2007N512句(前日までの二句を含む)

May 1252007

 病身の足のうら美しく夏

                           井上花鳥子

常生活では、寝ている時以外はほとんど、足のうらは靴に閉じこめられ押しつけられ、自重と垂直抗力のせめぎ合いの中にいる。医師であった作者だが、専門は精神神経科。〈梅雨の月あした切らるゝ胸の上に〉の句と前後していることからもこの句は、大学卒業の翌年、自身が入院していた時の作と思われる。大方病は癒えて、退院も近い頃だろう。あらためて、筋肉が落ち細くなった体を確認。足をさすりつつ折り、その先の足のうらを見る。足のうらにとっても思わぬ長期休暇、解放され続けていたその皮膚はやわらかい。それはあらためて、病の重さを実感するほの白さであり、すこしかなしい美しさでもある。ここまでの十五音の重さを、最後の、夏、が力強く受けとめる。静と動の美しさ。溢れんばかりの緑と生命力溢れる初夏の風に、若い作者の決意と希望が感じられる。その後〈吾を殴りたりし患者と日向ぼこ〉等、医師としての日常を詠んだ句も多くある作者の俳号の花鳥子(かちょうし)は、本名の勝義と、花鳥諷詠にちなんでとのこと。郵便屋に「いのうえかちょこさ〜ん」と呼ばれて情けない思いをしたという逸話も。『辰巳』(1984)所載。(今井肖子)


May 1152007

 品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る

                           森田緑郎

郎さんはどこから出てどこへ帰るおつもりなのか。品川は多くの鉄道路線が通っている。僕は家が横浜なので東京方面で用事を済ませると山手線が品川に着く前に乗り換え作戦を考える。東海道線、京浜東北線、京浜急行。この三択だ。横須賀線に乗って万が一乗り過ごすととんでもないところを回ってえらい時間がかかるのでこれはだめ。その前に新宿、渋谷、恵比寿を通る場合は、湘南ライナーも有効だが、これは終電が早いので、「酔い」がまわるころはもう選択外である。しかし、どの選択も猛烈な混み具合を覚悟せねばならない。とにかく足が宙に浮くというのも大げさではないくらい。僕は怒りと諦めの中でこの苦痛に耐える。家畜運搬車とか、「アウシュビッツ行き」というような不吉な言葉が頭を掠める。「労働者よ、怒れ。電車を停めて革命だ」そうしたら品川なんか毎日が騒乱罪だ。戦後すぐの混雑を体験している人も同様の思いだろう。「客車に窓から乗ったことがある」って僕が言ったら、詩人の井川博年さんなんか、「僕は網棚に寝たことがある」って言ってたもんな。緑郎さんの酔いは紳士の酔いだ。混雑もまた良し、初夏の夜空を眺めて行こうよ、と言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1052007

 そらまめのみんな笑つて僧のまへ

                           奥坂まや

らまめは莢が空にむかって茎につくことから「空豆」。莢のかたちが蚕の繭に似ていることから「蚕豆」の字があてられるようになったという。「おたふく豆」は、そらまめの中でも特に大粒の実の品種を指すようだ。この句の面白さはそらまめがお多福の顔になってコロコロ笑っている景と、講話を聴くため僧の前に並んでいる人達が笑っている情景の二つが同時に含まれているように思えるところである。これは上五の「の」が軽い切れを含むとともに、「みんな」という不特定多数を表す言葉に掛かっていくからだろう。インターネット事典ウィキペディアによると、そらまめは花に黒い斑点があり、豆にも黒い線が入っている。そのせいか古代ギリシャやローマでは葬儀の食物に用いられたそうだ。ピタゴラスはそらまめの茎が冥界とつながっており、莢の中には死者の魂が入っていると考えたという。僧侶はあの世とこの世の橋渡しを司る人。そらまめと僧の結びつきを考えると、この情景はこの世の情景を描きながらも、日常からちょっとはみ出た次元の世界を描いているように想像できる。時空を超えたその世界にそらまめの「笑い」を響かせると、その笑い声はただ明るい童話的な笑いでなく、不気味な哄笑の雰囲気もあり、それもまた面白く感じられる。『縄文』(2005)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます