午後から深大寺で観桜会。余白句会と増俳執筆者諸氏の参加。雨よ、止んでくれ。(哲




2007ソスN3ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2532007

 遅き日のつもりて遠きむかしかな

                           与謝蕪村

語は「遅き日」、日の暮れが遅くなる春をあらわしています。毎年のことながら、この時期になると、午後6時になってもまだ外が明るく、それだけでうれしくなってきます。この「毎年」というところを、この句はじっと見つめます。繰り返される月日を振り返り、春の日がつもってきたその果てで、はるかなむかしを偲んでいます。「日」が「積もる」という発想は、今の時代になっても新鮮に感じられます。蕪村がこの発想を得た地点から、日本の詩歌がどこまでその可能性を伸ばすことができたかと、つくづく考えさせられます。叙情の表現とは、しょせん引き継がれ発展するものではなく、あくまでも個人の感性の深さに頼ってしまうものかと思ってしまいます。「つもる」という語から、微細な埃が、春の日の中をきらめいて落ちる様子を思い浮かべます。間違いなく日々は、わたしたちを単に通過するのではなく、丁寧に溜(た)められてゆくようです。冊子のように重ねられた「遅き日」をめくりながら、蕪村がどのような感慨をもったのかについては、この句には描かれていません。読む人それぞれに、受け取り方は違ってくることでしょう。静かに通り過ぎて行った「日」も、あるいは激しい感情に揺れ動いた「日」も、ともに「むかし」にしまわれた、二度と取り出せない大切な「時」の細片なのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 与謝蕪村』(1984・桜楓社)所収。(松下育男)


March 2432007

 輪を描いてつきゆく杖や彼岸婆々

                           河野静雲

岸明けの今日。手元の歳時記の彼岸の項には、この気候のよい時に彼岸会(ひがんえ)と称し、善男善女は寺院に参詣し、祖先の墓参をする、とある。また、彼岸、といえば春彼岸をさし、秋のそれは、秋彼岸、後の彼岸、という。彼岸婆々、は、ひがんばば、であり、彼岸会に来る信心深いお婆さん達、というところか。歳時記の彼岸詣(ひがんまいり)の項にあったこの句は、句集『閻魔』によると昭和八年の作。句集には他に〈腰の手のはだか線香や彼岸婆々〉〈みぎひだり廊下まちがへ彼岸婆々〉〈駄々走り来て小水の彼岸婆々〉など、彼岸婆々の句が多く見られる。作者は、時宗の僧職におられたということなので、どれも実際の彼岸会での光景を詠んだものだろう。掲句は、法要が終わって帰って行く姿である。足腰はもちろん、疲れもあって目もしょぼしょぼしているのか、探りながら杖をついているのだろう。それを後ろから、じっと見つめている作者の眼差しは温かい。生き生きとした描写の数々は、ときにおかしみを伴うが、その根底には、さまざまな苦労を乗り越えて生きてきた彼女達の怒りや涙をも包みこむ愛情が感じられる。それは、僧侶という立場を越えた、人としてのものだろう。ふと、彼岸爺とは言わないものか、と思い読み進めると〈ふところにのぞける経や彼岸翁〉とある。彼岸翁(ひがんおう)か、なんだか高尚な感じだが、つまらなく思えてしまった。いずれにせよ、善男善女とおおらかなご住職とそこに生まれる俳句、それほど遠い昔ではないのだけれど。『閻魔』(1940)所収。(今井肖子)


March 2332007

 燈を遮る胴体で混み太る教団

                           堀 葦男

季の句。映像的処理は遠近法の中で行われている。そういう意味ではこれも「写生」の句だ。まあ、「太る」の部分は観念ではあるけれど。オウム真理教の事件はまだ記憶に新しい。麻原彰晃が選挙に出ていた頃、同僚の高校講師が、オウムの教義に感心したと話していたのを思い出す。「宇宙の気を脊椎に入れると浮遊できるってのは説得力あるんですよ」この人、英語を教えてたけど、自分で修業して僧侶の資格を取った真面目を絵に描いたような人だったな。俳句はあらゆる「現在」を視界に入れていい。百年経っても変わらない不変の事象を詠もうとする態度はほんとうに普遍性に到る道なのだろうか。一草一木を通して森羅万象を詠むなんて、それこそ胡散臭い宗教の教義のようだ。「現在」のうしろに普遍のものを見出そうとするならまず「現在」に没入する必要がある。その時、その瞬間の「状況」すなわち「私」に拘泥しない限り時代を超えて生き抜いていく「詩」は獲られない。五十年以上前のこの作品が今日的意味を持って立てる所以である。そのとき季語はどういう意味を持つのだろうか。「写生」と季語とは不可分のものだろうか。子規の句の中の鶏頭や糸瓜が一句のテーマであったかどうかを考えてみればわかる。この句、「燈を遮る胴体で混み」の「写生」の角度が才能そのもの。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)




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