午後「俳句界」四月号のために大串章と対談。行き当たりばったりの楽しさが出れば。(哲




2007ソスN2ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0522007

 洞窟はモンシロチョウを放しけり

                           松原永名子

ンシロチョウは、まだ蛹(さなぎ)のままで冬眠中だろう。これがどこからともなくヒラヒラ舞い出てくると、春来たるの実感が湧く。この句、そのどこからかを「洞窟」からと特定したところが面白い。良いセンスだ。情景としては洞窟のあたりにモンシロチョウが飛んでいるだけなのだが、冬の間はじいっと洞窟が囲い込んでいたチョウを、陽気が良くなってきたのを見定めたかのように、「もう大丈夫だよ」と、ようやく表に放してやったと言うのである。このときに、洞窟は温情あふれる生き物と化している。真っ暗な空間が抱え込んでいた真っ白(厳密には斑点があるので純白とはちがうけれど)なモンシロチョウ。想像するだけで、この色彩の対比も鮮やかである。この対比が鮮やかだから、読者は句のどこにも書かれていない春の陽光の具合や洞窟周辺の草木や花々の色彩にまでイメージを膨らますことができるというわけだ。余談になるが、日本のモンシロチョウは奈良時代に、大根の栽培と共に移入されたと考えられているそうだ。ひょっとすると大昔には、本当にモンシロチョウは洞窟が放すものと思っていた人がいたかもしれない。俳誌「花組」(2006年・第31号)所載。(清水哲男)


February 0422007

 春浅し引戸重たき母の家

                           小川濤美子

年は暖冬ですが、暦の上では今日が立春、本日からが「春」です。掲句、季語は「春浅し」。まだまだ寒さの残る時期を指しています。「母の家」とありますが、たしかに実家といえば母親の姿が思い浮かびます。悲しいかな父親というのは、家の中では影の薄い存在です。この句を、まさにわが事のように感じる読者は多いだろうと思います。わたしの母も85歳で健在ですが、数年前までは元気に歩き回っていたものが、最近、急に足腰が弱ってきました。そういう日が来ることは当たり前であり、うろたえてはいけないとは思うものの、部屋の中での移動も難渋している様子を見るにつけ、たまらない思いを抱いてしまいます。実家は木造の、ごくありふれた作りの小さな家です。いつ行っても同じ匂いがします。何年たっても同じものが同じところに置いてあります。そのことにほっとするのです。引戸が重いのは、建付けの悪さから来ているものか、単に古くなったせいなのか。たしかに、マンションのサッシのように滑らかには動きません。がたんがたんと引戸に力を込める手は、容易に前に進もうとしません。その重さは、どこか、母の背負ってきた時間の重さのようにも感じられます。それでもやっと開け放てば、外は驚くほどの明るい日差しです。「お母さん、もうこんなに春の光ですよ」。『角川大歳時記 春』(2007・角川書店)所載。(松下育男)


February 0322007

 入学試験子ら消ゴムをあらくつかふ

                           長谷川素逝

日二月三日は節分、暦の上では今日まで冬。一方、この句の季題、入学試験は春季、虚子編歳時記では、入学の傍題で四月のページにある。しかし、私が勤務する学校も含め、現在東京の私立中学の入学試験の日程は、二月一日から三日に集中している。それゆえ、たいてい採点が終わってヘトヘトになって豆を撒く羽目になるのだ。私の担当教科は数学なので、入試では算数を採点するが、消しゴム使用率が高い教科のひとつではないかと思う。日常の定期試験でも、点数をつけながらめくっていくと、必ず消しゴムのかすが挟まった答案が何枚かある。たいてい、途中で行き詰まって焦っているわけで、白紙部分が多い。それでも一生懸命考えている顔を思い浮かべ、複雑な気持ちでそのかすをぱらぱらと払い、時には勢い余って破れた答案に裏からテープを貼る。ましてや入学試験の場合、相手は小学六年生、たいてい十歳前後から塾に通っている。消しゴムのかすが挟まった、白紙部分の多い答案の見知らぬその子は、中学受験算数とはどうにもそりが合わなかったのだ、気の毒である。長谷川素逝(そせい)は、旧制甲南中学、高等学校に勤務していたので、入学試験監督をしていての一句と思われる。大試験、受験子、などと言わずに、入学試験(の)子ら、と日常語で表現したことで臨場感が増すと共に、消ゴム、という具体物に焦点を当てたことにより、彼等の表情をも見せている。『ホトトギス虚子と100人の名句集』(2004・三省堂)所載。(今井肖子)




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