長崎市長の銃撃事件。まことにお気の毒。保守陣営も乱れてきたなという印象。(哲




2007ソスN4ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1842007

 ゆく春や水に雨降る信濃川

                           会津八一

く春、春の終わり、とはいつのこと? もちろん人によって微妙なちがいはあろうけれど、気持ちのいい春がまちがいなく去ってゆく、それを惜しむ心は誰もがもっている。「ゆく春を惜しむ」などという心情は、日本人独特のものであろう。旺洋として越後平野をつらぬいて流れる信濃川に、特に春の水は満々とあふれかえっている。日々ぬくもりつつある大河の水に、なおも雨が降りこむ。もともと雨の多い土地である。穀倉地帯を潤しながら、嵩を増した水は日本海にそそぐ。雨の量と豊かな川の水量がふくらんで、悠々と流れ行く勢いまでもが一緒になって、遠く近く目に見えてくるようだ。信濃川にただ春雨が降っているのではない。八一は敢えて「水に雨降る」と詠って、大河をなす“水”そのものを即物的に意識的にとらえてみせた。温暖だった春も水と一緒に日本海へ押し流されて、越後特有の湿気の多い蒸し暑い夏がやってくる。そうした気候が穀倉地帯を肥沃にしてきた。秋艸道人・八一は信濃川河口の新潟市に生まれた。中学時代から良寛の歌に親しんだが、歌に先がけて俳句を実作し、「ホトトギス」にも投句していた。のちに地域の俳句結社を指導したり、地方紙の俳壇選者もつとめた。俳号は八朔郎。手もとの資料には、18歳(明治32年)の折に詠んだ「児を寺へ頼みて乳母の田植哉」という素朴な句を冒頭にして、七十六句が収められている。「ゆく春」といえば、蕪村の「ゆく春や重たき琵琶の抱心(だきごころ)」も忘れがたい。『新潟県文学全集6』(1996)所収。(八木忠栄)


April 1742007

 蟻穴を出づひとつぶの影を得て

                           津川絵理子

たたかな太陽に誘われるように、庭に小さな砂山ができ始めた。蟻が巣穴の奥からせっせと運んでは積み上げた小山である。わが家の地底に広がる蟻帝国も盛んに活動を開始したようだ。掲句で作者が見つめる「ひとつぶ」は、蟻の小さな身体を写し取っていると同時に、その一生の労働に対する嘆息も込められているように思う。長い冬を地底で過ごし、春の日差しをまぶしみながら巣穴を出るなやいなや働く蟻たち。一匹につき、ひとつずつ与えられた影を引きながら休みなく働く蟻に、命とは、生きるとは、と考えさせられるのである。昨年友人が「アントクアリウム」なる蟻の観察箱を入手し、庭の蟻を提供することになった。充填された水色のゼリーが餌と土の役割を果し、蟻の活動を観察できるというものだ。美しい水色のお菓子の家で暮らすことができる蟻たちに羨望すら覚えていたが、四方八方が食料であるはずのこの環境でも、彼らは怠けることなく律儀に通路を掘り続ける。冬眠もしないで働き続ける蟻たちを思い、いやこれこそ地獄かもしれない、と考え直した。太陽に照らされ、蝶の羽を引き、また砂糖壺に行列する方が蟻にとって何百倍も幸せだと思うのだった。第三十回俳人協会新人賞受賞。『和音』(2006)所収。(土肥あき子)


April 1642007

 春山を照らせ淡竹のフィラメント

                           賀屋帆穹

読、子供のころを思い出した。家には電気が来ていなかった。集落十数軒のうち、ランプ生活を余儀無くされていたのは、我が家の他に、もう一軒あるだけだった。むろん、貧困のせいである。薄暗いランプでの生活は不自由きわまりない。夜が来るのがいやだった。また、子供心に口惜しかったのは、ラジオが聴けなかったことや雑誌の付録についてくる幻灯機などで遊べなかったことだ。掲句は、エジソンが白熱電灯を作ったとき、日本の竹をフィラメントに採用したというエピソードに依っている。ならば、これだけ淡竹(はちく)が群生している土地だもの、暗くなってきたら、山を煌々と昼間と同じように、春らしくライトアップしてくれないかという意味だろう。ちょっとした機知の生んだ句だけれど、この機知に、私の子供時代の切なる願望が乗り移る。乗り移ると、往時の生活のあれこれが鮮明に脳裏によみがえってくる。作者の句作意図とはかなりはずれたところで、私はこの句に釘付けになってしまったようだ。誤読はわかっているが、俳句とはこうした誤読を許し誘う装置でもあると言えよう。俳誌「里」(2007年4月号)所載。(清水哲男)




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