2007N5句

May 0152007

 五月晴豚舎のシャワー雫せる

                           上田貴美子

ャワーは夏の季語にもあるが、掲句のそれは涼を取ることが目的ではなく、あくまで豚舎の建物の一部としてのシャワーである。豚はとてもデリケートな動物で、外部から持ち込まれる病原菌にたいへん気を使うという。豚舎内に入る場合には、シャワーを浴びた後、靴下、下着いっさいを用意された衣服に着替えるのだそうだ。おそらくたくさんの豚たちが賑やかに生活している空間に隣合わせて、雫は一滴また一滴とこちら側の機能的な設備のなかに響く。無駄のない言葉の斡旋が、素知らぬ顔をして風景の背後にある真実にぐいぐいと迫っていく。清潔な環境、病気をさせないような配慮の先にあるものとは。ここにいる動物たちは、言うまでもなく食卓にのぼる食べ物になるために飼育されているのだ。わたしたちはいかに生かされているのか、そんな命のやりとりを声高に訴えることなく、掲句はしかしさりげなく差し出してみせている。見上げれば雲ひとつない、はりさけるほど美しい五月の空があるばかり。管理された豚たちは、外界の空を見る機会はあるのだろうか。ぽつり、ぽつりと静かな祈りのように雫がふくらんでは落ちる。『人間(じんかん)』(2004)所収。(土肥あき子)


May 0252007

 アカハタと葱置くベット五月来たる

                           寺山修司

司が一九八三年五月四日に亡くなってから、もう二十四年になる。享年四十七歳。十五歳頃から俳句を作りはじめ、やがて短歌へとウエイトを移して行ったことはよく知られている。掲出句は俳誌「暖鳥」に一九五一年から三年余(高校生〜大学生)にわたって発表された二百二十一句のなかの一句(「ベット」はそのまま)。当時の修司がアカハタを実際に読んでいたかどうか、私にはわからないし、事実関係はどうでもよろしい。けれども、五〇年代に高校生がいきなり共産党機関紙アカハタをもってくる手つき、彼はすでにして只者ではなかった。いかにも彼らしい。今の時代のアカハタではないのだ。そこへ、葱という日常ありふれた何気ない野菜を添える。ベットの上にさりげなく置かれている他人同士。農業革命でも五月革命でもない。修司流に巧みに計算された取り合わせである。アカハタと葱とはいえ、「生活」とか「くらし」などとこじつけた鬱陶しい解釈なんぞ、修司は最初から拒んでいるだろう。また、アカハタ=修司、葱=母という類推では、あまりにも月並みで陳腐。さわやかな五月にしてはもの悲しい。むしろ、ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で偶然出会うという図のパロディではないのか。すでにそういう解釈がなされているのかどうかは知らない。同じ五月の句でも、誰もが引用する「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」も、ほぼ同時期の作である。いろんな意味で、修司には五月がよく似合う。病気をした晩年の修司は、再び俳句をやる意向を周囲にもらしていたが、果してどんな俳句が生まれたであろうか。『寺山修司コレクション1全歌集全句集』(1992)所収。(八木忠栄)


May 0352007

 體内を抜ける爆音基地展く

                           三谷 昭

用機ジェットの離着陸の音。地続きでありながら壁の向こうに広がる土地は治外法権の場所である。空を見上げる作者の身体を爆音が貫いてゆく。基地展くは「ひらく」と読むのだと思うが、おそらく米軍基地拡張を意味しているのだろう。講和条約締結以降在日米軍使用延長と基地拡大に対する反対闘争が、各地で起こっていた。その中でも最大規模のものは基地の測量を強行しようとする国側とデモ隊が衝突した砂川事件だった。基地内へ入ったと、逮捕された人達に対する判決。それは日米安保体制と平和憲法の矛盾を突く裁判でもあった。駐留を許容した政府の行為を「平和憲法の戦争放棄の精神に悖る(もとる)のではないか」と9条違反を主張し、被告は無実とした地裁の判決は最高裁で、「安保条約は司法判断に適さない」と差し戻され有罪判決が下される。以後憲法と基地の矛盾は法の外側に置かれてきた。三谷昭は戦前西東三鬼、平畑静塔とともに「京大俳句」弾圧事件で特高に逮捕された苦い経験を持つ。軍用機の爆音が頭上を過ぎる一瞬、作者の身を貫いてゆくのはやり場のない悲しみと怒りだったろう。政治的な主義主張を前面に押し出さない表現だからこそ、読み手はこの句を自分の感覚に引き寄せ現在に重ねてみることができる。今日は憲法記念日。この句から半世紀を経た今も日常のすぐそばで基地は機能し続け、憲法9条はその存続自体が危ぶまれている。『現代俳句全集 4巻』(1958)所載。(三宅やよい)


May 0452007

 しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る

                           富安風生

快なリズム、童心が微笑ましくも楽しい。こういう句はどうやったらできるかな。俳句に過剰な期待をかけないことかもしれない。「右手で自己の人間悪、左手で社会悪と闘う」そんな内容を楸邨は句集『野哭』の後記で述べている。そういう気張り方では、こういう句はできない。状況を見遣り自己を見つめ追いつめ、対象の実相に肉薄しようとする。この句は楸邨の作り方と対極に見える。僕は後者の方の傾向を選択したから、まずその伝でいくわけだけど、だからこそこういう傾向の魅力に憧れるところがある。求心的傾向がときにスベッテしまうのは、盛り込みたい内容がふくらみすぎてひとりよがりになってしまい、混沌とし過ぎて伝達性が失われてしまうから。逆にこういう句は類想陳腐の何百もの駄作の果てに得られる稀有の一句だろうと思う。平明と平凡は紙一重なのだ。眉間に皺を寄せて苦吟しても、口をぽかんと空けて小学校低学年になりきっても、秀句にいたる道はどっちもどっちなのだから俳句は難しい。ところでこの句の「来る」は「きたる」。最近は歴史的仮名遣い派でも「来たる」と表記する場合が多い。下の五音だから「来る」と書いても読者はかならず「きたる」と読んでくれる、という信頼感が無いんだろう。そういう点にも歴史的仮名遣いの崩壊は着実に進行していると思わざるを得ない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 0552007

 揺れつつ海へ伸びゆく道や子供の日

                           中村草田男

月五日が子供の日として祝日になったのは、戦後間もなくの昭和二十三年のこと。子供の人格を重んじ、幸福をはかるという趣旨で端午の節句があてられたという。最近は子供が甘やかされているから年中子供の日ではないか、などと言われもするが、社会全体で子供の幸せを願おうというのは健全な発想だろう。作者は、昭和八年から三十年間余り、東京の私立成蹊学園で教鞭をとっていた。病気や大学転部などで、三十二歳とやや遅めの就職である。その翌年の句に〈入学試験幼き頸の溝深く〉などあり、子供との関わりの中で生まれた句も多いことだろう。掲句、一読して、海へ伸びゆく道、はすんなりわかる。広々とした海へ続く道。そこに、上五を七音にしてまで、揺れつつ、である。揺れているのは何なのか。道は自由の海へ続いている。しかしそこを歩いて行く時、立ち止まったり、ためらったり、時には引き返そうかと思ったりしてしまう。やはり、そんな十代のいわゆる思春期の不安定な心持ちが、揺れているのだろう。そしてそれを包みこむ、作者の慈しみの視線がある。だからこそ、伸びゆく道や、という力強い表現に、健やかなれ、という願いが感じられ、本来の子供の日の一句となっている。『草田男季寄せ』(1985・萬緑「草田男季寄せ」刊行会)所載。(今井肖子)


May 0652007

 路地に子がにはかに増えて夏は来ぬ

                           菖蒲あや

年詩を書いていると、あらかじめ情感や雰囲気を身につけている言葉を使うことに注意深くなります。その言葉の持つイメージによって、作品が縛られてしまうからです。その情感から逃れようとするのか、むしろそれを利用して取り込もうとするのかは、作者の姿勢によって違います。ただ、詩と違って、短期勝負の俳句にとっては、そんな屁理屈を振り回している暇はないのかもしれません。もしも語が特別な情をかもし出すなら、それを利用しない手はないのです。「路地」という言葉を目にすれば、多くの人は、共通の懐かしさや温かさを感じることが出来ます。掲句を読んで、はっきりとした情景が目に浮かぶのは、この語のおかげなのだろうと思われます。細い道の両側から、軒が低くかぶさっています。その隙間から初夏の空が遠く覗いています。狭い道端には、乱雑に鉢植えや如雨露(じょうろ)が置いてあり、地面にはろうせきで描かれた線路のいたずら書きや、石蹴りで遊ばれたあとの丸や四角が描かれています。急に暑さを感じた昼に、引き戸を開けて道に出れば、どこから湧き出してきたのか、たくさんの子どもたちが走り回っています。植物がその背丈を伸ばすように、自然の一部としての「子ども」という生き物が増殖して、家から弾き飛ばされてきたかのようです。ぶつからないように歩くわたしも、今年の夏が与えられたことを、確実に知るのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 0752007

 川蝉の川も女もすでに亡し

                           佐藤鬼房

語は「川蝉(かわせみ・翡翠)」で夏。京都野鳥の会の川野邦造氏が「翡翠の夏の季語は解せない」として、「冬枯れの川べりをきらりと飛ぶ姿は夏以上に迫力がある」と「俳句界」(2007年5月号)に書いている。私もかつて多摩川べりに暮したので、冬の翡翠もよく知っているし賛成だ。ただ古人が夏としたのは、新緑の水辺とのマッチングの美しさからなのだろう。この句は作者還暦のころの作と思われるが、若い読者は通俗的な句として受け取るかもしれない。なにせ、道具立てが整い過ぎている。眼前を飛翔する川蝉の美しい姿に、ともにあった昔の山河もそして「女」もいまや亡しと、甘く茫々と詠嘆しているからだ。しかし私は、こうした通俗が身にしみて感じられることこそが、老齢に特有の感覚なのだと思う。ごくつまらなく思えていた諺などが、ある日突然のように身にしみてその通りだなと感じられたりもする。老齢、加齢とは、かなりの程度で具体的に通俗が生きられる年齢のことではあるまいか。若さは川蝉のようにすばしこく感性や神経を飛ばせるけれど、老いはそのような飛ばし方にはもう飽き飽きして、とどのつまりはと世間の通俗のなかに沈んでいく。格好良く言い換えれば、無常感のなかに没することを潔しとするのである。したがって、この句にジーンと来た読者はみな、既に老境に入っているはずだというのが、私の占いだ(笑)。『朝の日』(1980)所収。(清水哲男)


May 0852007

 親戚のような顔して黴育つ

                           鎌田次男

ニシリンを始め、味噌、醤油、チーズなど、深く感謝に値する黴(カビ)は数あれど、清潔志向の現代の生活ではアレルギー疾患を引き起こす一因などとも関係し徹底して嫌われ、愛でるために栽培している人はまずいないと思われる。掲句ではそのにっくき黴が「親戚のような顔」で育っているという。俳句で使用する「ような」や「ごとく」には、ごく個人的な感情に通じるものがあり、読者の「わかる」と「わからない」が大きく分かれるところでもあるが、座敷の片隅で発見した黴がまるで「遠縁の者です。厄介になります」とばかりに、大きな顔でもなく、かといって遠慮するわけでもなく、ひそやかにのさばっていく様子はまさしく「親戚のような顔」であろう。黴が生えるという嫌悪すべき緊急事態が、一転してあっけらかんと罪のない日常に溶け込んだ。親戚が集まる冠婚葬祭の場では、どうしても思い出せない叔父や叔母や従姉妹が、ひとりやふたりいるものだ。しかし確かにどこかで見覚えもあり、どことなく似通うこの係累の特徴も備えている。結局、最後まではっきりとした関係はわからないまま「親戚の人」として存在する人物がいたことなども懐かしく思い出している。『亀の唄』(2006)所収。(土肥あき子)


May 0952007

 船頭も饂飩うつなり五月雨

                           泉 鏡花

にヘソマガリぶるつもりはないけれど、芭蕉や蕪村の五月雨の名句は、あえて避けて通らせていただこう。「広辞苑」によれば、「さ」は五月(サツキ)のサに同じ、「みだれ」は水垂(ミダレ)の意だという。春の花たちによる狂躁が終わって、梅雨をむかえるまでのしばしホッとする時季の長雨である。雨にたたられて、いつもより少々暇ができた船頭さんが、無聊を慰めようというのだろうか、「さて、今日はひとつ・・・・」と、うどん打ちに精出している。本来の仕事が忙しいために、ご無沙汰していたお楽しみなのだろう。雨を集めて幾分流れが早くなっている川の、岸辺に舫ってある自分の舟が見えているのかもしれない。窓越しに舟に視線をちらちら送りながら、ウデをふるっている。船頭仕事で鍛えられたたくましいウデっぷしが打っていくうどんは、まずかろうはずがない。船頭仲間も何人か集まっていて、遠慮なく冷やかしているのかもしれない。「船頭やめて、うどん屋でも始めたら?」(笑)。あの鏡花文学とは、およそ表情を異にしている掲出句。しかし、うどんを打つ船頭をじっと観察しているまなざしは、鏡花の一面を物語っているように思われる。鏡花の句は美しすぎて甘すぎて・・・・と評する人もあるし、そういう句もある。けれども「田鼠や薩摩芋ひく葉の戦(そよ)ぎ」などは、いかにも鏡花らしく繊細だが、決して甘くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1052007

 そらまめのみんな笑つて僧のまへ

                           奥坂まや

らまめは莢が空にむかって茎につくことから「空豆」。莢のかたちが蚕の繭に似ていることから「蚕豆」の字があてられるようになったという。「おたふく豆」は、そらまめの中でも特に大粒の実の品種を指すようだ。この句の面白さはそらまめがお多福の顔になってコロコロ笑っている景と、講話を聴くため僧の前に並んでいる人達が笑っている情景の二つが同時に含まれているように思えるところである。これは上五の「の」が軽い切れを含むとともに、「みんな」という不特定多数を表す言葉に掛かっていくからだろう。インターネット事典ウィキペディアによると、そらまめは花に黒い斑点があり、豆にも黒い線が入っている。そのせいか古代ギリシャやローマでは葬儀の食物に用いられたそうだ。ピタゴラスはそらまめの茎が冥界とつながっており、莢の中には死者の魂が入っていると考えたという。僧侶はあの世とこの世の橋渡しを司る人。そらまめと僧の結びつきを考えると、この情景はこの世の情景を描きながらも、日常からちょっとはみ出た次元の世界を描いているように想像できる。時空を超えたその世界にそらまめの「笑い」を響かせると、その笑い声はただ明るい童話的な笑いでなく、不気味な哄笑の雰囲気もあり、それもまた面白く感じられる。『縄文』(2005)所収。(三宅やよい)


May 1152007

 品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る

                           森田緑郎

郎さんはどこから出てどこへ帰るおつもりなのか。品川は多くの鉄道路線が通っている。僕は家が横浜なので東京方面で用事を済ませると山手線が品川に着く前に乗り換え作戦を考える。東海道線、京浜東北線、京浜急行。この三択だ。横須賀線に乗って万が一乗り過ごすととんでもないところを回ってえらい時間がかかるのでこれはだめ。その前に新宿、渋谷、恵比寿を通る場合は、湘南ライナーも有効だが、これは終電が早いので、「酔い」がまわるころはもう選択外である。しかし、どの選択も猛烈な混み具合を覚悟せねばならない。とにかく足が宙に浮くというのも大げさではないくらい。僕は怒りと諦めの中でこの苦痛に耐える。家畜運搬車とか、「アウシュビッツ行き」というような不吉な言葉が頭を掠める。「労働者よ、怒れ。電車を停めて革命だ」そうしたら品川なんか毎日が騒乱罪だ。戦後すぐの混雑を体験している人も同様の思いだろう。「客車に窓から乗ったことがある」って僕が言ったら、詩人の井川博年さんなんか、「僕は網棚に寝たことがある」って言ってたもんな。緑郎さんの酔いは紳士の酔いだ。混雑もまた良し、初夏の夜空を眺めて行こうよ、と言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1252007

 病身の足のうら美しく夏

                           井上花鳥子

常生活では、寝ている時以外はほとんど、足のうらは靴に閉じこめられ押しつけられ、自重と垂直抗力のせめぎ合いの中にいる。医師であった作者だが、専門は精神神経科。〈梅雨の月あした切らるゝ胸の上に〉の句と前後していることからもこの句は、大学卒業の翌年、自身が入院していた時の作と思われる。大方病は癒えて、退院も近い頃だろう。あらためて、筋肉が落ち細くなった体を確認。足をさすりつつ折り、その先の足のうらを見る。足のうらにとっても思わぬ長期休暇、解放され続けていたその皮膚はやわらかい。それはあらためて、病の重さを実感するほの白さであり、すこしかなしい美しさでもある。ここまでの十五音の重さを、最後の、夏、が力強く受けとめる。静と動の美しさ。溢れんばかりの緑と生命力溢れる初夏の風に、若い作者の決意と希望が感じられる。その後〈吾を殴りたりし患者と日向ぼこ〉等、医師としての日常を詠んだ句も多くある作者の俳号の花鳥子(かちょうし)は、本名の勝義と、花鳥諷詠にちなんでとのこと。郵便屋に「いのうえかちょこさ〜ん」と呼ばれて情けない思いをしたという逸話も。『辰巳』(1984)所載。(今井肖子)


May 1352007

 嶺暸かに初夏の市民ゆく

                           飯田龍太

年の夏からこの欄を担当することになり、それまで句を読む習慣のなかったわたしは、にわかに勉強を始めたのでした。ただ、広大な俳句の世界の、どこから手をつけたらよいのかがわからず、とりあえず勤め先近くの図書館の書棚に向かい、片っ端から借りてきて読んだのです。そんな中で、もっとも感銘を受けたのが、飯田龍太著『鑑賞歳時記』(角川書店・1995)の4冊でした。句の鑑賞の見事さはもちろんですが、コラム<実作へのヒント>は、どの一行も意味が深く、俳句を詠むものに限らず、文芸に携わるものすべてにとって、精神にまっすぐに届く貴重な文章だと思いました。さて、その飯田氏の句です。暸か(あきらか)と読みます。描かれているのは、それほど遠くない空に、山を見ることのできる地方都市でしょうか。夏が来て、自然に背筋が伸び、人は上空を見つめるようになります。頂上まではっきりと見える山は、初夏にその距離を近づけ、町に歩み寄ってきたかのようです。広々としたこころの開放を感じさせる、さわやかな作品です。「市民」という言葉から、日々を地道に生きる市井の人々の姿が思い浮かびます。作者のまなざしの優しい低さを感じることが出来ます。「市民ゆく」の「ゆく」は、実際に「歩む」意味とともに、生きて生活するすべての行為を含んでいるのでしょうか。生を持つもの持たざるもの、双方を美しく讃えて、句は初夏を見事に取り込みます。『角川大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 1452007

 麦秋の人々の中に日落つる

                           吉岡禅寺洞

後平野の「麦秋」を見てきた。博多から鹿児島本線で南下して久留米に至る間の景色だから、正確にはちょっぴり佐賀平野も含まれるのかもしれないが、ともかく東京などでは見られない有無を言わせぬ広大な面積の麦の秋だった。作者は福岡の人だったので、句の情景もこのあたりのものだろうか。大勢の人々が麦刈りにいそしむ夕景だ。広大な麦畑の彼方で、日が没しようとしている。その広大さは「人々の中に」という措辞に暗示されているのであって、澄んだ初夏独特の空気もまた、同時に詠み込まれている。巧みな表現と言わざるを得ない。そして秋の落日とは違い、この季節にはゆっくりと日が没してゆくので、たとえばミレーの「落ち穂拾い」のような寂寥感はないのである。むしろ逆に、明日もまた明るくあるだろうという気分のする句であって、そこもまた心地よい作品だ。ご存知とは思うが、吉岡禅寺洞は無季句を提唱し、結社「天の川」を主宰、昭和11年に日野草城、杉田久女とともに「ホトトギス」、すなわち虚子から除名された俳人だ。掲句はそれ以前のものと思われるが、この句からもわかるように、「ホトトギス」にとっては口惜しくも惜しまれる才能であったには違いない。『俳諧歳時記・夏』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 1552007

 代田より這ひ来て吾を生せる母

                           小原啄葉

者は1921年、岩手県生れ。今よりほんの少し昔の農村では、農閑期に受胎し農繁期に出産することが多かった。そして10歳をかしらに5人の子供というような、すさまじい育児を繰り返してきたのだ。少子化とは何なのだろうかと今一度考えてみる。前回の国勢調査で出生率は過去最低の1.26人であったと発表されている。いわく子供を育てる環境が整わない、働く女性への配慮が足りないなど、不満や不安は限りない。しかし掲句を前にしたとき、それらの言葉のなんと脆弱であることか。代田とは苗を植えた際、発育が良くなるように田の面を掻きならす代掻きが済んだ田のこと。この作業はかつて非常な労力を必要としたという。産み月まで労働を強いられてきた女たちの過酷な日々を感じつつも、掲句には弱音を一切受け付けないようなほとばしるパワーがある。私を含め、出産や育児に対して気弱な女性が増えた昨今、大いなるエールを与えるには、政府が打ち出す「次世代育成支援対策推進法」や「教育再生会議」の親切めいた子育て指南でうんざりさせるより、過去の母親がなしてきた姿を見せてくれたほうがよほどこたえる。女たちはいつの時代も力強く子を生み、育ててきた。どんな時代であろうと果敢に挑戦せよと、過去をさかのぼる何百何千という日本の母親たちの手に触れたようなぬくもりと厳しさを一句に感じている。『平心』(2006)所収。(土肥あき子)


May 1652007

 神輿いま危き橋を渡るなり

                           久米三汀

は夏祭の総称であり、神輿も夏の季語。他は春祭、秋祭となる。大きな祭に神輿は付きもの。ワッセワッセと勇ましい神輿が、今まさに町はずれの橋を渡っている光景であろうか。「危き橋」という対比的なアクセントが効いている。現今の橋は鉄やコンクリートで頑丈に造られているが、以前は古い木橋や土橋が危い風情で架かっていたりした。もともと勇ましい熱気で担がれて行く神輿だけれど、「危き橋」によっていっそう勢いが増し、その地域一帯の様子までもが見えてくるようである。世間には4トン半という黄金神輿(富岡八幡宮)もあれば、子どもたちが担ぐ可愛い樽みこしもある。掲出句は巨大な神輿だから危いのではない。危い橋に不釣合いなしっかりした神輿が、祭の勢いで少々強引に渡って行く光景だろう。向島に生まれ住んだ富田木歩の句に「街折れて闇にきらめく神輿かな」がある。今年の浅草三社祭は明後十八日から始まる。昨年は神輿に大勢の人が乗りすぎ、担ぎ棒が折れるという事故が起きた。そうした危険に加え、神輿に人が乗るのは神霊を汚す行為だ、という主催者側の考え方も聞こえてくる。今年はどういうことに相成るのか――。三汀・久米正雄は碧梧桐門。一高在学中に新傾向派の新星として俳壇に輝いた。のち、忽然と文壇に転じた。戦後は俳誌「かまくら」を出し、鎌倉の文士たちと句作を楽しんだ。「泳ぎ出でて日本遠し不二の山」三汀。句集に『牧唄』『返り花』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1752007

 鮎焼くや空気の軽き村にゐて

                           橋場千舟

うすぐ解禁になる鮎釣りを心待ちにされている方も多いだろう。「空気の軽き村」という表現に身の装いも軽く田舎に遊ぶ愉快な気分と、すがすがしい空気との調和が感じられる。真青な空と山。風通しのよい林から鳥の囀りも聞こえてくるかもしれない。「ゐて」とあるから作者は村に住んでいるのではなく、都会の喧騒から離れたこの場所へ家族や友人と連れ立って遊びに来ているのだろう。澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んで、初夏の休日を楽しむ。川原の石を積んで即席の石窯を作り、釣りたての鮎を串にさして焼くのもいい。家や人が密集する街で忙しい日々を送っていると、ゆったりと自然に心を遊ばすのを忘れがちになる。こんな村で深呼吸すれば肺のすみずみまできれいになりそうだ。同じ川の鮎でも上流域でとれる鮎ほど身のしまりがよく味もいいと聞く。空気の軽い村で川音とともに食する鮎はさぞおいしいことだろう。生きのいい鮎なら塩を振ってこんがり焼けば、スマートな身からするりと骨が抜ける。行楽の楽しさが伝わってくるとともにああ、とれたての鮎が食べたいと、食欲をそそられる一句でもある。『水玉模様』(2000)所収。(三宅やよい)


May 1852007

 蠅取紙飴色古き智恵に似て

                           百合山羽公

百屋や魚屋の店頭にぶら下がってた。蠅取紙と並んで、銭を入れる笊が天井から下がっている。こちらの方はまだやってるけど、蠅取紙はなくなった。小学校三年生とき、学校の帰り道に八百屋で友達とちくわを買って食べた。買い食いは学校からも親からも禁じられていたので、秘密の決断だった。美味しかったなあ。鳥取だったので、あご(飛魚)ちくわが名産。学校の遠足で海辺のちくわ工場を見学したことがあって、木造の工場の中に蠅取紙が何本も下がっていた。製造中のちくわと蠅の関係はこれ以上書くのははばかられる。この見学のあとしばらくちくわが食べられなかった。もちろん今はそんなことはないだろうけど。この句、古き智恵は蠅取紙のごときものだ、というふうに解釈すると、「古き」を嗤うアイロニーに取れる。僕は「飴色」の方に重きを置きたい。古い智恵は飴色をしている。そう思うとこの琥珀色はなかなかの重厚な色合いだ。しかも蠅まで捕るのだから捨てたものではない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1952007

 簡単に通り過ぎたる神輿かな

                           劔持靖子

年前、神幸祭の当日に神田明神界隈を歩いた。少しまとまった数の俳句を作る目的の一人吟行である。神輿、汗、熱気、祭太鼓に祭笛、などいかにもそれらしい連想が頭の中をめぐる。しかし実際には、鳥居の前の桐の花や、すれ違う洗いざらしの祭袢纏、どこからかかすかにきこえる風鈴の音に気持がいってしまう。これじゃなあ、それにしても御神輿はどこなのかしら、と思ってふと見ると、細い路地の向こうを通過中である。あわてて路地をぬけて後ろ姿を見送った。この句の作者は、私のように無計画ではない。神輿の通る道端の最前列に陣取って今か今かと待っていたのである。由緒ある祭の立派な御神輿が近づいてくるのが見える、そして目の前を汗と熱気のかたまりが通過、やはり後ろ姿を見送ったのだろう。案外あっけなかったなあ、という、ふと我に返ったような気持を、簡単に、と感情をこめずに叙したところに余韻が生まれている。通り過ぎたる、というのを、祭後(まつりあと)の寂寥感にも通ずる、と読むこともできるのかもしれないが、私には、もっとあっけらかんとした明るさと、逆に熱気に包まれた神輿の勇壮な姿が見えてくる。簡単に、という上五は、それこそ簡単には浮かばない。二十代前半からの句歴四十年の作者ならではだろう。同人誌「YUKI」(2007・夏号)所載。(今井肖子)


May 2052007

 覗きみる床屋人なし西日さす

                           加藤楸邨

越しをした先で、ゆっくりと見慣れない街並みを眺めながら地元の床屋を探すのは、ひとつの楽しみです。30分も歩けばたいていは何軒かの床屋の前を通り過ぎます。ただ、もちろんどこでもいいというものではないのです。自分に合った床屋かどうかを判断する必要があるのです。ドアを開け、待合室の椅子に座り、古い号の週刊文春などをめくっているうちに呼ばれ、白い布を掛けられ、散髪がはじまります。髪を切る技術はどうでもよいのです。要は主人が、必要以上に話しかけてこないことが肝心なのです。さて掲句です。「覗きみる」と言っているのですから、ただ通りすがったのではなく、頭を刈ってもらおうと思ってきたのでしょう。もし待っている人が多かったら、また出直そうとでも思っていたのかもしれません。ドアの硝子越しに覗けば、意外にも中にはだれも見えません。すいているからよかったと思う一方で、薄暗い蛍光灯の下の無人の室内が妙にさびしくも感じられます。深く差し込んだ西日だけが、場違いな明るさを見せています。床屋椅子(と呼ぶのでしょうか)も、わが身の体重をもてあますように、憮然として並んでいます。床屋の主人とは長年の付き合いなのでしょうか。月日と共にお互いに年齢を加え、外に立つ「三色ねじり棒」も、同じように古びてきました。ただ頭を刈りに来たのに、なぜか急にせつない思いに満たされ、いつもの扉が重くて開けられないのです。『昭和俳句の青春』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


May 2152007

 一ト電車早くもどりし新茶かな

                           加藤覚範

代の大都市の電車だと「一ト電車(ひとでんしゃ)」早く乗ったくらいでは、帰宅時間はそんなには変わらない。掲句はたぶん戦後まもなくか戦前の作句だろうから、作者がたとえ東京在住だったとしても、「一ト電車」違えばかなり帰宅時間は違ったはずである。この日は仕事が順調に進み、作者は定時に退社できたのだろう。滅多にないことなのだ。だから、いつもより一台早い時間の電車に乗って帰宅できた。通勤圏が一時間くらいであれば、家に着いてもまだ外はほんのりと明るい。それだけでもなんだか得をしたような気分の上に、奥さんが思いがけない「新茶」を淹れてくれたのだ。それを上機嫌で飲んでいる心情が、「新茶かな」の「かな」に、よく暗示されている。今年ももうこんな季節になったのかと、早い帰宅による気分の余裕がその感慨を増幅して、しみじみと新茶を味わっているというわけだ。私には帰宅後すぐに茶を飲む習慣はないけれど、今年からはじめた勤め人生活のおかげで、作者の心情はとてもよく理解できる気がする。こういうことは俳句でなければ書けないし、また書いたからといって別にどうということもないのだが、一服の「新茶」の魅力とはおそらくこうした表現にこそ込める価値があるのだと思う。句を読んで思わず「新茶」を喫したくなった読者であれば、おわかりいただけるにちがいない。『俳諧歳時記・夏』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2252007

 竹皮を脱ぎて乳もなし臍もなし

                           鈴木鷹夫

や竹林は大昔から日本にあった景色だと思い込んでいたが、平安時代にはごく珍しいものだったようだ。箒や籠などの竹細工の技術は山の民によって伝承され、時間をかけて暮らしに欠くことのできない生活用品となった。また希少であった時代から、成長の早さや生命力、空洞になっている形状などから、竹には神秘的な霊力があると信じられてきたという。実際、初夏の光が幾筋も天上から差し込む竹林のなかで、ごわごわと和毛に包まれた筍が土に近い節から順に皮を脱ぎ、青々とした若竹となる様子は他の樹木などには見られない美しい過程だろう。狂おしいほど一途に竹が伸びる様子は、萩原朔太郎の作品『竹』にまかせるとして、掲句は滑らかな竹の幹を前に、乳房や臍を探すというきわめて俗な視線を持ってきている。これにはもちろん竹取物語の「筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」を意識し、かぐや姫の十二単を脱がせるようなエロティックな想像をかきたてる。古来より人々が竹に抱いている清らかな幻想を裏切るような一句であるが、作者の諧謔は〈今生は手足を我慢かたつむり〉〈吊されし鮟鱇何か着せてやれ〉にも見られるように、くすりと微笑させたのちであるからこその、消えぬ火種のような切なさが埋め込まれている。『千年』(2004)所収。(土肥あき子)


May 2352007

 雨のふる日はあはれなり良寛坊

                           良 寛

季。良寛が住んだ越後は雨の多い土地である。梅雨時か秋の長雨か、季節はいずれであるにせよ、三日以上も雨がつづくことは珍しくない。托鉢に歩き、その途次に子どもたちと手毬をついたり、かくれんぼをしたりしてよく遊んだと伝えられる良寛にとって、雨の日はつらい。里におりて子どもたちと「ひふみよいむな 汝(な)がつけば 吾(あ)は歌ひ あがつけば汝は歌ひ つきて歌ひて・・・・」と手毬に興じた良寛にとって、恨みの雨であるかもしれない。しかし、良寛に恨みの心は皆無である。それどころか、自らを「良寛坊」などと自嘲的に対象化し、「あはれ」とも客観視して見せている。良寛持ち前のおおらかさや屈託のなさは感じられても、「哀れ」や「せつなさ」が耗も感じられないところは、さすがである。いささかも哀切ではなく、湿ってもいない。雨の日は庵にいて歌を詠み、のんびり書を読み、筆をとって楽しむことが多かった。訪れる人もなく、好きな酒を独りチビチビやっていたかもしれない。「良寛坊」を、読者が自分(あるいは誰か)と入れ替えて読むのも一興。良寛の漢詩、和歌、長歌などはよく知られているが、俳句は「焚くほどは風が持てくる落葉かな」が知られているくらいで、いわゆる名句はあまりないと言っていい。父以南は俳人だった。良寛の句は手もとにある全集に八十五句収められ、編者・大島花束は「抒情詩人としての彼の性格は、俳句の方ではその長足を伸ばすことが出来なかったらしい」と記している。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)


May 2452007

 メロンほど淡き翳もち夏の山羊

                           冬野 虹

羊は数千年も前から中近東で飼育されていたらしい。痩せた土地でも育てられる頑強さに加え、肉や乳がおいしいことが家畜として長く飼われるようになった理由なのだろう。日本でも昭和30年代初期には60万頭もの山羊が飼育されていたそうだから、農村に山羊がいる風景は別段珍しくなかったかもしれない。けれども身近に山羊を知らないものにとって、この動物はちょっと不気味で不思議な存在だ。例えば山羊の瞳は縦ではなく細い三日月を横に寝かせたような形をしている。広く水平に見渡せるよう横一文字のかたちになっているそうだけど、あの目に映る風景はどんなだろう?円盤のように平べったく横に広がっているのだろうか。掲句ではその山羊の翳に焦点があてられている。つややかな若葉を透かした木漏れ日が、ちらちら地面に躍る夏の午後。新緑は真っ白な山羊の身体にも淡いメロン色の光を落としているのだろう。薄緑の光が差す状態を山羊そのものの翳と表現したことで、初夏の明るい空気の中にいる山羊をパステル画のように淡くきれいに描き出している。画家でもある作者にとっては絵画での表現と言葉での表現は別個のものだったろうが、色や形を捉える鋭敏な感性が俳句の表現にも生かされているように思う。『雪予報』(1988)所収。(三宅やよい)


May 2552007

 初夏のわれに飽かなき人あはれ

                           永田耕衣

の句、「飽く」を現代語的に解釈すると、飽きるの意味だから、われに飽きていない人が「あはれ」だという内容。こんな自分にも飽きないで付き合ってくれているねという、例えば糟糠の妻への愛情をひとつひねった表現かと思った。最初は。しかし、だとするとどうして「飽かざる」にしないのかと不思議に思ったのだった。自分なら「われに飽かざる人あはれ」にするのにと。耕衣は俳句の技法においては、どんなカードでも切れる人だ。系譜的には誓子門の「天狼」系というふうに知られているが、「寒雷」創刊号の巻頭二席もこの人だ。なんでも自在に出してこられる俳人が「飽かざる」にしない違和感が残った。納得が行かないので調べてみると、古語の「飽く」には肯定的に用いて「満足する」という意味がある。その意味で取ると「われに満足しない人があわれだ」という、前述とは逆の内容になる。こちらだと自分の気持ちを直截に相手にぶつけている句だ。こちらの方が作者の本意だろう。耕衣の仕掛けはまだある。「あはれ」には今の語意の「哀れ」の他に「しみじみと趣き深い」という意味もある。こうなると意味の組み合わせはますます何通りにも拡散していくようにも思える。「初夏」の働きは季節感よりも枕詞のように「われ」につながるだけだ。「おい、わかるかい、この句」と耕衣が言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 2652007

 花桐やがらがらゆるみ竹庇

                           楠目橙黄子

があんなに大きい木で、薄紫の花が高い所に咲くものだということを、恥ずかしながらつい数年前知った。子供の頃桐といえば、熱中して遊んだ花札。父、母、妹と4人で座布団を囲んだ。勉強は学校で教われ、遊びは家で教えてやる、という父の方針(?)で、小学校低学年の頃から麻雀、花札、ポーカー等、賭こそしないが、めんたんぴん、リーチ、ぴかいち、フルハウスが語彙にある小学生も珍しい、というかのんきな時代だった。花札の桐の花は、いわゆる家紋のデザイン、漠然とすみれのような咲き方を想像していたので、あれが桐の花よ、と教えられた時は驚いた。一度覚えると目につくが、車窓からの遠景が多い。ある時、近所の桐の木がある空き地に、花が散り始める頃車を止めた。雨上がり、桐の花は散ってもさらに匂い立ち、手に取った花は思った以上に大きかった。植えれば二十年余りでタンスが作れるほどに成長することから、娘が生まれたら庭に桐の木を植えよともいわれたようだが、この句の桐の木も、かつてそんな思いをこめて植えられたのかもしれない。人が住む気配のない庭、庇からたれた紐の先に光る雨しずく、今はただ、桐の花の甘い香りがただようばかりである。橙黄子(とうこうし)の原句は、がらがら、の部分、くり返し記号を用いている。横書きではうまく表せなくこうなったが、こうして重なるとやはり強く、ゆるみ、と叙したやわらかさの邪魔をするようにも思われる。「ホトトギス雑詠撰集夏の部」(朝日新聞社)所載。(今井肖子)


May 2752007

 曾て住みし町よ夜店が坂なりに

                           波多野爽波

て(かつて)と読みます。季語は「夜店」。言うまでもなく路上で商いをする露天商のことです。神社やお寺の縁日になると、道の両側に色とりどりの飾り付けをした店が並びます。掲句を読んで、胸がしめつけられるような思いを抱いた人は多いと思います。「曾て住みし町よ」の詠嘆が、読み手の心を一気に掴みます。読むものそれぞれに、昔の出来事や風景が浮かんできます。また、「坂なり」という言葉も印象的です。あまり使われない言い方ですが、坂の傾斜に沿って、という意味なのでしょうか。この傾斜が、句全体に微妙な心の揺らぎをもたらしています。若い頃に暮らしていた町。若かったからできた生活。毎日のように会っていた友人たち。引っ越した日の空までもが目に浮かんできます。あれからいろいろなことがあって、歳をとり、家庭を持ち、今はもう忙しい毎日にふりまわされるばかりで、この町を思い出すことはありません。用事があって久しぶりに訪れた町です。見れば薄暗くなってゆく空の下に、まぶしいほどの光を灯して夜店が出はじめています。なつかしくも楽しい気分になって歩いていると、急に心がざわめいてきます。あの人は今どうしているだろう。うつむいて歩くゆるい下り坂に、かすかにバランスがくずれます。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


May 2852007

 広げては後悔の羽根孔雀なり

                           本田日出登

季句ではあるが、孔雀が羽根を広げるのは春から初夏にかけてが一般的らしいから、いまごろの季節の句として読んでも差し支えはなさそうだ。羽根を広げるのは雄で、求愛のためである。威嚇性はない。自分の身体を覆って余りあるほどの大きさに広げるのだから、相当に体力を消耗しそうである。見ているだけで「男はつらいよ」と思ってしまう。しかし、広げなければ雌は振り向いてもくれない。だから渾身の力を込めて広げているのだろうが、そうすれば必ず求愛が成就するというわけでもない。思いきり広げたのに、あっさりと拒絶されたりして、しょんぼりなんてことはよくあるのだろう。作者はそこに着目して、「後悔」という人間臭い心理を持ち込んでいる。この着眼によって「孔雀なり」とは孔雀そのものであると同時に、人間である作者自身でもあることを暗示している。となれば、作者の「後悔の羽根」とは求愛のための衣装にとどまらず、生きてきた諸場面でのおのれのアピール行為全般に及ぶ。これまでに力を込めて、何度自身をアピールしてきたことか。それが失敗したときの後悔ばかりが、思い出されてならないのである。このときに、決して孔雀も人間も誇らかな生き物ではありえない。華麗な孔雀の姿に、かえって哀しみを覚えている。この感性や、良し。『みなかみ』(2007)所収。(清水哲男)


May 2952007

 夢十夜一夜は桐の花の下

                           西嶋あさ子

んな夢を見た、で始まる夏目漱石の幻想的な短編小説『夢十夜』。とある一夜は桐の花の下で語られると掲句はいう。思わず本書を読み返してみたが、実際に桐の花が出てくる話しを見つけることはできなかった。掲句は単に原作の一部をなぞっているのではなく、作者のなかのストーリーの残像なのだろう。ある物語を思い出すとき、文章の一部が鮮明に浮かびあがる場合と、浮遊している一場面の印象が手がかりとなる場合がある。後者は、文字列ではない分、ひとつの物語が大きなかたまりとして内包されているわけで、その一端がほどけさえすれば、みるみる全文が暗闇から引き出される。掲句の作者のなかで語られた桐の花が象徴する一夜は一体どんな物語だったのだろう。月光のなかで震える巫女の鈴のような桐の花房を見あげて思いをめぐらせる。『夢十夜』の第一夜で、死んだら大きな真珠貝で穴を掘って埋めてくれと頼む女は、そうして「百年待って下さい」という。漱石が本書を発表した1908年から今年で九十九年。「百年はもう来ていたんだな」、第一夜はこうして終わる。それぞれの胸のなかに眠らせていた十の夜が百年の時を越えて次々と目を覚ます。桐の花は闇に押し出されるようにして咲く花である。『埋火』(2005)所収。(土肥あき子)


May 3052007

 骨までもをんなのかたち多佳子の忌

                           阿部知代

のう五月二十九日は多佳子忌だった。多佳子に師事していた津田清子は「対象を真正面に引据え、揺さぶり、炎え、ときに突放した」と多佳子句を簡明に評している。多佳子の句の情感の濃さ激しさは、改めて言うまでもない。妙な言い方だが、頭のてっぺんから爪先まで「をんな」そのものであった。もちろん甘口の「をんな」ではなく、辛口の「をんな」のなかに、匂い立つような「をんな」の芳醇さが凛として炎え立っていた。その句や生き方のみならず、亡くなってなお骨までも「をんなのかたち」と、骨で多佳子をずばりとらえて見せた知代の感性もあっぱれ、只者ではない。かの「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の句が、女性ならではの句と言われるように、掲出句もまた女性ならではの傑作と言ってよかろう。女の鋭さが女の鋭さの究極をとらえて見せた。思わずドキッとさせられるような尖った熱さを突きつけている。多佳子の忌が、単に故人を愛惜し偲ぶだけにとどまらず、「をんな」の骨として今なお知代にはなまなましく感じられるのだろう。「骨までをんなのかたち」である「をんな」などざらにいるとは思われない。それにしても何ともエロティックな視点ではある。骨までが多佳子の意思であるかのように、今なお「をんな」として生きているようだ。知代には「添ふごとに独りは冴えて太宰の忌」という句もある。テレビ局のアナウンサーとして活躍し、「かいぶつ句会」「面」に所属している。『日本語あそび「俳句の一撃」』(2003)所収。(八木忠栄)


May 3152007

 一枚の早苗の空となりにけり

                           松本秀一

者は愛媛県宇和島市で農業を営みながら版画を製作し、俳句を詠む生活を送っている。植物を題材にした繊細な銅版画同様、四季折々の対象にそっと寄り添うやさしい心と自然な息遣いが句集から伝わってくる。都会で満員電車に揺られて働くものから見れば、季節の運行に合わせての労働の日々は羨ましい限りだが、作物の出来不出来に、不順な天候に、頭を悩ますことも多々あるに違いない。田植えの時期は地方によって違いがあるだろうが、中国、四国地方は早くも水不足が報じられている。今年の田植えは大丈夫だろうか。水を入れた田は足がずぶずぶ沈んで、慣れていないと進むのも下がるのも難儀するものだが作者は一心に手際よく苗を植えてゆくようだ。「早苗植う思考と歩行まつすぐに」雑念があってはいけないのだろう。早苗を植え終わったあとの田に空が、雲が鮮明に映る。「早苗の空」という言葉に一枚の早苗田が空に転化したような大きな広がりを感じさせる。縦横きれいに植え終わった初々しい早苗の緑が目にしみる。「なりにけり」とやや古風な言い回しに早苗田を静かな安堵とともに見つめている作者の心持ちが実感として伝わってくる。『早苗の空』(2006)所収。(三宅やよい)




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