割り箸の大部分は中国製だそうな。最近値上がりして、コンビニでも有料化の動き。(哲




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February 2822007

 老猫のひるね哀れや二月尽

                           網野 菊

間も高齢になると、ほとんど終日寝ていることが多いようだ。寝足りないわけではないのだろうが、昼となく夜となく睡眠状態がつづく。(八十八歳になる私の母などは「眠れない」と嘆きながらも、けっこう寝入っていたりする。)「猫」は「寝る子」からきたとも言われるけれど、たしかに猫は寸暇を惜しむがごとくのべつ寝ている。まして老猫ともなれば、なおのこと。猫は夜に鼠の番をするために昼は寝ているのだ、と祖父が子供の私にまことしやかに教えてくれたことがあった。では、鼠の番をする必要のない今どきの猫は寝る必要はあるまい。赤ちゃんの昼寝も仔猫の昼寝も、手放しで可愛いけれど、老人や老猫の昼寝は可愛いというよりも、どこかしら哀れが漂う。しかも二月の終わりである。それとなく春の気配が感じられ、日も長くなってきているとはいえ、「老」「哀」「尽」の並びが感慨ひとしおである。猫は二月尽も三月尽も関係なく昼寝をしているわけだし、それを「哀れ」とか「可愛い」とか受けとめるのは人間の勝手だが、老猫の姿にことさら「哀れ」を濃く感じて、作者は「二月尽」と取り合わせてみせた。春先ゆえの「哀れ」である。若い人は、網野菊という女流作家をあまりご存じないだろう。志賀直哉に師事した私小説作家で、もう三十年前に亡くなった。「クリンとしたおばあちゃん」といった印象を私は遠くから抱いていた。結婚生活は幸せではなかった。彼女の「ガラス戸に稲妻しきり独り居る」という句も、どこやら淋しそうだ。女流作家で俳句を作ったのは、他に岡本かの子、円地文子、中里恒子、ほか何人もいる。なかでも吉屋信子は本格的に俳句修業をした。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


February 2722007

 雛飾る向ひ合はせにしてみたり

                           喜田礼以子

い頃、客間に飾られる雛人形は、自由に触ったり、ましてやお雛さまを使っての人形遊びなど堅く堅く禁じられていた。人形といえども、いつも手にするリカちゃん人形などとは一線を画す、ひたすら眺めるだけの存在だった。自分のものだというのに「お道具を失したら大変」「お顔を汚したら大変」と、そっと飾り、そっと仕舞われ、一番楽しそうな部分は一切子供が関わることができない大人の行事のように感じていたものだ。掲句の作者は、母の立場で雛壇を飾っているのだろう。ようやく自由に雛人形を手に取れるようになった今、そっと昔の夢を果たしているのではないだろうか。本来若い夫婦であるはずの男雛と女雛を、向かい合わせにしてみたのは、作者のなかにじっと潜んでいた少女の自然な動作であろう。たとえ叱られる存在などいまやいないと分かっていても、どこかに悪いことをしているような気分もにじませながら、人形遊びをしていた頃の呼吸を思い出し、「はじめまして」などと呟かせてもみるのである。『白い部屋』(2006)所収。(土肥あき子)


February 2622007

 桃の日の襖の中の空気かな

                           正木ゆう子

の週末は桃の節句だ。昨日の日曜日を利用して、雛飾りをすませたというご家庭も多いだろう。私は男兄弟ばかりだったので、雛祭りとは無縁だった。我が家には娘が二人生まれたのだけれど、小さい頃からの人形嫌い。雛に限らず、人形を見せられると、おびえてよく泣いたものである。人間そっくりなところが、とても不気味だったようだ。そんなわけで、我が家には雛がない。逆に私は好きなほうだから、デパートなどに飾ってあるとつい見入ってしまう。近所の図書館ではこの時期に毎年何対かを飾ってくれるので、必ず見に行く。デパートや図書館には、むろん襖(ふすま)はないのだけれど、しかし揚句の作者の心の動きは想像できるつもりだ。雛を飾った部屋に流れる優しく暖かい雰囲気に、襖の中の空気までが呼応して息づいていると言うのである。襖の中のことなどは、普段は気にもとめないものだが、やはりそういうところにまで気持ちが動くというのは、飾られた雛がおのずから醸し出す非日常的で華やかな空間意識のせいだろう。この句、受け取りようによってはなかなかになまめかしくもあると思った。「俳句」(2007年3月号)所載。(清水哲男)




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