April 032007
保育器の足裏に墨春の昼
瀧 洋子
産院で新生児の取り違えがないように足の裏に名前を書くというのは、ずいぶんアナログなことで、過去の話しだとばかりと思っていたのだが、デジタル社会の現在でも行われているところがあるらしい。「一番大切なことは機械まかせにできません」という、あたたかみのある気概をなんとも微笑ましく思いつつ、小さな足裏に黒々と名前を書かれ、並べられている赤ん坊の姿を思い浮かべる。そこでふと、まだ名があるとは思えない新生児に書かれる名とは名字なのだと思い当たり、生まれ落ちてすぐに名字があることの不思議に思い当たる。それは、目の前にある命に行き着くまでの歴史を思わせ、その名が書かれたことにより霊験あらたかなる護符のように、足裏から一族の愛情のかたまりが強く浸透していくように思えてくるのだった。そして掲句は保育器のなかのできごと。かたわらに寝息を感じ、胸に抱くことが叶わぬわが子である。小さなカプセルのなかで動く、真っ白な足裏に書かれている名前は、確かにここに存在する命の証のように、黒々とした墨色はさぞかし目に沁み、胸を塞ぐことだろう。保育器を囲む眼差しはみな、このやわらかな足裏が、大地に触れ、力強く跳ね回る日を願っている。だんだん欲張りになってしまう子育てだが、「元気に育て」と切なる祈りが育児のスタートなのだと、あらためて思うのだった。『背景』(2006)所収。(土肥あき子)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|