気象庁のデータ入力ミスで開花予想日が間違ったって? 何やってんだ、…ったく。(哲




2007ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532007

 あたらしき鹿のあしあと花すみれ

                           石田郷子

らがなの表記と軽やかなア音の韻律がきれいだ。春の鹿と言えば、その語感から柔らかでふくよかな姿を思い浮かべるが、「美しい秋の鹿とくらべてきたなく哀れなものが春の鹿である」(平井照敏『新歳時記』)と歳時記の記述にある。実際のところ、厳しい冬を乗り越えたばかりのこの時期の鹿はやつれ、脱毛したみじめな姿をしているようだ。調べてみて自分の思い込みと現実のずれに少しとまどいを感じた。鹿といえば観光地や動物園にいる人馴れした姿しか思い浮かばないが、掲句の鹿は容易に人前に姿を見せない野性の鹿だろう。「あたらしき」という形容に、朝まだ早き時間、人の立ち入らぬ山奥を風のように駆け抜けて行った生き物の気配と、土に残るリズミカルな足跡を追う作者の弾む心が感じられる。そこからイメージされる鹿の姿は見えないだけにしなやかで神秘的な輪郭を持って立ち上がってくる。山に自生するすみれは長い間庭を彩るパンジーと違って、注意していないと見過ごしてしまうぐらい小さくて控えめな花。視線を落として「あしあと」を追った先で出会った「花すみれ」は鹿の蹄のあとから咲き出たごとく、くっきりと作者の目に映えたのだろう。シンプルな言葉で描き出された景から可憐な抒情が感じられる句である。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)


March 1432007

 襟あしの黒子あやふし朧月

                           竹久夢二

ちろん女性のしろい襟あしにポチリとある黒子(ほくろ)である。本人は気づいているのだろうが、本人の目には届きにくい襟あしに忘れられたように、とり残されたようについているほくろは、この場合、美人の条件の一つとして設定されていると言っていい。まだ湿気を多く含んだ春の夜にぼんやりかすむ朧月は、満月や三日月のようなくっきりとした美しさとは別の妖しさがしっとり感じられる。夜空ににじんでいるような朧月と、襟あしにポチリと目立つほくろの取り合わせは憎い。そんな絵が夢二にあったような気がする。明治から大正にかけて、美人画で一世を風靡した夢二ならではの、女性に対する独自のまなざしがある。目の前にあるほくろと、夜空に高くかすむ月。両者を結ぶ「あやふし」は、ほくろを目の前にした作者のこころがたち到っている「あやふさ」でもあるだろう。その情景はいかようにも設定し、解釈できよう。美人が黒猫を抱いている代表作「黒船屋」も妖しい絵だけれど、夢二は浪漫的な美人画ばかりでなく、子供の絵もたくさん残した。詩や俳句も少なくない。夢二の絵そのものを思わせる「舞姫のだらり崩るゝ牡丹かな」という句もある。そんな大人っぽい妖しい句があるいっぽうで、「落書を消しにゆく子や春の月」という健気な句もある。『夢二句集』(1994)所収。(八木忠栄)


March 1332007

 流木は海の骨片鳥帰る

                           横山悠子

鳥が北へと帰る頃になると、わたしの暮らす東京の空にも、黒いすじ雲のような鳥たちの姿を見ることができる。桜の便りと雪の便りが同時に届く今年のような妙な気候では、出立の日を先導するリーダー鳥はさぞかし戸惑っていることだろう。長い旅路は海に出てからが勝負である。空に渡る黒いリボンは、大きくターンするたびに翼の裏の真っ白な羽を見せ、手を振るようにきらきら光りながら、海の彼方へと消えていく。幾千の命を生み、また幾千の命の終焉を見てきた母なる海にとっては、海原の上を通うちっぽけな鳥影も、進化を重ね、わずかに生き延びることができた血肉を分けたわが身であろう。小さな鳥たちの影を、また落としていった幾本かの羽毛を、波はいつまでも愛おしんで包み込む。打ち上げられた流木を波が両手で転がし、惜しむように洗ってゆく。海は大きな揺りかごとなって、いつまでもいつまでもその身を揺らす。太古から存在する海、大樹であった流木の過去、鳥たちの苦難の旅など、掲句はひと言も触れずに、すべてを感じさせている。こうした俳句の読み方は、時としてドラマチックすぎると思われるだろう。しかし、ひとつの流木を見て作者に浮かんだイメージは、十七文字を越えて読者の胸に飛び込んでくる。一句の持つ力にしばし身をまかせ、去来する物語りに身をゆだねることもまた俳句を読む者の至福の喜びなのである。『海の骨片』(2006)所収。(土肥あき子)




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