今年度第16回「丸山豊賞」は井川博年『幸福』(思潮社)に。おめでとう。(哲




2007ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3132007

 手は常に頭上にかざせ夜の桜

                           相原左義長

年、とある俳句大会の観客席に居た。募集句、当日入選句表彰、講評と進んでゆく。最後に、選者数名が壇上に並び、シンポジウムが始まり、そこに相原氏も並んでおられた。司会進行役の、「俳句の楽しさはどんなところと思われますか?」との質問に氏は、「私は、俳句を楽しいと思ったことはありません」と、一言。特に語気を強めるわけでもなく、むしろゆるやかで訥々とした調子であった。それまで、なんとなくぼんやり座っていた私は、一気に目が覚め、あらためて壇上の堂々としたお姿を確認したのだった。「確かに俳句は楽しいばかりではなく、生み出す苦しみもありますね」という方向に話は流れていったが、そういう意味ではない気がした。その後、〈ヒロシマに遺したまゝの十九の眼〉の一句が裏表紙に書かれた句集『地金』を拝読、ご自身の戦争体験など少し知り得た次第である。掲句、桜は満開、すでに散り始めている。闇の中に白く浮かびあがる桜の木の下にいて、えも言われぬざわざわとした不安感を感じたことは確かにある。まるで、今散るための一年であったかのように降り続く花の闇で、立ちつくしたことも。作者も、そんな闇にいて、どこか心がかき乱される思いなのか。その思いに立ち向かうように、落ちてくる花びらのなめらかな感触を遮るように、手は常に頭上にかざせ、と叙している。その命令形の強さが、桜の持つ儚さと呼応して、人の心のゆらぎを自覚させ、切ない。散りゆくことそのものがまた、遠い記憶を呼び起こし、詠まずにはいられなかったのかもしれない。『地金』(2004)所収。(今井肖子)


March 3032007

 きびしい荷揚げの荷に頬ずり冬の汗して投票に行かない人ら

                           橋本夢道

句や文学の名に「プロレタリア」の形容を冠する意味はあきらかである。文学に対する政治の優位をはっきりと言っていて、後者の「正しかるべき在り方」の遂行のために前者が存在するという明解な価値観である。これはつまらないと僕は思う。方法としてのリアリズムの効果は認めるが、社会底辺の労働が「必ず美しく正しく」描かれるのは、これはリアリズムというよりは労働ということの「意味」を社会的解説的に問うているということではないか。政治スローガンの戯画化にどれほどの文学性があろうか。「橋本夢道」の一般的評価は別にして、この句は特定の党に投票しなさいと声を張り上げているわけではない。投票日が来ても、その日の日銭を稼ぐのに切羽詰っていて投票所に行く時間がない人たちがたくさんいる。社会変革に踏み出す前にその日のパンをどうするかの問題。ストライキで電車を動かさない現場の人たちを働く仲間として支援できるか。職場に行けない自分が迷惑を蒙ったとしてストを非難するのか。デモ隊と現場で対峙する警官への憎悪と、彼らの個々の「人間性」への理解をどう折り合いをつけるのか。この句のリアルは「荷に頬ずり」と、この人たちを正しいとも間違っているとも言わないところ。現実の瞬間を動的に把握している点において特定の党派の意図など入り込む隙もない。この句の持つ意味をもうひとつ。自由律とは大正期はこんな自由なバリエーションが存在した。尾崎放哉の出現があって、それ以降はみんな放哉調をまねて行く。放哉調が自由律の代名詞になるのである。初期のこういうオリジナルな自由律と比較すれば、山頭火ですら放哉のものまねに見えてくる。谷山花猿『闘う俳句』(2007)所載。(今井 聖)


March 2932007

 手枕は艪の音となる桜かな

                           あざ蓉子

(ろ)の水音と桜の取り合わせが素敵だ。広辞苑によると、舟を漕ぎ出すときに使う艪の掌に握って押す部分を「腕」水をかく部分を「羽」と呼ぶらしい。そういえば艪を左右に広げて舟を漕ぎ進む格好は羽根を広げて空をゆく鳥の姿を思わせる。とはいっても左右均等に力を入れて艪を扱うのはなかなか難しく、非力な漕ぎ手が艪を漕ぐと前には進まず、ぐるぐる同じ場所を回りかねない。公園のボートであろうと、思い通りに進むのは難しい。掲句は桜の木の下に手枕をして寝転がって桜を見ているうち、夢うつつの不思議な気分になっている状態を表しているのだろう。もしくは桜を見ているうちに眠くなって人声が遠くなっていく様子を表しているのかもしれない。いずれにしても居眠りをする「舟を漕ぐ」や熟睡の状態の「白川夜船」といった眠りにまつわる言葉が句の発想の下敷きにあるかもしれないが、そんな痕跡はきれいに消されている。むしろ「手枕」が「艪の音」になるという、一見唐突な成り行きを感覚的に納得させる手がかりとして、これらの言葉への連想を読み手へ誘いかけてくるようである。肘を曲げて頭の下に置く手枕が艪になり、夢心地の不思議な場所へと連れ出されてゆく。最後に「桜かな」と大きな切れで打ちとめたことで、夢は具体的な景となって立ち現れる。艪の水音と桜と夢。青空に光る桜は虚と実が交差する異界への入り口なのかもしれない。『ミロの鳥』(1995)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます