阪神2-3広島。これでカープに7連敗か。空は晴れても心は闇だ。タメイキ……。(哲




2007ソスN5ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1852007

 蠅取紙飴色古き智恵に似て

                           百合山羽公

百屋や魚屋の店頭にぶら下がってた。蠅取紙と並んで、銭を入れる笊が天井から下がっている。こちらの方はまだやってるけど、蠅取紙はなくなった。小学校三年生とき、学校の帰り道に八百屋で友達とちくわを買って食べた。買い食いは学校からも親からも禁じられていたので、秘密の決断だった。美味しかったなあ。鳥取だったので、あご(飛魚)ちくわが名産。学校の遠足で海辺のちくわ工場を見学したことがあって、木造の工場の中に蠅取紙が何本も下がっていた。製造中のちくわと蠅の関係はこれ以上書くのははばかられる。この見学のあとしばらくちくわが食べられなかった。もちろん今はそんなことはないだろうけど。この句、古き智恵は蠅取紙のごときものだ、というふうに解釈すると、「古き」を嗤うアイロニーに取れる。僕は「飴色」の方に重きを置きたい。古い智恵は飴色をしている。そう思うとこの琥珀色はなかなかの重厚な色合いだ。しかも蠅まで捕るのだから捨てたものではない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1752007

 鮎焼くや空気の軽き村にゐて

                           橋場千舟

うすぐ解禁になる鮎釣りを心待ちにされている方も多いだろう。「空気の軽き村」という表現に身の装いも軽く田舎に遊ぶ愉快な気分と、すがすがしい空気との調和が感じられる。真青な空と山。風通しのよい林から鳥の囀りも聞こえてくるかもしれない。「ゐて」とあるから作者は村に住んでいるのではなく、都会の喧騒から離れたこの場所へ家族や友人と連れ立って遊びに来ているのだろう。澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んで、初夏の休日を楽しむ。川原の石を積んで即席の石窯を作り、釣りたての鮎を串にさして焼くのもいい。家や人が密集する街で忙しい日々を送っていると、ゆったりと自然に心を遊ばすのを忘れがちになる。こんな村で深呼吸すれば肺のすみずみまできれいになりそうだ。同じ川の鮎でも上流域でとれる鮎ほど身のしまりがよく味もいいと聞く。空気の軽い村で川音とともに食する鮎はさぞおいしいことだろう。生きのいい鮎なら塩を振ってこんがり焼けば、スマートな身からするりと骨が抜ける。行楽の楽しさが伝わってくるとともにああ、とれたての鮎が食べたいと、食欲をそそられる一句でもある。『水玉模様』(2000)所収。(三宅やよい)


May 1652007

 神輿いま危き橋を渡るなり

                           久米三汀

は夏祭の総称であり、神輿も夏の季語。他は春祭、秋祭となる。大きな祭に神輿は付きもの。ワッセワッセと勇ましい神輿が、今まさに町はずれの橋を渡っている光景であろうか。「危き橋」という対比的なアクセントが効いている。現今の橋は鉄やコンクリートで頑丈に造られているが、以前は古い木橋や土橋が危い風情で架かっていたりした。もともと勇ましい熱気で担がれて行く神輿だけれど、「危き橋」によっていっそう勢いが増し、その地域一帯の様子までもが見えてくるようである。世間には4トン半という黄金神輿(富岡八幡宮)もあれば、子どもたちが担ぐ可愛い樽みこしもある。掲出句は巨大な神輿だから危いのではない。危い橋に不釣合いなしっかりした神輿が、祭の勢いで少々強引に渡って行く光景だろう。向島に生まれ住んだ富田木歩の句に「街折れて闇にきらめく神輿かな」がある。今年の浅草三社祭は明後十八日から始まる。昨年は神輿に大勢の人が乗りすぎ、担ぎ棒が折れるという事故が起きた。そうした危険に加え、神輿に人が乗るのは神霊を汚す行為だ、という主催者側の考え方も聞こえてくる。今年はどういうことに相成るのか――。三汀・久米正雄は碧梧桐門。一高在学中に新傾向派の新星として俳壇に輝いた。のち、忽然と文壇に転じた。戦後は俳誌「かまくら」を出し、鎌倉の文士たちと句作を楽しんだ。「泳ぎ出でて日本遠し不二の山」三汀。句集に『牧唄』『返り花』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます