イラクでは自爆攻撃がつづいている。自爆ニュースに不感症気味の自分が怖い。(哲




2007ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542007

 老の身は日の永いにも泪かな

                           小林一茶

つまでも色あせることのない感性、というものがまれにあります。また、文芸にさほどの興味を持たない人にも、たやすく理解され受け入れられる感性、というものがあります。一茶というのは、読めば読むほどに、そのような才を持って生まれた人なのかと思います。遠く、江戸期に生きていたとしても、呟きは直接に、現代を生活しているわたしたちに響いてきます。むろん、創作に没頭していた一茶本人にとっては、そんなことはどうでもよかったのでしょう。自分の句が、将来にわたってみずみずしさを失わないだろうなどとは、少しも思っていなかったに違いありません。それは結果として、たまたまそうであったということなのです。たまたま一茶の発想の根が、人間の時を越えた普遍の部分に結びついていたからなのです。さて掲句、内容を説明する必要はありません。明解な句です。季語は「日永し」、日が永くなるのを実感する春です。まさか、老齢化が進む現代の日本を予想したわけでもないでしょうが、この切実感は、今でこそ読むものに深く入り込んできます。「日が永く」なり、ものみな明るい方向へ進む、そんな時でさえ、わが身を振り返ると泪(なみだ)が流れるのだと言っています。外が明るければ明るいほどに、自分の命という無常の闇は、その濃度を増すようです。特別な題材を扱っているわけではない、変わった表現を駆使しているのでもない、それでも一茶はやはり、特別なのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 小林一茶』(1980・桜楓社)所収。(松下育男)


April 1442007

 止ることばかり考へ風車

                           後藤比奈夫

船、石鹸玉、ぶらんこ、そして風車。いずれも春季である。一年中見られるが、やはりどれも光る風がよく似合う。そんな春風に勢いよく回る風車を見ながら作者は、止まることばかり考えている、という。風車が、からからと音を立てて回っているのを見ているのはいかにも心地良い。混ざり合った羽根の色は淡く、日差しを巻き込みはね返し、回り続ける。そのうち風が止んで、ゆっくりと止まってしまった風車の羽根の色は、うららかな風景にとけこむことのない原色である。くっきりとした色彩と輪郭、現実の形を見せながら止まったままの風車。再び回りだした風車を見つめながら、少し前までとはちがう心が働くのである。風があれば回らざるを得ない風車、止ることばかり考える風車はさらに大きく風をとらえる。そこに、回っているからこそ風車なのだという風車の本質が描かれる。月ごとの風景と俳句を綴った随筆『俳句の見える風景』(後藤比奈夫著)の中で作者は、「四月は陽気で、好き放題言えそうですが、実は目の位置と心の角度が何よりも大切な月なのです。」と述べている。心を働かせて見る、それが、観る、ということなのだろう。引用文も含め『俳句の見える風景』(1999・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


April 1342007

 鬼はみな一歯も欠けず春の山

                           友岡子郷

は怖ろしい口を開けて、むしゃむしゃとなんでも食べてしまうから歯が丈夫であらねばならない。虫歯を持った鬼なんて想像もできない。春の山は木々の花の色を映してカラフル。明るい日差しと青空を背景に、そこに住む鬼も極めて健康的なのだ。民話の中の鬼は悪さをするがどこか間が抜けていて憎めない。最後は退治されたり懲らしめられて泣きながら山に逃げ去ったりと、どこか哀れな印象さえ漂う。草田男、楸邨などのいわゆる「人間探求派」の作品傾向についてよく使われる向日性という言葉がある。虚子が言った「俳句は極楽の文学」という言葉もある。両者とも、辛い、暗い、悲しい内容より、明るい前向きの内容こそが俳句に適合するという意味。苦しい現実を描いてもそのむこうに希望が見えて欲しい。「写生」の対象も明るくあって欲しい。そういう句を目指したいという主張だ。こういう句をみるとそれが納得できる。癌と闘いながら将棋を差した大山康晴永世十五世名人は最晩年、色紙揮毫を頼まれると「鬼」という字を好んで書いたという話を思い出した。誰かが将棋の鬼という意味ですねと尋ねると、そうじゃなくて鬼が近頃夢の中に現れて黄泉の国に連れていこうとするんだ、と話したとあった。これは怖い鬼だ。花神現代俳句『友岡子郷』(1999)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます