高校三年時の担任だった友野正雄先生の訃報。思い出とともに18歳だった頃の心情に。(哲




2007ソスN3ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0832007

 卒業や楊枝で渡すチーズの旗

                           秋元不死男

業式後の謝恩会だろうか。卒業生同士ではなく、クラスの担任かゼミの教授か、年配の社会人から卒業生にチーズの旗をひょいと手渡している雰囲気がある。「旗」と言っても、お子様ランチのてっぺんにある日の丸のようなものではなく、爪楊枝にチーズを刺しただけのものをおどけて表現しているのだろう。旗を渡す行為は、今度は君の番だよ、と今まで自分が負っていた役目を託すことでもある。オリンピックの閉会式で次の開催地へと旗を渡すシーンが象徴的だ。人生の先輩から後輩へ渡す旗が大きなフラッグではなくちっちゃなチーズの旗なのだ。学生生活を終え前途洋々の未来へ胸ふくらます卒業生へ「人生に過大な期待を持つなよ、ほどほどにな。」と、浮き立つ心を現実に引き戻すと同時に「おめでとう」と、華やかな祝福をも滲ませる演出が心憎い。このあたりに不死男特有の苦味あるウィットが感じられる。「不死男の句はどこか漢方薬の入った飴のような味わいがあり、それを人生の地味といえるならまさしくこれは新しい人生派の境地と称していいかも知れない。」と朝日文庫の解説で中井英夫が評しているとおり、不死男の句は後からじんわり効いてくるのだ。『永田耕衣・秋元不死男・平畑静塔集』(1985)所収。(三宅やよい)


March 0732007

 色町や真昼しづかに猫の恋

                           永井荷風

風と色町は切り離すことができない。色町へ足繁くかよった者がとらえた真昼の深い静けさ。夜の脂粉ただよう活況にはまだ間があり、嵐(?)の前の静けさのごとく寝ぼけている町を徘徊していて、ふと、猫のさかる声が聞こえてきたのだろう。さかる猫の声の激しさはただごとではない。雄同士が争う声もこれまたすさまじい。色町の真昼時の恋する猫たちの時ならぬ争闘は、同じ町で今夜も人間たちが、ひそかにくりひろげる〈恋〉の熱い闘いの図を予兆するものでもある。正岡子規に「おそろしや石垣崩す猫の恋」という凄い句があるが、「そんなオーバーな!」と言い切ることはできない。永田耕衣には「恋猫の恋する猫で押し通す」という名句がある。祖父も曽祖父も俳人だった荷風は、二十歳のとき、俳句回覧紙「翠風集」に初めて俳句を発表した。そして生涯に七百句ほどを遺したと言われる。唯一の句集『荷風句集』(1948)がある。「当世風の新派俳句よりは俳諧古句の風流を慕い、江戸情趣の名残を終生追いもとめた荷風の句はたしかに古風、遊俳にひとしい自分流だった」(加藤郁乎『市井風流』)という評言は納得がいく。「行春やゆるむ鼻緒の日和下駄」「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」――荷風らしい、としか言いようのない春の秀句である。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


March 0632007

 美と言ひしままの唇雛かな

                           石母田星人

く片付けないとお嫁に行けなくなる、などというナンセンスな理由が現在もまかり通り、早めに出され早々に仕舞われる雛人形であるが、最近は立春に飾り、啓蟄の本日片付けることが多いそうだ。さらに忠実なる場合には、この日に手が付けられない場合には、雛人形たちを後ろ向きにすると、「眠られた」「お帰りになった」という意味を持ち、片付けたことと同様になるのだというが、全員後ろ向きの雛壇とは、さながらホラー映画を思わせる光景であろう。もともと、雛人形という時代がかった姿かたちは、日常とは全く別次元の美しさであることから、そこにはわずかな恐ろしさも含んでいる。人形の唇がうっすらと開いており、そこに米粒よりちいさな白い歯が並んでいることに気づいたのは、ずいぶん小さな時分であったが、そのとき可愛らしいとは対極のはっきりとした恐怖を感じたことを覚えている。確かに口元は掲句の通り「び」という形である。濃い紅に塗られた唇が、口角をひょいと上げ「び」と言いかけた形で固まっている。多くの家庭で今年のお役目が終わり、来年の立春まで、長く暗闇のなかでふたたび暮らす雛人形たち。てんでに納戸の隅に積まれた木箱のなかで、薄紙に包まれて何かを呟いているのだと思うと、それはふと「さびしい」の「び」なのかもしれない、と思うのだ。『濫觴』(2004)所収。(土肥あき子)




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