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March 2032007

 さびしくはないか桜の夜の乳房

                           鈴木節子

年もまた花見やら桜祭りやらと何かと気ぜわしい季節となった。満開をやや過ぎた頃の桜が一途に散る様子が好きなので、風の強い日を選んで神田川の桜並木を歩く。毎年恒例の勝手気ままな個人的行事だが、散った花びらが神田川の川面を埋め、それがまるでどこまでも続く桃色の龍のような姿となっていることに気づいてから、この龍と会うのは、たったひとりの時でしかいけないような気がしている。梶井基次郎の『櫻の木の下には』や、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を引くまでもなく、満開の桜には単なる樹木の花を越えた禍々しいまでの美しさがある。桜や蛍など、はかないと分かっている美しいものを見た夜は、誰もが心もとない不安にかられるのだろう。女の身であれば、我が身の中心を確かめるように乳房に手をやってみる。しかし、そんな夜は、確かにこの手がわが身に触れているのに、そこにあたたかい自分の肉体を見つけることができないのだ。指から砂がこぼれてしまうような不安に耐えかね、寝返りを繰り返せば、乳房は右に溢れ、左に溢れ、まるで胸に空いた大きな穴を塞ごうとしているかのように波を打つ。咲き満ちていることの充足と恐怖が、女に寝返りを打たせている。『春の刻』(2006)所収。(土肥あき子)




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