選挙カーがいなくなったと思ったら今度は当選御礼参りの車がガーガーピーピー。(哲




2007ソスN4ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2442007

 リラ冷やガラスの船にガラスの帆

                           大西比呂

ラ(lilas)はフランス語。「ライラック」、ましてや「紫はしどい」より優美な雰囲気が強まる。モクセイ科なので、よく見ると四弁の花の形は金木犀に似ているが、もっと大ぶりで優しい大陸的な甘い香りの花である。この花が咲く頃のふいの寒さを「リラ冷え」と呼ぶ。春はあたたかい日差しをじゅうぶんに感じさせたあとにも、驚くほど冷たい一日があったりする。「リラ冷え」は、昭和35年北海道の俳人榛谷美枝子(はんがいみえこ)氏の俳句から誕生し、昭和46年に渡辺淳一の『リラ冷えの街』で定着したというから、わりあい新しい季語だろう。どちらかというと迷惑な陽気だが、しかし語感の花の名の異国情緒もあいまって、どこか甘美なイメージが漂う。掲句はさらに華奢なガラスの帆船を取り合わせたことで、まるでそんな日にはガラスの船が昼の月へと船出するようなファンタジーがふくらむ。幼い頃、実家の玄関には大きなガラスの帆船があった。慌ただしい小学生だったわたしは、ある日洋服の袖に舳先を引っかけ、粉々にしてしまう。夕方、わたしと弟が父親に呼ばれ、「嘘をついている眼は見ればわかる」と並べられた。度胸のよい姉と、臆病な弟の理不尽な顛末は省略するが、ちくりと胸を刺すさまざまな過去の過ちなども引き連れ、ガラスの船はリラの香りの風をいっぱいにはらませ出帆する。『ガラスの船』(2007)所収。(土肥あき子)


April 2342007

 師系図をたぐりし先や藤下がる

                           三輪初子

七で「あれっ」と思わされる。一般的に言って、系図や系統図は「たどる」ものであって「たぐる」ものではないからだ。両者を同義的に「記憶をたぐる」などと使うケースもなくはないけれど、「たぐる」は普通物理的な動作を伴う行為である。つまりここで作者は「師系図」を物質として扱っているのであり、手元のそれを両手で「たぐり」寄せてみたところ、なんとその先には実際の「藤(の花房)」がぶら下がっていたと言うのだ。この機知にはくすりともさせられるけれど、よくよく情景を想像してみると、かなり不気味でもある。たとえば子規や虚子の系統の先の先、つまり現代の「弟子」たちはみな、人間ではなくて群れ咲いている藤の花そのものだったというわけだから、微笑を越えた不気味さのほうを強く感じてしまう。だからと言って掲句に、師系図に批判的な意図があるのかと言えば、そんな様子は感じられない。二次元的な系統図を三次元的なそれに変換することを思いつき実行した結果、このようないわばシュール的な面白い効果が得られたと見ておきたい。この句は作者の春の夢をそのまま記述したようにも思えるし、現実の盛りの「藤」にも、人をどこか茫々とした夢の世界へと誘い込むような風情がある。『火を愛し水を愛して』(2007)所収。(清水哲男)


April 2242007

 朝寝して鏡中落花ひかり過ぐ

                           水原秋桜子

くもこれだけ短い言葉の中で、このようなきらびやかな世界を作ったものだと思います。詩歌の楽しみ方にはいろいろありますが、わたしの場合、とにかく美しく描かれた作品が、理屈ぬきで好きです。読んですぐに目に付くのは、中七の4つの漢字です。これが現代詩なら、めったに「鏡中」だとか「落花」などとは書きません。「鏡のなか」とか、「おちる花」といったほうが、やさしく読者に伝わります。句であるがための工夫が、創作過程で作者によってどれだけなされたかが、想像されます。もちろん読者としてのわたしは、自然に言葉を解きなおし(溶きなおし)、鑑賞しているのです。春が進むにつれて、日々、太陽の射し始める時刻は早まってきます。じりじりと部屋に侵入してくる明るい陽射しでさえも、ふとんの中の心地よい眠りを妨げるものではありません。まして目覚め間際の眠りほど、そのありがたさを実感させてくれるものはありません。けだるい体のままに目を開けると、いきなり飛び込んできたのは、世界そのものではなく、きれいな平面で世界を映した鏡でした。鏡という別世界の中を陽射しが入り込み、さらに光の表面をすべるように花びらが落ちてゆきます。なんだか、目覚めたあとも眠りの中のあたたかな美しさに取り巻かれているようです。潔くも、それだけの句です。『鑑賞俳句歳時記』(1970・文藝春秋社)所収。(松下育男)




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