2007N513句(前日までの二句を含む)

May 1352007

 嶺暸かに初夏の市民ゆく

                           飯田龍太

年の夏からこの欄を担当することになり、それまで句を読む習慣のなかったわたしは、にわかに勉強を始めたのでした。ただ、広大な俳句の世界の、どこから手をつけたらよいのかがわからず、とりあえず勤め先近くの図書館の書棚に向かい、片っ端から借りてきて読んだのです。そんな中で、もっとも感銘を受けたのが、飯田龍太著『鑑賞歳時記』(角川書店・1995)の4冊でした。句の鑑賞の見事さはもちろんですが、コラム<実作へのヒント>は、どの一行も意味が深く、俳句を詠むものに限らず、文芸に携わるものすべてにとって、精神にまっすぐに届く貴重な文章だと思いました。さて、その飯田氏の句です。暸か(あきらか)と読みます。描かれているのは、それほど遠くない空に、山を見ることのできる地方都市でしょうか。夏が来て、自然に背筋が伸び、人は上空を見つめるようになります。頂上まではっきりと見える山は、初夏にその距離を近づけ、町に歩み寄ってきたかのようです。広々としたこころの開放を感じさせる、さわやかな作品です。「市民」という言葉から、日々を地道に生きる市井の人々の姿が思い浮かびます。作者のまなざしの優しい低さを感じることが出来ます。「市民ゆく」の「ゆく」は、実際に「歩む」意味とともに、生きて生活するすべての行為を含んでいるのでしょうか。生を持つもの持たざるもの、双方を美しく讃えて、句は初夏を見事に取り込みます。『角川大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 1252007

 病身の足のうら美しく夏

                           井上花鳥子

常生活では、寝ている時以外はほとんど、足のうらは靴に閉じこめられ押しつけられ、自重と垂直抗力のせめぎ合いの中にいる。医師であった作者だが、専門は精神神経科。〈梅雨の月あした切らるゝ胸の上に〉の句と前後していることからもこの句は、大学卒業の翌年、自身が入院していた時の作と思われる。大方病は癒えて、退院も近い頃だろう。あらためて、筋肉が落ち細くなった体を確認。足をさすりつつ折り、その先の足のうらを見る。足のうらにとっても思わぬ長期休暇、解放され続けていたその皮膚はやわらかい。それはあらためて、病の重さを実感するほの白さであり、すこしかなしい美しさでもある。ここまでの十五音の重さを、最後の、夏、が力強く受けとめる。静と動の美しさ。溢れんばかりの緑と生命力溢れる初夏の風に、若い作者の決意と希望が感じられる。その後〈吾を殴りたりし患者と日向ぼこ〉等、医師としての日常を詠んだ句も多くある作者の俳号の花鳥子(かちょうし)は、本名の勝義と、花鳥諷詠にちなんでとのこと。郵便屋に「いのうえかちょこさ〜ん」と呼ばれて情けない思いをしたという逸話も。『辰巳』(1984)所載。(今井肖子)


May 1152007

 品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る

                           森田緑郎

郎さんはどこから出てどこへ帰るおつもりなのか。品川は多くの鉄道路線が通っている。僕は家が横浜なので東京方面で用事を済ませると山手線が品川に着く前に乗り換え作戦を考える。東海道線、京浜東北線、京浜急行。この三択だ。横須賀線に乗って万が一乗り過ごすととんでもないところを回ってえらい時間がかかるのでこれはだめ。その前に新宿、渋谷、恵比寿を通る場合は、湘南ライナーも有効だが、これは終電が早いので、「酔い」がまわるころはもう選択外である。しかし、どの選択も猛烈な混み具合を覚悟せねばならない。とにかく足が宙に浮くというのも大げさではないくらい。僕は怒りと諦めの中でこの苦痛に耐える。家畜運搬車とか、「アウシュビッツ行き」というような不吉な言葉が頭を掠める。「労働者よ、怒れ。電車を停めて革命だ」そうしたら品川なんか毎日が騒乱罪だ。戦後すぐの混雑を体験している人も同様の思いだろう。「客車に窓から乗ったことがある」って僕が言ったら、詩人の井川博年さんなんか、「僕は網棚に寝たことがある」って言ってたもんな。緑郎さんの酔いは紳士の酔いだ。混雑もまた良し、初夏の夜空を眺めて行こうよ、と言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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