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2007ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262007

 雷のごと滴りのごと太鼓打つ

                           村松紅花

語は季節を表す言葉だが、十七音の短い詩を俳句にするために適当にポケットから出してくっつける言葉ではなく、そこから俳句が生まれるという思いをこめて季題と言う、と俳句を始めた時に教わった。四季折々の自然の中で得る感動から俳句が生まれる時、そこには頭で考えていることを越えた何かがある、と感じることはよくある。しかしこの句、雷、滴り(したたり)、共に夏季だが、雷の句でも滴りの句でもない、太鼓の句である。天に轟くかと思えば地の底から響き、ときに咆哮し、ときに囁く太鼓のリズムのうねりの中に作者はいる。体の芯を揺さぶられるような強い感動が、一句となったのだろう。じっと目を閉じて、太鼓の音が作り出す世界に身をゆだねているうち、作者の中に存在している多くの言葉の中から自然に、雷、滴り、が浮かび出て、感動をそれらの季節の言葉に託して句が生まれた。縁打ち(ふちうち)を聞きながら、滴り、を得たところで句になったのではないかと思われるが、二つの言葉は、重量感と清涼感、激しさと静けさ、正反対でありながら、共に水を連想させ、その言葉の選択も絶妙である。そして、できあがった句には、太鼓の響きと共に夏の空が広がってくる。『破れ寺や』(1999)所収。(今井肖子)


June 0162007

 蚊柱や吹きおろされてまたあがる

                           村上鬼城

の「や」の用法がめっきりみられなくなったのは現代の特徴的傾向。一句一章の主格の「や」。「は」や「が」と同じ意味だが、現代俳人のほとんどは、ここに「の」を置くだろう。「蚊柱の吹きおろされてまたあがる」。どちらがいいか。切れ字をおくと俳句の格調が出るが、この古格のような渋さを俳句情趣臭として敬遠するのだろう。後者はすんなり読めるが説明的な感じが否めない。説明的即散文的と言ってもいい。困るのは「や」に過剰な切れを想定する読み方で、蚊柱を背景として、ふきおろされてまたあがるものは蚊柱ではないとする鑑賞もありそうである。省略されているのは「我れ」だとしたりする。切れ字や「切れ」に大きな断絶を負わせる傾向の氾濫は、二物衝撃(二句一章)の技法が俳句の典型的な用法として定着したことと、「写生」の意味が次第に拡大解釈を許す方向に向っていることが影響している。結果、緩慢な切れの用法などは怖くて使えず、「の」に頼ることとなる。句の意味は明瞭。不定形の塊としての蚊柱の動きがよく出ている。一句一章主格の「や」もお忘れなくというところ。僕も是非使ってみたい。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 3152007

 一枚の早苗の空となりにけり

                           松本秀一

者は愛媛県宇和島市で農業を営みながら版画を製作し、俳句を詠む生活を送っている。植物を題材にした繊細な銅版画同様、四季折々の対象にそっと寄り添うやさしい心と自然な息遣いが句集から伝わってくる。都会で満員電車に揺られて働くものから見れば、季節の運行に合わせての労働の日々は羨ましい限りだが、作物の出来不出来に、不順な天候に、頭を悩ますことも多々あるに違いない。田植えの時期は地方によって違いがあるだろうが、中国、四国地方は早くも水不足が報じられている。今年の田植えは大丈夫だろうか。水を入れた田は足がずぶずぶ沈んで、慣れていないと進むのも下がるのも難儀するものだが作者は一心に手際よく苗を植えてゆくようだ。「早苗植う思考と歩行まつすぐに」雑念があってはいけないのだろう。早苗を植え終わったあとの田に空が、雲が鮮明に映る。「早苗の空」という言葉に一枚の早苗田が空に転化したような大きな広がりを感じさせる。縦横きれいに植え終わった初々しい早苗の緑が目にしみる。「なりにけり」とやや古風な言い回しに早苗田を静かな安堵とともに見つめている作者の心持ちが実感として伝わってくる。『早苗の空』(2006)所収。(三宅やよい)




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