岩合徳光、飯田龍太、高松英郎。桜も間近き春なれど、人は逝くもの……。悼。(哲




2007ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132007

 早春の空より青き貨物船

                           岡本亜蘇

先の明るい空よりもっと青い色の貨物船だ。普通に読めば、早春の貨物船を描写した句に思える。しかし、「〜より」を比較ではなく、経由を表す「〜から」の意味で読むと、光あふれる早春の空からまっさおな貨物船がふわふわ舞い降りる不思議な光景が出現する。波止場に横付けになった船の色を即物的に詠んだ句としてもすがすがしい春の季感が感じられるが、別の角度からの読みもまた面白い。貨物船は巨大な胴体に荷物を積んで運搬する船。瀟洒な客船に較べ図体も大きく動きも鈍い。そんな船が軽々と空を渡って岸壁に接岸するシーンを想像するだけで楽しい。生まれ育った神戸では校舎の屋上から、沖に停泊するタンカーが霞んで見えた。カメラを提げて波止場を走り回る少年達は、コンテナや泥臭い運搬船には眼もくれなかったが、紺の船体に赤のラインが入ったスマートなデザインの英国の貨物船は、純白の客船に劣らぬ人気を集めていた。今も神戸の埠頭に豪華客船は入港してくるけど、商船大学は廃止になり、街を闊歩する外国船員の姿も少なくなった。そうした現実を思うとき、青い貨物船と早春の空のみずみずしい取り合わせが、過ぎ去った海運の時代への郷愁をも引き寄せるように感じられる。『西の扉』(2005)所収。(三宅やよい)


February 2822007

 老猫のひるね哀れや二月尽

                           網野 菊

間も高齢になると、ほとんど終日寝ていることが多いようだ。寝足りないわけではないのだろうが、昼となく夜となく睡眠状態がつづく。(八十八歳になる私の母などは「眠れない」と嘆きながらも、けっこう寝入っていたりする。)「猫」は「寝る子」からきたとも言われるけれど、たしかに猫は寸暇を惜しむがごとくのべつ寝ている。まして老猫ともなれば、なおのこと。猫は夜に鼠の番をするために昼は寝ているのだ、と祖父が子供の私にまことしやかに教えてくれたことがあった。では、鼠の番をする必要のない今どきの猫は寝る必要はあるまい。赤ちゃんの昼寝も仔猫の昼寝も、手放しで可愛いけれど、老人や老猫の昼寝は可愛いというよりも、どこかしら哀れが漂う。しかも二月の終わりである。それとなく春の気配が感じられ、日も長くなってきているとはいえ、「老」「哀」「尽」の並びが感慨ひとしおである。猫は二月尽も三月尽も関係なく昼寝をしているわけだし、それを「哀れ」とか「可愛い」とか受けとめるのは人間の勝手だが、老猫の姿にことさら「哀れ」を濃く感じて、作者は「二月尽」と取り合わせてみせた。春先ゆえの「哀れ」である。若い人は、網野菊という女流作家をあまりご存じないだろう。志賀直哉に師事した私小説作家で、もう三十年前に亡くなった。「クリンとしたおばあちゃん」といった印象を私は遠くから抱いていた。結婚生活は幸せではなかった。彼女の「ガラス戸に稲妻しきり独り居る」という句も、どこやら淋しそうだ。女流作家で俳句を作ったのは、他に岡本かの子、円地文子、中里恒子、ほか何人もいる。なかでも吉屋信子は本格的に俳句修業をした。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


February 2722007

 雛飾る向ひ合はせにしてみたり

                           喜田礼以子

い頃、客間に飾られる雛人形は、自由に触ったり、ましてやお雛さまを使っての人形遊びなど堅く堅く禁じられていた。人形といえども、いつも手にするリカちゃん人形などとは一線を画す、ひたすら眺めるだけの存在だった。自分のものだというのに「お道具を失したら大変」「お顔を汚したら大変」と、そっと飾り、そっと仕舞われ、一番楽しそうな部分は一切子供が関わることができない大人の行事のように感じていたものだ。掲句の作者は、母の立場で雛壇を飾っているのだろう。ようやく自由に雛人形を手に取れるようになった今、そっと昔の夢を果たしているのではないだろうか。本来若い夫婦であるはずの男雛と女雛を、向かい合わせにしてみたのは、作者のなかにじっと潜んでいた少女の自然な動作であろう。たとえ叱られる存在などいまやいないと分かっていても、どこかに悪いことをしているような気分もにじませながら、人形遊びをしていた頃の呼吸を思い出し、「はじめまして」などと呟かせてもみるのである。『白い部屋』(2006)所収。(土肥あき子)




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