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February 2222007

 春光や家なき人も物を干す

                           和田 誠

光は春の訪れを告げ、物みな輝かす明るさを持った光。まだ寒く冷たい風が吹き荒れる日も多いけど、黒い古瓦に照り返す日差しがまぶしい。小学生のときに読んだ『家なき子』は少年レミが生き別れた親を探す話だったが、現在の「家なき人」は住みどころなく仮住まいを余儀なくされている人たちだろう。公園の片隅や川の土手にありあわせの材料で小屋を建てる。多重債務。家庭崩壊。病気。失職。自ら競争社会に見切りをつけた人もいるかもしれない。酷薄な福祉環境へ変わりつつある今の日本では明日どんな運命が待ち構えているかわかったものではない。ホームレスではなく「家なき人」と表現したところに既成の言葉に寄りかからない作者の見方が表れているように思う。仮住まいをしている人たちにも生活がある。春の光があふれる公園で、冬の間に湿った蒲団を干し、ありったけの服を洗濯する。何年前だったか、とある春の午後、隅田川の土手に仮住まいをしているおじさんが家財道具を干し出したそばの椅子に腰掛け、上流に向う水上バスにしきりに手を振っているのを見たことがある。水上バスのデッキに出ている人達も笑顔で手を振り返す。春日はきらきらと隅田川の川面に光り、手を振る人も白い水上バスも景色の中に輝いて見えた。『白い嘘』(2002)所収。(三宅やよい)


November 25112007

 檸檬抛り上げれば寒の月となる

                           和田 誠

檬の季語は秋ですが、ここでは、抛り上げられた空の季節、つまり冬の句とします。果物を抛り上げる図というと、わたしはどうしてもドラマ「不ぞろいの林檎たち」のタイトルバックを思い出します。また、「檸檬」という語からは、高村光太郎の「レモン哀歌」が思い出されます。そしてどちらの連想からも、甘く、せつない感情がわいてきます。句は、そのような感傷的なものを排除して、見たままを冷静に描いています。ドラマや詩とは違う、俳句というものの表現の直接性が、潔く出ているように思います。檸檬を月に見たてることには、たしかに違和感はありません。こぶりな大きさと、あざやかな黄色、また硬質で起伏のある質感は、形こそいびつではありますが、月を連想させるには充分すぎるほどの条件を備えています。抛り上げる「動き」と、上空でとまった時の「静止」。レモンの明るい「黄色」と、夜空の暗い「黒」。手で触れつかむことができる檸檬と、けっして手には触れることのない上空の月。これらの対比が効果的に、句の中に折りこまれています。そういえば、食べかけのレモンを聖橋から捨てる、という歌がありました。掲句のすっきりとしたたたずまいにもかかわらず、私の思いはどうしても、そんな湿った情感に向かってしまいます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


March 0432009

 人形も腹話術師も春の風邪

                           和田 誠

どもの頃、ドサまわりの演芸団のなかにはたいてい腹話術も入っていて、奇妙といえば奇妙なあの芸を楽しませ笑わせてくれた。すこし生意気な年齢になると、抱っこされて目をクリクリ、口パクパクの人形の顔もさることながら、腹話術師の口元のほうに目線を奪われがちだった。なんだ、唇がけっこう動いているじゃないか、ヘタクソ!とシラケたりしていた。腹話術師は風邪を引いたからといって、舞台でマスクをするわけにはいかないから、人形にも風邪はうつってしまうかもしれない。絶対にうつるにちがいない、と考えると愉快になる。――そんな妄想を、否応なくかきたててくれるこの句がうれしい。冬場の風邪ではなく、「春の風邪」だからそれほど深刻ではないし、どこかしらちょいと色気さえ感じられる。そのくせ春の風邪は治りにくい。舞台の両者はきっと明かるくて軽快な会話を楽しんでいるにちがいない。ヨーロッパで人形を使った腹話術が登場したのは、18世紀なかばとされる。イラストだけでなく、しゃれた映画や、本職に負けない詩や俳句もこなすマルチ人間の和田さん。通常言われる「真っ赤な嘘」に対し、他愛もない嘘=「白い嘘」を句集名にしたとのこと。ことばが好きであることを、「これは嘘ではありません」と後記でしゃれてみせる。ほかに「へのへのと横目で睨む案山子かな」という句も楽しい。虚子の句に「病にも色あらば黄や春の風邪」がある。『白い嘘』(2002)所収。(八木忠栄)


January 0312013

 ひろげれば版の香りや絵双六

                           和田 誠

版刷りの双六だろうか。私が小さいころにはこんな古風な双六はもうなかったように思う。流行はじめた漫画の主人公を題材にした付録の双六が兄たちが購読していた月刊雑誌の付録についていて、そのお相伴をさせてもらった。もう少し後の世代になると「人生ゲーム」や「モノポリー」だろうか。久しぶりに顔を合わす従妹たちと炬燵に集まって双六式のゲームをしたのは楽しい思い出だ。グーグルで絵双六を検索すると戦前の双六には趣向を凝らした絵柄のものがたくさんある。四つ折りにした絵双六を広げると真新しいインクの匂いがしたことだろう。「版の香り」が正月のすがすがしさと呼応して目の前に広げられる絵双六の華やかな絵柄を想像させる。うちの子供たちが正月に帰省したときはテレビの前に集まって「スーバーマリオ」に打ち興じていたけど、この頃の子供たちの遊びは何なのだろう。久しぶりに家族でゲーム版を広げてゲームというのも正月らしくていいかもしれないですね。『白い嘘』(2002)所収。(三宅やよい)


February 2522015

 春待つや寝ころんで見る犬の顔

                           土屋耕一

だ寒さは残っているが、暖かい春を待つ無聊といった体であろう。忙しい仕事の合間の時間がゆったり流れているようだ。下五は「妻の顔」でも「おやじの顔」でもなく、「犬の顔」であるところに素直にホッとさせられる。耕一は犬が好きだったのだろうか。この句をとりあげたのには理由がある。よく知られている「東京やなぎ句会」とならんで、各界の錚々たる顔ぶれが集まった「話の特集句会」があることは知っていた。現在もつづいている。そのリーダー・矢崎泰久の新著、句会交友録『句々快々』を愉快に読んだ。同句会は1969年1月に第一回が開催されている(「東京やなぎ句会」も同年同月にスタート)。そのとき兼題は五つ出され、「春待つ」はその一つ。耕一はコピーライターで、回文の名手で知られた。例えば回文「昼寝をし苦悩遠のく詩を練る日」もその一つ。回文集のほか、句集に『臨月の桃』がある。俳号は「柚子湯」(回文になっている)。第一回のとき、同じ兼題で草森紳一「長いカゼそれっ居直って春待たん」、和田誠「春を待つ唄声メコンデルタの子」他がならんでいて賑やかだ。この日の耕一には「ふり向けばゐるかも知れず雪女郎」の句も(こちらは兼題「雪女郎」)ある。『句々快々』(2014)所載。(八木忠栄)




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