昨日はご迷惑をおかけしました。これで元に戻ったとも、実は言えません。調査中。




2007ソスN6ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0162007

 蚊柱や吹きおろされてまたあがる

                           村上鬼城

の「や」の用法がめっきりみられなくなったのは現代の特徴的傾向。一句一章の主格の「や」。「は」や「が」と同じ意味だが、現代俳人のほとんどは、ここに「の」を置くだろう。「蚊柱の吹きおろされてまたあがる」。どちらがいいか。切れ字をおくと俳句の格調が出るが、この古格のような渋さを俳句情趣臭として敬遠するのだろう。後者はすんなり読めるが説明的な感じが否めない。説明的即散文的と言ってもいい。困るのは「や」に過剰な切れを想定する読み方で、蚊柱を背景として、ふきおろされてまたあがるものは蚊柱ではないとする鑑賞もありそうである。省略されているのは「我れ」だとしたりする。切れ字や「切れ」に大きな断絶を負わせる傾向の氾濫は、二物衝撃(二句一章)の技法が俳句の典型的な用法として定着したことと、「写生」の意味が次第に拡大解釈を許す方向に向っていることが影響している。結果、緩慢な切れの用法などは怖くて使えず、「の」に頼ることとなる。句の意味は明瞭。不定形の塊としての蚊柱の動きがよく出ている。一句一章主格の「や」もお忘れなくというところ。僕も是非使ってみたい。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 3152007

 一枚の早苗の空となりにけり

                           松本秀一

者は愛媛県宇和島市で農業を営みながら版画を製作し、俳句を詠む生活を送っている。植物を題材にした繊細な銅版画同様、四季折々の対象にそっと寄り添うやさしい心と自然な息遣いが句集から伝わってくる。都会で満員電車に揺られて働くものから見れば、季節の運行に合わせての労働の日々は羨ましい限りだが、作物の出来不出来に、不順な天候に、頭を悩ますことも多々あるに違いない。田植えの時期は地方によって違いがあるだろうが、中国、四国地方は早くも水不足が報じられている。今年の田植えは大丈夫だろうか。水を入れた田は足がずぶずぶ沈んで、慣れていないと進むのも下がるのも難儀するものだが作者は一心に手際よく苗を植えてゆくようだ。「早苗植う思考と歩行まつすぐに」雑念があってはいけないのだろう。早苗を植え終わったあとの田に空が、雲が鮮明に映る。「早苗の空」という言葉に一枚の早苗田が空に転化したような大きな広がりを感じさせる。縦横きれいに植え終わった初々しい早苗の緑が目にしみる。「なりにけり」とやや古風な言い回しに早苗田を静かな安堵とともに見つめている作者の心持ちが実感として伝わってくる。『早苗の空』(2006)所収。(三宅やよい)


May 3052007

 骨までもをんなのかたち多佳子の忌

                           阿部知代

のう五月二十九日は多佳子忌だった。多佳子に師事していた津田清子は「対象を真正面に引据え、揺さぶり、炎え、ときに突放した」と多佳子句を簡明に評している。多佳子の句の情感の濃さ激しさは、改めて言うまでもない。妙な言い方だが、頭のてっぺんから爪先まで「をんな」そのものであった。もちろん甘口の「をんな」ではなく、辛口の「をんな」のなかに、匂い立つような「をんな」の芳醇さが凛として炎え立っていた。その句や生き方のみならず、亡くなってなお骨までも「をんなのかたち」と、骨で多佳子をずばりとらえて見せた知代の感性もあっぱれ、只者ではない。かの「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の句が、女性ならではの句と言われるように、掲出句もまた女性ならではの傑作と言ってよかろう。女の鋭さが女の鋭さの究極をとらえて見せた。思わずドキッとさせられるような尖った熱さを突きつけている。多佳子の忌が、単に故人を愛惜し偲ぶだけにとどまらず、「をんな」の骨として今なお知代にはなまなましく感じられるのだろう。「骨までをんなのかたち」である「をんな」などざらにいるとは思われない。それにしても何ともエロティックな視点ではある。骨までが多佳子の意思であるかのように、今なお「をんな」として生きているようだ。知代には「添ふごとに独りは冴えて太宰の忌」という句もある。テレビ局のアナウンサーとして活躍し、「かいぶつ句会」「面」に所属している。『日本語あそび「俳句の一撃」』(2003)所収。(八木忠栄)




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