早慶戦。今日は斉藤が投げるんだろうが多忙で見に行けない。早く隠居したいよ。(哲




2007ソスN6ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0362007

 夏場所やひかへぶとんの水あさぎ

                           久保田万太郎

存知のように夏場所は白鵬が連続優勝を飾り、来場所からは久々の2横綱になります。と、知ったようなことを書きましたが、最近は相撲をテレビ観戦する習慣もなく新聞の大きな見出しに目を通すばかりです。掲句を読んでまず注目したのは「水あさぎ」という語でした。浅学にも、色の名称であることを知らず、いったいこのあざやかな語はどういう意味を持っているのだろうと思ったのです。調べてみれば、「あさぎ」は「浅葱」と書いて、「みずいろ」のことでした。さらに「水あさぎ」は「あさぎ」のさらに薄い色ということです。そういわれて見れば、「水あさぎ」という音韻は、すずしげな水面を連想させます。句の構成はいたって単純です。「夏場所」から「ひかへぶとん」へ連想はつながり、「ひかへぶとん」の属性(色)として「水あさぎ」が置かれているだけです。言い換えれば中七の「ひかへぶとん」が連結器の役割をして、両腕にイメージの強い2語がぶら下がっている格好です。しかし、構成は単純でも、出来上がった作品は独自の世界を見せています。「ひかへぶとん」の「ひかへ」が、「あさぎ」と相まって句全体に奥ゆかしさをもたらしています。みずみずしく力の漲った、透き通るような句です。作者には「夏場所やもとよりわざのすくひなげ」という句もあります。夏場所についての解説を含め、興味のある方は増俳2000年5月10日をクリックして下さい。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


June 0262007

 雷のごと滴りのごと太鼓打つ

                           村松紅花

語は季節を表す言葉だが、十七音の短い詩を俳句にするために適当にポケットから出してくっつける言葉ではなく、そこから俳句が生まれるという思いをこめて季題と言う、と俳句を始めた時に教わった。四季折々の自然の中で得る感動から俳句が生まれる時、そこには頭で考えていることを越えた何かがある、と感じることはよくある。しかしこの句、雷、滴り(したたり)、共に夏季だが、雷の句でも滴りの句でもない、太鼓の句である。天に轟くかと思えば地の底から響き、ときに咆哮し、ときに囁く太鼓のリズムのうねりの中に作者はいる。体の芯を揺さぶられるような強い感動が、一句となったのだろう。じっと目を閉じて、太鼓の音が作り出す世界に身をゆだねているうち、作者の中に存在している多くの言葉の中から自然に、雷、滴り、が浮かび出て、感動をそれらの季節の言葉に託して句が生まれた。縁打ち(ふちうち)を聞きながら、滴り、を得たところで句になったのではないかと思われるが、二つの言葉は、重量感と清涼感、激しさと静けさ、正反対でありながら、共に水を連想させ、その言葉の選択も絶妙である。そして、できあがった句には、太鼓の響きと共に夏の空が広がってくる。『破れ寺や』(1999)所収。(今井肖子)


June 0162007

 蚊柱や吹きおろされてまたあがる

                           村上鬼城

の「や」の用法がめっきりみられなくなったのは現代の特徴的傾向。一句一章の主格の「や」。「は」や「が」と同じ意味だが、現代俳人のほとんどは、ここに「の」を置くだろう。「蚊柱の吹きおろされてまたあがる」。どちらがいいか。切れ字をおくと俳句の格調が出るが、この古格のような渋さを俳句情趣臭として敬遠するのだろう。後者はすんなり読めるが説明的な感じが否めない。説明的即散文的と言ってもいい。困るのは「や」に過剰な切れを想定する読み方で、蚊柱を背景として、ふきおろされてまたあがるものは蚊柱ではないとする鑑賞もありそうである。省略されているのは「我れ」だとしたりする。切れ字や「切れ」に大きな断絶を負わせる傾向の氾濫は、二物衝撃(二句一章)の技法が俳句の典型的な用法として定着したことと、「写生」の意味が次第に拡大解釈を許す方向に向っていることが影響している。結果、緩慢な切れの用法などは怖くて使えず、「の」に頼ることとなる。句の意味は明瞭。不定形の塊としての蚊柱の動きがよく出ている。一句一章主格の「や」もお忘れなくというところ。僕も是非使ってみたい。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます