April 162007
春山を照らせ淡竹のフィラメント
賀屋帆穹
一読、子供のころを思い出した。家には電気が来ていなかった。集落十数軒のうち、ランプ生活を余儀無くされていたのは、我が家の他に、もう一軒あるだけだった。むろん、貧困のせいである。薄暗いランプでの生活は不自由きわまりない。夜が来るのがいやだった。また、子供心に口惜しかったのは、ラジオが聴けなかったことや雑誌の付録についてくる幻灯機などで遊べなかったことだ。掲句は、エジソンが白熱電灯を作ったとき、日本の竹をフィラメントに採用したというエピソードに依っている。ならば、これだけ淡竹(はちく)が群生している土地だもの、暗くなってきたら、山を煌々と昼間と同じように、春らしくライトアップしてくれないかという意味だろう。ちょっとした機知の生んだ句だけれど、この機知に、私の子供時代の切なる願望が乗り移る。乗り移ると、往時の生活のあれこれが鮮明に脳裏によみがえってくる。作者の句作意図とはかなりはずれたところで、私はこの句に釘付けになってしまったようだ。誤読はわかっているが、俳句とはこうした誤読を許し誘う装置でもあると言えよう。俳誌「里」(2007年4月号)所載。(清水哲男)
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