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May 3052007

 骨までもをんなのかたち多佳子の忌

                           阿部知代

のう五月二十九日は多佳子忌だった。多佳子に師事していた津田清子は「対象を真正面に引据え、揺さぶり、炎え、ときに突放した」と多佳子句を簡明に評している。多佳子の句の情感の濃さ激しさは、改めて言うまでもない。妙な言い方だが、頭のてっぺんから爪先まで「をんな」そのものであった。もちろん甘口の「をんな」ではなく、辛口の「をんな」のなかに、匂い立つような「をんな」の芳醇さが凛として炎え立っていた。その句や生き方のみならず、亡くなってなお骨までも「をんなのかたち」と、骨で多佳子をずばりとらえて見せた知代の感性もあっぱれ、只者ではない。かの「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の句が、女性ならではの句と言われるように、掲出句もまた女性ならではの傑作と言ってよかろう。女の鋭さが女の鋭さの究極をとらえて見せた。思わずドキッとさせられるような尖った熱さを突きつけている。多佳子の忌が、単に故人を愛惜し偲ぶだけにとどまらず、「をんな」の骨として今なお知代にはなまなましく感じられるのだろう。「骨までをんなのかたち」である「をんな」などざらにいるとは思われない。それにしても何ともエロティックな視点ではある。骨までが多佳子の意思であるかのように、今なお「をんな」として生きているようだ。知代には「添ふごとに独りは冴えて太宰の忌」という句もある。テレビ局のアナウンサーとして活躍し、「かいぶつ句会」「面」に所属している。『日本語あそび「俳句の一撃」』(2003)所収。(八木忠栄)


May 2952007

 夢十夜一夜は桐の花の下

                           西嶋あさ子

んな夢を見た、で始まる夏目漱石の幻想的な短編小説『夢十夜』。とある一夜は桐の花の下で語られると掲句はいう。思わず本書を読み返してみたが、実際に桐の花が出てくる話しを見つけることはできなかった。掲句は単に原作の一部をなぞっているのではなく、作者のなかのストーリーの残像なのだろう。ある物語を思い出すとき、文章の一部が鮮明に浮かびあがる場合と、浮遊している一場面の印象が手がかりとなる場合がある。後者は、文字列ではない分、ひとつの物語が大きなかたまりとして内包されているわけで、その一端がほどけさえすれば、みるみる全文が暗闇から引き出される。掲句の作者のなかで語られた桐の花が象徴する一夜は一体どんな物語だったのだろう。月光のなかで震える巫女の鈴のような桐の花房を見あげて思いをめぐらせる。『夢十夜』の第一夜で、死んだら大きな真珠貝で穴を掘って埋めてくれと頼む女は、そうして「百年待って下さい」という。漱石が本書を発表した1908年から今年で九十九年。「百年はもう来ていたんだな」、第一夜はこうして終わる。それぞれの胸のなかに眠らせていた十の夜が百年の時を越えて次々と目を覚ます。桐の花は闇に押し出されるようにして咲く花である。『埋火』(2005)所収。(土肥あき子)


May 2852007

 広げては後悔の羽根孔雀なり

                           本田日出登

季句ではあるが、孔雀が羽根を広げるのは春から初夏にかけてが一般的らしいから、いまごろの季節の句として読んでも差し支えはなさそうだ。羽根を広げるのは雄で、求愛のためである。威嚇性はない。自分の身体を覆って余りあるほどの大きさに広げるのだから、相当に体力を消耗しそうである。見ているだけで「男はつらいよ」と思ってしまう。しかし、広げなければ雌は振り向いてもくれない。だから渾身の力を込めて広げているのだろうが、そうすれば必ず求愛が成就するというわけでもない。思いきり広げたのに、あっさりと拒絶されたりして、しょんぼりなんてことはよくあるのだろう。作者はそこに着目して、「後悔」という人間臭い心理を持ち込んでいる。この着眼によって「孔雀なり」とは孔雀そのものであると同時に、人間である作者自身でもあることを暗示している。となれば、作者の「後悔の羽根」とは求愛のための衣装にとどまらず、生きてきた諸場面でのおのれのアピール行為全般に及ぶ。これまでに力を込めて、何度自身をアピールしてきたことか。それが失敗したときの後悔ばかりが、思い出されてならないのである。このときに、決して孔雀も人間も誇らかな生き物ではありえない。華麗な孔雀の姿に、かえって哀しみを覚えている。この感性や、良し。『みなかみ』(2007)所収。(清水哲男)




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