙に下句につながる。「どれがほんと」は口語。破調でも独自のリズムがあり、口語でも季題の本意は崩さない。こんな「かわいい」句を明治二十二年生まれの人に作られたひにゃ今の「かわいい」はどう作りゃいいんだよお。「俳句現代・読本久保田万太郎」(2001年3月号)所載。(今井 聖)


February 2422007

 たんぽぽに立ち止まりたる焦土かな

                           藤井啓子

んぽぽ、と声に出すと、やはりその「ぽぽ」の音は、日常の日本語にはない不思議な響きだ。春の野原の代表のような、なじみ深い花の名前だから一層そう感じるのだろうか。それが〈たんぽゝと小聲で言ひてみて一人〉の星野立子句や、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ〉の坪内稔典句を生むのかとも思う。その名前の由来には諸説あるようだが、花を鼓に見立てて、「たん・ぽんぽん」という擬音から来ているという説など興味深い。野原いっぱいに咲く明るさにも、都会のわずかな土に根付いて咲く一輪にも、色といい形といい、春の太陽が微笑んでいる。掲句のたんぽぽは、おそらく二、三輪だろう。たんぽぽの明るさに対して、下五の、焦土かな、は暗く重い。焦土と化した原因は、戦争のようにも読めるが、作者は神戸在住、この句が詠まれたのは1995年の春。焦土の原因は、阪神・淡路大震災である。昨日まで目の前にあった日常の風景が、何の前触れもなく突然失われてしまう天災は、戦争とはまた違った傷を残すのかもしれない。たんぽぽの黄は、希望の春の象徴であり、その色彩を黒々とした土がいっそうくっきりと見せている。中七と下五の間合に、深い悲しみがある。「ああ生きてをり」と題された連作は〈春立ちぬ春立ちぬああ生きてをり〉で締めくくられている。「協会賞・新人賞作品集」(1999・日本伝統俳句協会編)所載。(今井肖子)


February 2522007

 紙風船紙の音してふくらみぬ

                           伏見清美

風船といえば、まず思い浮かべるのは、掌ではねて幾度も空へ打ち上げられる図です。その図から、未来への希望や願い事、あるいは空の大きさへと連想はつながります。この句が新鮮に感じられるのは、そういった誰しもが持つ感覚ではなく、もっと手前の視点から風船を描いているからです。季語は風船、やわらかく膨らむ春です。作者は、空に打ち上げられる前の段階に目を留めます。三日月形の、折りたたまれた色鮮やかな平面が、じょじょに立体へと変化して行く過程を描こうとしています。それも見た目ではなく、「紙の音して」と、聴覚を持ち出すところは、なるほど見事と思います。この句を読めば皆、耳の奥に、紙が自分の身を広げてゆくときの、伸び上がるような音を聞くはずです。空へ飛び上がる前に、紙風船はまず、自分自身の中に空を広げます。紙風船に顔を近づけて、思い切り息を吹き込んでいるのは、風船のように頬の柔らかな幼児でしょうか。玄関には富山の薬売りが坐って、大きな風呂敷の結び目をほどいています。紙風船は素敵に胸をときめかすおまけでした。母親の後ろで、紙風船がいつもらえるかと待っている子供の姿が、思い出の中にはっきりと見えます。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2622007

 桃の日の襖の中の空気かな

                           正木ゆう子

の週末は桃の節句だ。昨日の日曜日を利用して、雛飾りをすませたというご家庭も多いだろう。私は男兄弟ばかりだったので、雛祭りとは無縁だった。我が家には娘が二人生まれたのだけれど、小さい頃からの人形嫌い。雛に限らず、人形を見せられると、おびえてよく泣いたものである。人間そっくりなところが、とても不気味だったようだ。そんなわけで、我が家には雛がない。逆に私は好きなほうだから、デパートなどに飾ってあるとつい見入ってしまう。近所の図書館ではこの時期に毎年何対かを飾ってくれるので、必ず見に行く。デパートや図書館には、むろん襖(ふすま)はないのだけれど、しかし揚句の作者の心の動きは想像できるつもりだ。雛を飾った部屋に流れる優しく暖かい雰囲気に、襖の中の空気までが呼応して息づいていると言うのである。襖の中のことなどは、普段は気にもとめないものだが、やはりそういうところにまで気持ちが動くというのは、飾られた雛がおのずから醸し出す非日常的で華やかな空間意識のせいだろう。この句、受け取りようによってはなかなかになまめかしくもあると思った。「俳句」(2007年3月号)所載。(清水哲男)


February 2722007

 雛飾る向ひ合はせにしてみたり

                           喜田礼以子

い頃、客間に飾られる雛人形は、自由に触ったり、ましてやお雛さまを使っての人形遊びなど堅く堅く禁じられていた。人形といえども、いつも手にするリカちゃん人形などとは一線を画す、ひたすら眺めるだけの存在だった。自分のものだというのに「お道具を失したら大変」「お顔を汚したら大変」と、そっと飾り、そっと仕舞われ、一番楽しそうな部分は一切子供が関わることができない大人の行事のように感じていたものだ。掲句の作者は、母の立場で雛壇を飾っているのだろう。ようやく自由に雛人形を手に取れるようになった今、そっと昔の夢を果たしているのではないだろうか。本来若い夫婦であるはずの男雛と女雛を、向かい合わせにしてみたのは、作者のなかにじっと潜んでいた少女の自然な動作であろう。たとえ叱られる存在などいまやいないと分かっていても、どこかに悪いことをしているような気分もにじませながら、人形遊びをしていた頃の呼吸を思い出し、「はじめまして」などと呟かせてもみるのである。『白い部屋』(2006)所収。(土肥あき子)


February 2822007

 老猫のひるね哀れや二月尽

                           網野 菊

間も高齢になると、ほとんど終日寝ていることが多いようだ。寝足りないわけではないのだろうが、昼となく夜となく睡眠状態がつづく。(八十八歳になる私の母などは「眠れない」と嘆きながらも、けっこう寝入っていたりする。)「猫」は「寝る子」からきたとも言われるけれど、たしかに猫は寸暇を惜しむがごとくのべつ寝ている。まして老猫ともなれば、なおのこと。猫は夜に鼠の番をするために昼は寝ているのだ、と祖父が子供の私にまことしやかに教えてくれたことがあった。では、鼠の番をする必要のない今どきの猫は寝る必要はあるまい。赤ちゃんの昼寝も仔猫の昼寝も、手放しで可愛いけれど、老人や老猫の昼寝は可愛いというよりも、どこかしら哀れが漂う。しかも二月の終わりである。それとなく春の気配が感じられ、日も長くなってきているとはいえ、「老」「哀」「尽」の並びが感慨ひとしおである。猫は二月尽も三月尽も関係なく昼寝をしているわけだし、それを「哀れ」とか「可愛い」とか受けとめるのは人間の勝手だが、老猫の姿にことさら「哀れ」を濃く感じて、作者は「二月尽」と取り合わせてみせた。春先ゆえの「哀れ」である。若い人は、網野菊という女流作家をあまりご存じないだろう。志賀直哉に師事した私小説作家で、もう三十年前に亡くなった。「クリンとしたおばあちゃん」といった印象を私は遠くから抱いていた。結婚生活は幸せではなかった。彼女の「ガラス戸に稲妻しきり独り居る」という句も、どこやら淋しそうだ。女流作家で俳句を作ったのは、他に岡本かの子、円地文子、中里恒子、ほか何人もいる。なかでも吉屋信子は本格的に俳句修業をした。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)




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