近所の桜をつくづくと見てみたら、だいぶツボミが膨らんでいました。開花も間近。(哲




2007ソスN3ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1732007

 春愁や心はいつも過去に向く

                           湖東紀子

という字には、草木と同じように秋は人の心も引き締まる、という意味があるという。春愁は、明るい春を迎えているのに、どことなくもの憂い気分になること、とあり、誰もが思い当たる感覚であろう。この、どことなくもの憂い、という感じを一句にするのは難しい。愁いの度が過ぎると、春愁とは言えなくなってくるし、本当にもの憂い気分の時には俳句もうかばない。この句の作者は、春の明るい日差の中で小さくため息をついている。その視線は遠く、彼方の記憶、思い出は濾過されて優しい。過去に向く心には、せっぱ詰まった悩みがあるわけではない。こういう気分になった時そういえばいつもあの頃のことを思い出してるな、と少し離れて自分を見て、ああ、こういう気持が春愁なのかな、と思い当たったのだろう。昨日、今井聖さんの鑑賞文に、「インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか」とあった。本当にそうだ、自戒もこめて。この句の他にいくつか、春愁、の句を読んでいて、何かもやもやした気持になったのは、いかにも春愁らしいでしょ、春愁の感じをとらえているでしょ、という作者の先入観が見えたからなのかもしれない。この句の「いつも」は、心がむく過去が、時代なのか場所なのか人なのかはわからないけれど、何か具体的な大切な思い出という印象を与えている。そしてそんな心の動きをとらえて、明るさを失わない愁いが自然に詠まれている。確かに、心が未来に向いている愁いは、もう少し深刻だろう。『花鳥諷詠』(2000年8月号)所載。(今井肖子)


March 1632007

 初蝶や屋根に子供の屯して

                           飯島晴子

常の中で見たままの風景から感動を引き出すことは、簡単そうに見えて実は一番難しく、それゆえ挑戦しがいのある方法だと僕は思う。一番というのは、俳句のさまざまの手法と比較しての話。僕等は社会的動物だから、先入観を脳の中にインプットされてここに立っている。どんなシーンには感動があって、どんなシーンが「美しい」のか。ホントにホントの「自分」がそう感じ、そう思っているのだろうか。先入観の因子が「ほらきれいだろ」と脳髄に反射的に命令を出してるだけのことじゃないのか。そもそもラッキョウの皮を剥くみたいに、インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか。こういう句を見るとそう思う。屋根に子供がいるだけなら先入観の範疇。あらかじめ準備されたフォルダの中にある。猫が軒を歩いたり、秋の蝶が弱々しかったりするのと同じ。要するに陳腐な類想だ。しかし、「屯して」と書かれた途端に風景の持つ意味は様相を変える。屋根に子供が屯する風景を誰があらかじめ脳の中に溜めておけるだろう。四、五人の子供が屋根の上にいる。考えてみれば、現実に大いに有り得る風景でありながら、である。一日に僕等の目の前に刻々と展開する何千、何万ものシーンから僕等はどうやればインプットされた以外のシーンを切り取れるのか。子規が気づいた「写生」という方法は実はそのことではないのか。この方法は古びるどころか、まだ子規以降、端緒にすら付いていないと僕は思うのですが。『八頭』(1985)所収。(今井 聖)


March 1532007

 あたらしき鹿のあしあと花すみれ

                           石田郷子

らがなの表記と軽やかなア音の韻律がきれいだ。春の鹿と言えば、その語感から柔らかでふくよかな姿を思い浮かべるが、「美しい秋の鹿とくらべてきたなく哀れなものが春の鹿である」(平井照敏『新歳時記』)と歳時記の記述にある。実際のところ、厳しい冬を乗り越えたばかりのこの時期の鹿はやつれ、脱毛したみじめな姿をしているようだ。調べてみて自分の思い込みと現実のずれに少しとまどいを感じた。鹿といえば観光地や動物園にいる人馴れした姿しか思い浮かばないが、掲句の鹿は容易に人前に姿を見せない野性の鹿だろう。「あたらしき」という形容に、朝まだ早き時間、人の立ち入らぬ山奥を風のように駆け抜けて行った生き物の気配と、土に残るリズミカルな足跡を追う作者の弾む心が感じられる。そこからイメージされる鹿の姿は見えないだけにしなやかで神秘的な輪郭を持って立ち上がってくる。山に自生するすみれは長い間庭を彩るパンジーと違って、注意していないと見過ごしてしまうぐらい小さくて控えめな花。視線を落として「あしあと」を追った先で出会った「花すみれ」は鹿の蹄のあとから咲き出たごとく、くっきりと作者の目に映えたのだろう。シンプルな言葉で描き出された景から可憐な抒情が感じられる句である。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)




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