春愁というほど高級なものではないが、なんとなく鬱っぽい。月曜日だ、元気を出して。(哲




2007ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922007

 手に受けて少し戻して雛あられ

                           鷹羽狩行

誌にこの作者の句が載っていると、必ず真っ先に読む。何でもないような些事をつかまえる名手ということもあるが、単に巧いというだけではなく、句の底にはいつも暖かいものが流れていて、そこにいちばん魅かれているからだ。とくに心弱い日には、大いに癒される。揚句でも、まさに何でもない所作を詠んでいるだけだが、作句の心根がとても優しく温かい。雛あられを受けるときには、自然に両掌を差し出す。こぼしてはいけないという配慮の気持ちもあるのだけれど、そこには同時に人から物をいただくときの礼儀の気持ちが込められている。すると領け手の側は、その礼儀に応えるようにして、これまた自然な気持ちから両掌いっぱいに雛あられを注ぐのである。そういうことは句のどこにも書かれてはいないが、「少し戻して」という表現から、読者はあらためてこの日常的な礼節の交感に気づかされ、そこに何とも言えない暖かさを感じ取るというわけだ。ひとつも拵え物の感じがしない、こねくりまわしていない。けれども、人のさりげない所作の美しさにまで、きちんと錘がおりている。天賦のセンスの良さがそうさせたのだと言うしか、ないだろう。掲載誌より、もう一句。<まんさくの一つ一つの片結び>。「俳句研究」(2007年3月号)所載。(清水哲男)


February 1822007

 春一番今日は昨日の種明かし

                           上田日差子

でに先週の水曜日に、春一番が吹いた地域も多いかと思います。季語はもちろん「春一番」。立春を過ぎてから初めて吹く強い南寄の風のこと、と手元の歳時記にはあります。「一番」という言い方が自信に満ちていて、明るい方向へ向かう意思が感じられます。春になり、日に日に暖かくなってゆくこの季節に、種明かしされるものとは、命の源であるのでしょうか。「種明かし」という語が本来持っている意味よりも、「種」と「明かす」という語に分ければ、未来へ伸びやかに広がり続けるイメージがわいてきます。昨日蒔かれた種の理由が、今日あきらかにされます。次々と花ひらく今日という日を、わたしたちは毎年この季節に、驚きをもって迎えいれます。「風」も「時」も、こころなしかその歩みをはやめてゆくようです。その歩みに負けじと歩き出すと、顔に心地よく「春一番」がぶつかってきます。余韻をもった句や、潜められた意味を持った句も魅力的ではありますが、この句のように隅々まで明るく、意味の明快な句は、それはそれで堂々としていて、わたしは好きです。よけいなことながら、作者の名からも、あたたかな日が差し込んでくるようです。『現代歳時記』(1998・成星出版)所載。(松下育男)


February 1722007

 野火ふえて沼の暦日俄かなる

                           石井とし夫

べりの春の到来を端的に教えてくれるのが野火のけむりである、と句集末尾の「印旛沼雑記」にある。「総じて野焼き、野火と言っているが小野火、大野火、夕野火、夜野火等々野火にも畦火にもその時々に違った趣がある」とも。印旛沼(いんばぬま)は千葉県北西部に位置し、その大きさは琵琶湖の約六十分の一、内海がふさがって沼となって千年という。作者はこの印旛沼と利根川に挟まれた町で生まれ育ち、その句は、句作を始めた二十代から八十三歳になられる現在まで、ずっと四季折々の沼の表情と共にある。野焼きは、早春に野の枯れ草などを焼くことで、野火はその火。木枯しに洗われて青く張りつめていた空が少し白く濁り、風もゆるんでくる頃、遠くに野焼きのけむりが立ち始める。枯れた田や畦を焼き、沼周辺の枯蘆を焼き、農耕や漁に備えるそのけむりが増えてくることに、作者は春の胎動を感じている。中七下五の省略のきいた表現が、春に始まる沼の暮らしが俄かに動き出す、と言った意味ばかりでなく、冬の間は水鳥を浮かべ眠っている、沼の静けさをも感じさせる。〈沼の雑魚良夜に育ちをるならむ〉〈鳰沈みひとりひろがりゐる水輪〉〈梅一枝抱かせて妻の棺を閉づ〉そこにはいつも、穏やかで愛情深い確かな眼差しがある。『石井とし夫句集』(1996)所収。(今井肖子)




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