昨日は川越まるひろ百貨店で開かれている小幡堅「猫」展へ。実家にもちらりと。(哲




2007ソスN4ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1942007

 呂律まだ整はぬ子にリラ咲ける

                           福永耕二

律(ろれつ)は呂の音と律の音。古くは雅楽の音階を表す言葉であったそうだ。転じて、ものを言うときの言葉の調子を表す。お酒に酔っ払うと呂律が回らなくなるが、「呂律まだ整はぬ」とは、言葉を覚え始めた幼子が靴のことを「くっく」、ブランコのことを「ぶりゃんこ」と舌がよく回らぬなりに伝えようとする様を表している。家にあまりいることのない父親がたまに耳にする片言言葉はさぞ可愛らしく感じられることだろう。ライラックとも呼ばれるリラの花は薄紫色の小花をいっぱいつける可憐な花。「呂律」「リラ」の響き具合が心地よい。リラの花言葉は「若き日の思い出」だとか。甘い香が読み手それぞれの心の中にある幼子との思い出を懐かしくよみがえらせてくれる。幼い子供達、特に女の子はおしゃまになり、口の重い父親などはすぐ言い負かされてしまう。膝にまとわりついて、たどたどしい言葉で親を楽しませてくれた日々はたちまちのうちに過ぎ去る。それが成長というものだろうから子離れの寂しさを感じられる親は幸せなのかもしれない。1980年、42歳の若さで急逝した作者の福永耕二は、この幼子が成人した姿を見届けることはできなかっただろう。『福永耕二句集・踏歌』(1997)所収。(三宅やよい)


April 1842007

 ゆく春や水に雨降る信濃川

                           会津八一

く春、春の終わり、とはいつのこと? もちろん人によって微妙なちがいはあろうけれど、気持ちのいい春がまちがいなく去ってゆく、それを惜しむ心は誰もがもっている。「ゆく春を惜しむ」などという心情は、日本人独特のものであろう。旺洋として越後平野をつらぬいて流れる信濃川に、特に春の水は満々とあふれかえっている。日々ぬくもりつつある大河の水に、なおも雨が降りこむ。もともと雨の多い土地である。穀倉地帯を潤しながら、嵩を増した水は日本海にそそぐ。雨の量と豊かな川の水量がふくらんで、悠々と流れ行く勢いまでもが一緒になって、遠く近く目に見えてくるようだ。信濃川にただ春雨が降っているのではない。八一は敢えて「水に雨降る」と詠って、大河をなす“水”そのものを即物的に意識的にとらえてみせた。温暖だった春も水と一緒に日本海へ押し流されて、越後特有の湿気の多い蒸し暑い夏がやってくる。そうした気候が穀倉地帯を肥沃にしてきた。秋艸道人・八一は信濃川河口の新潟市に生まれた。中学時代から良寛の歌に親しんだが、歌に先がけて俳句を実作し、「ホトトギス」にも投句していた。のちに地域の俳句結社を指導したり、地方紙の俳壇選者もつとめた。俳号は八朔郎。手もとの資料には、18歳(明治32年)の折に詠んだ「児を寺へ頼みて乳母の田植哉」という素朴な句を冒頭にして、七十六句が収められている。「ゆく春」といえば、蕪村の「ゆく春や重たき琵琶の抱心(だきごころ)」も忘れがたい。『新潟県文学全集6』(1996)所収。(八木忠栄)


April 1742007

 蟻穴を出づひとつぶの影を得て

                           津川絵理子

たたかな太陽に誘われるように、庭に小さな砂山ができ始めた。蟻が巣穴の奥からせっせと運んでは積み上げた小山である。わが家の地底に広がる蟻帝国も盛んに活動を開始したようだ。掲句で作者が見つめる「ひとつぶ」は、蟻の小さな身体を写し取っていると同時に、その一生の労働に対する嘆息も込められているように思う。長い冬を地底で過ごし、春の日差しをまぶしみながら巣穴を出るなやいなや働く蟻たち。一匹につき、ひとつずつ与えられた影を引きながら休みなく働く蟻に、命とは、生きるとは、と考えさせられるのである。昨年友人が「アントクアリウム」なる蟻の観察箱を入手し、庭の蟻を提供することになった。充填された水色のゼリーが餌と土の役割を果し、蟻の活動を観察できるというものだ。美しい水色のお菓子の家で暮らすことができる蟻たちに羨望すら覚えていたが、四方八方が食料であるはずのこの環境でも、彼らは怠けることなく律儀に通路を掘り続ける。冬眠もしないで働き続ける蟻たちを思い、いやこれこそ地獄かもしれない、と考え直した。太陽に照らされ、蝶の羽を引き、また砂糖壺に行列する方が蟻にとって何百倍も幸せだと思うのだった。第三十回俳人協会新人賞受賞。『和音』(2006)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます